8
半分だけの月が見下ろす夜。
大きな白い石造りの城には、煌々と灯りがついており、人々の楽しげな談笑する声が響く。貴族の上流階級が集まり行われるデビュタントボール。丁度それが行われてるところだった。
華やかに着飾る紳士淑女の中に、白いドレスに髪に白い羽飾りをつけた若い女性が数人いた。彼女たちが今宵の主役だと一目でわかる。このデビュタントボールに参加し、初めて貴族として認められる大事な日。
誰もが心を躍らせ、今日という日を楽しんでいると言うのに、屋外の明かりの少ない石畳みの階段を、鬼気迫る勢いで走り抜ける女性が一人。しかも、本日の主役であるべき、白いドレスに白い羽飾りを身につけている。
軽くドレスの裾を掴みながら、これでもかと言う速さで駆け下りていく。
なんでこんなことになってるの!
気持ち悪い。無理、早く帰りたい……!
泣きそうな思いで階段を駆け降りる。一刻も早くこの場から逃げ出したい。ただ、そんな思いで走っていた。
錯綜する記憶。不釣り合いな体。窓に映る見知らぬ自分。全てが恐ろしく、周りにいた人間が全員、白い仮面をつけて私を嘲笑っているように見えた。
「あっ……!」
すぽーん。
そんな効果音が入りそうな勢いで、形の良い斜方投射を描いて飛んで行ったのは、少しサイズが合わなかった靴。
嘘でしょ!?と思いながらも、飛んで行った着地地点不明の靴などさっさと諦め、もう片方の靴を手に持ち、冷たい石の階段を駆け降りた。
まるでシンデレラみたいだ。
頭の片隅でそんなことを思う。でも、履いていた靴はガラスの靴でもないし、シンデレラならもっと可憐に駆け降りただろうし、こっちは魔法のドレスでもない。靴だってどこに行ったかわからないから、王子様が拾うことなんてない。そもそも始まってすぐに逃げてきたから、王子様と踊ったりもしてないし、なんなら、今日この国の王太子は不在だったはず。
「いや、そもそもこの世界にシンデレラっていう概念がないよ……」
思わずそんなことを呟きながら、ひたすらこの恐ろしい場所から一刻も早く逃げ出すことに意識を戻した。
靴の行方なんか、知らない。
***
何故あの時のことを思い出したのだろう。
リメラリエが前世の記憶を思い出したのは、あろう事かデビュタントボールその時だった。混乱を極めたとき人は逃げ出すしかなくなる。逃げ出す行動を取れただけましだと思う。
あの時と同じ様に月が半分に欠けているからだろうか。ぼんやりと眺めながらそんなことを思う。満月には到底間に合わなかった。それでも、ここまで来れたことに、感謝しかない。
そう思いながら、アキリアの手を借り、リメラリエは馬を降りた。
鬱蒼と生い茂る木々。昼間だというのに薄暗く、他者を寄せ付けない雰囲気がある。僅かに奥から感じる魔力に、リメラリエは胸が高鳴るのを感じた。
「馬はここに置いていきます。強い魔力に当てられると馬がまともに動けなくなるので」
アキリアは馬の手綱を放してやると、「休んでてくれ」と言い馬の首を撫でた。すると、それに応える様に馬はどこかに歩いていってしまう。
「いいんですか?」
「賢い馬ですから、またここに戻ってきてくれますよ」
そうなのかと思いながら、ゆっくり歩いて行く馬を見送る。
「中に、行くんですよね?」
アキリアは念のために確認した様だ。リメラリエは頷く。
「はい、大樹を見たいので」
魔樹の森は、大樹と呼ばれる大きな木を中心に円形に広がる森だった。いつからそこにあるのかさえはっきりとわからないほど昔からそこにある大樹は、魔力を持っているとされている。
リメラリエは当然それを見に来た。本に載っていたのはその大樹の絵だった。
「ここからは歩きになるので、少しでも辛くなったらすぐに言ってください」
「わかりました」
リメラリエは神妙に頷いてみせたが、どうもアキリアの信用は得られてない気がした。
