128「ほかでもない私が、その頚を落としたかったと」
「紫蓮」
黄昏がせまり、後宮に帰ろうと橋を渡りかけていた紫蓮の背に声をかけるものがいた。振りかえれば、帳のような髪を風になびかせて絳がたたずんでいた。まばらに紅葉をはじめた秋の風景を背にして、彼の双眸が微か、紅を帯びる。
「あなたは死者に嘘はつかないとおもっていました。なぜ、毒ではないと?」
紫蓮はそれにはこたえなかった。孝服のような白い袖を拡げ、絳にたいしてまっすぐな眼差しをむける。
「毒に毒をかえすのはきれいなやりかたではないよ。不条理で、卑劣だ」
「そうですね。だからこそ、あなたは私を許さなくてよかった。私は重い罪をおかした。公正を理念とした先帝ならば、このようなやりかたは認めなかったでしょう」
「でも、きれいなやりかたでは、裁けなかったことだろうね」
宰相ほどに身分のあるものを裁くことは、宮廷では不可能だ。先帝を暗殺したという証拠もない。毒菫も毒肝も漢方だといわれたら、それまでだ。
「だから、ありがとう」
紫蓮は芙蓉の眥を咲かせて、微笑みかける。
絳は胸をつかれたように視線を彷徨わせ、眉根を寄せた。
「ですが、これで先帝崩御の真実を明かすことはできなくなってしまった」
「葬礼というのは死者のためならず。復讐もしかりだよ。遺されたものが愛するものの死を終わらせるためにすることだ。いまさら、真実を明かしても、先帝も母様も還ってはこない」
「それでも先帝の雪辱は果たせたはずです」
理解できないとばかりに絳は頭を振る。
「なにより、あなたの誇りには瑕がついたはずだ」
「そうだね」
紫蓮は事実を欺いて、信条をまげた。
「でも、毒だといっても、結局は真実にはならなかった。違うかな」
絳が先帝に毒を盛ったということになれば、それもまた、真実からは程遠い。
紫蓮は橋から身を乗りだして、まばらに咲き残っている蓮に視線を落とす。水鏡には黄昏の空に漂う盆の月が映っていた。
「それにね、僕は死にたがりにつきあわされるなんて御免だよ」
「は……見抜かれていたんですね」
絳は崩れるように息を洩らした。
「いっただろう、僕に嘘をつかないほうがいいってね」
「ふふ、違いないですね」
風が吹きつける。みなもが浪だって、月が崩れた。
「先帝を怨んでいた、というのは嘘ではありませんよ。ですが、身分の差をなくしたいという彼の理想は――きれいだった、私怨を捨てて忠誠を誓うほどには」
絳は紫蓮の側まできて、橋にもたれかかった。
「良家に産まれたら能がなくとも昇進がきまり、そうでないものは功績をあげてもほかに奪われ、最後は罪をかぶせられて息絶える。そんな不条理ばかりが是と罷りとおるなか、先帝だけが非としてくださった。彼の理想が実現するのならばこの眼で見たいと」
紫蓮は先帝に逢ったことが、ない。
母親からは仁愛に満ちた皇帝だと聴いてはいたが、母親をひとりぼっちにした父親が、それほど素晴らしい男だとは想えず、恨んでいた。だが、絳の言葉を通じて、いまはじめてに父親と逢ったような心地になる。
「だというのに、陛下は志なかばで惨たらしく息絶えた。あげく、死後は祟られた皇帝と民から蔑まれることになった。その時に想ったのですよ」
絳の唇が微かにゆがむ。
嗤笑だ。せつなく、それでいて、異様な渇望をはらんでいた。
「こんなことになるのならば、ほかでもない私が、その頚を落としたかったと」
お読みいただき、ありがとうございます。
あと残り一話です。春の風とともに完結になります。そのときに書籍化の続報をさせていただきますので、しばらくお待ちいただければ幸甚でございます。