「私も入ったことがあるわけではないので、それを考慮して必ず安全を優先してください」
「……、アキリア様、絶対私のこと信用してませんよね?」
そう言うとアキリアは少し目を逸らす。が、すぐに視線を戻すとリメラリエをまっすぐ見据える。
「……、もう目の前で倒れられるのはやめて頂きたいんです」
「それは、私のセリフでもありますけど?」
リメラリエの言葉にアキリアはぐっと言葉に詰まる。
「だからお互い様です。アキリア様も無理はなさらないでください。何かあったら必ず教えてください」
「……、しかし私は護衛騎士です」
「人の命に代わりはありませんよ?」
リメラリエの何気ない言葉にアキリアは否定したいような、否定したくないような、なんとも言えない気分になった。
騎士と言う身分を得てから、人の命は決して等しく同じではないと感じていた。守られる立場から守る立場になれば、それは自ずと感じるものだった。
「……リメラリエ嬢は人の命は皆等しいものと考えられてるのですか?」
「それはそうでしょう?」
「……、王家と大公家、騎士と平民、それらは決して同じではないと思いますが」
アキリアの言葉にリメラリエは、呆れたような顔を彼に向けた。やや目を伏せがちだったアキリアに、リメラリエは自分が映る様に視界に無理矢理入り込んだ。
「誰かの代わりなんていないと思います。私は私ですし、アキリア様はアキリア様です。平民の人だって、家族がいて、家族の人にとって、その人は、他の誰にも代えられないものでは?」
リメラリエは少しだけ息をつく。
「確かに役割的なものに、代わりはいくらでもあるかもしれませんが、でもその場合は、そこに命をかける必要なんてありません」
リメラリエはそう言いながら、少し前世のことを思い出していた。
仕事に命をかけるような働き方をしてる人が、会社にいた。その人がある日過労で倒れたが、会社はそのまま回り続ける。その人の役割を他の人がこなして、止まったのはほんの一瞬だけ。
その事実にひどく、悲しくなったのを覚えている。
あぁ、自分の代わりもここには沢山いるんだと。
リメラリエの言葉に、アキリアの表情は少し苦しげに見えた。騎士と言う立場は、護衛対象は命を賭してでも守る必要があるだろう。彼女の言葉に、納得はできないかもしれない。
それはそうか。
リメラリエはそう思った。どちらかと言うとこの考えはあくまで前世の記憶から来るものだ。身分差もはっきりしているこの国では、簡単にリメラリエに同意を示す人はいないだろう。
「私といるときだけでいいです。私も無理はしないようにしますから、アキリア様もどうか無理をなさらないでください」
リメラリエの言葉に、アキリアは彼らしくもなく小さく「わかりました」とだけ答えた。
森の中は薄暗く、道もないため歩きづらい。アキリアが先を歩き、歩ける場所を作ってくれる。
リメラリエは、心臓が早鐘を打つのを感じずにはいられなかった。ただ薄暗く見える森も、リメラリエには、僅かな魔力の光が飛んでいるのが見えた。まるでひらひらと蝶が舞うように、きらきらと魔力の光が、木々の間を縫う様に流れている。
今まで見たことのない不思議な光景だった。
アキリアには見えないのか、彼は魔力の光にぶつかったりしているが、ぶつかられた光は霧散する。そのあとをじっと追いかけて見ていると、まるでどこからか集まるかのように、ふんわりとした光が現れる。
まるで生きている様だ。そう思った。
その光は、森の奥へ行くほどに数や強さが増していく。ふわふわとした光がゆらゆらと森の中を彷徨う。
「アキリア様には今どういう景色が見えていますか?」
「え?」
少し辺りを見渡したアキリアは、眉を寄せる。
「暗い木々が並んでいますが…」
リメラリエにはやや眩しくなり始めているが、魔力がないアキリアにはこの光の様子は見えていないようだ。
「そうですか」
残念そうにそう言ったリメラリエの言葉にアキリアは反応する。
「リメラリエ嬢には、違って見えるのですか?」
アキリアの問いに軽く頷く。リメラリエの視線はふわりと舞う光を追いかけるが、アキリアには何も映らない。リメラリエの視線の動きの理由や、楽しそうに笑う表情も理解出来ないはずだ。
「この森にはたくさんの魔力が光を放って飛んでいます。中心に向かうほど数も、光も強くなっています」
その言葉にアキリアはさらに眉間に皺を寄せた。
「危険ではないのですか?」
「いえ、とても温かい光なので危険ではないと思います」
そう答えたリメラリエに対して、アキリアは彼女の表情を注意深く見た。嬉しそうな様子に、その言葉を信じたようだった。
「それならよかったです」
日はどんどんと落ち、遠くに橙色と藍色の空の境界が見えた。中心に着く頃にはすっかり夜になるだろう。
アキリアにとってはどんどん視界が悪くなり、目を凝らさなければいけないが、リメラリエにはこの森はとても明るく映っている。
「アキリア様、変わりましょう」
リメラリエはそう言うとアキリアの前に出る。止めようとしたアキリアに、リメラリエが首を横に降る。
「ここでは私の方が見えるみたいなので、変わりましょう」
リメラリエはずんずんと奥へ進んでいく為、アキリアは諦めて前を譲る他なかった。
しばらく歩くと開けた場所にでた。通常の木々がなくなり、足元には草もない。まるでそれは、他の植物が大樹に場所を譲っているような、そんな雰囲気だった。
リメラリエは眩しさに目を細めた。
見上げた場所にはとても大きな魔力で溢れた想像以上に大きな樹が佇んでいた。幹には沢山のごつごつとした節が所々にあり、太い枝が幾つもに分かれて葉をつけている。人の心臓のような形をした葉は、どれも僅かに魔力を纏っている。それが集まり、樹自体が光り輝いているように見えた。
すでに空は深い藍色に染まっていたが、大樹は沢山の魔力の光で溢れて、その周りをふわふわとした光が鮮やかに軌跡を描く。
あぁ、想像していたより、ずっときれい……。
リメラリエは、感嘆の声も上げることができなかった。リメラリエの中の魔力が緩やかに熱を上げている気がした。
普段彼女の周りにも魔力はとても少ない。彼女の親族にも魔力持ちはいなかった。まるで仲間の存在を確かめるようで、嬉しくなる。
自然と笑みが溢れるが、同時にふと気がつき後ろを振り返る。
アキリアはリメラリエの邪魔をしないように気を遣ってか、静かに立っていた。彼にはおそらく、ただの僅かな月明かりに照らされた大樹が見えるだけ。木の葉が影になり、おそらく視界はかなり悪い。
リメラリエはアキリアのところまで下がると、彼に手を差し出した。それはまるで、舞踏会で紳士が淑女をダンスに誘うかの様に。
アキリアは困惑したように首を傾げる。
じれったくなったリメラリエは、アキリアの直ぐそばまで行くと、彼の手を握った。そして、自分の魔力を一気に流し込む。
本来なら見えない魔力の流れで、風が起こりアキリアの服と髪を巻き上げる。ぶわりとはためくと同時に、アキリアが光で満たされる。それに合わせるかの様に、彼の瞳に光が差す。
「え……」
驚いた様にアキリアは目を見開いた。今まで見えていなかった光が、彼にも鮮明に映る。リメラリエが言ってた魔力の光が、森の中を漂う様子が見えた。
しかし何よりも圧倒されるのが、やはり、目の前に佇む大樹だった。白い光で溢れたそれは、とても夜の光景だとは思えないほど眩しく輝いていた。
きらきらといくつもの光の粒が落ちていく。
言葉にならず、アキリアもしばらく引き込まれる様に大樹を見続けた。
リメラリエもまたアキリアのその様子に非常に満足した。