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一番近かったアキリアの私室に移動し、リメラリエはその話を聞いていた。二人並んでソファに座り、アキリアが一人淡々と話をしていく。
旅の途中、馬車が横転したひどい雨の日。木の幹の穴の中で、アキリアは雷が鳴ると反射的にリメラリエを庇うように立った。その時に言っていた「妹が雷嫌いだったので」と一言だけ言っていたそれは、もう亡くなっていたアキリアの本当の妹のことだったのだと、リメラリエはようやく理解した。本来あの時のアキリア=ニルドールとしては妹などいないのに、つい口に出してしまったのだろう。
「リメラリエ嬢」
ふと頬にアキリアの手が触れる。
「泣かないでください」
アキリアの手に触れられて初めて泣いていることに気がついた。気づくとポロポロと溢れていくそれを止めることができない。
「すみません、泣きたいのはアキリア様の方ですよね」
なんとか止めようと目を強く擦ったりすると、アキリアに止められる。代わりにハンカチを渡してくれ、それを受け取る。
「私は結局逃げただけなんです。ティナリアの死からも、王太子と言う立場からも、ティナリアを害した者と敵対することからも……」
「時には逃げることも必要です」
リメラリエははっきりとそう言った。
前世の記憶を辿ると、思い出すのは仕事のこと。過労で倒れた人は、とても真面目な人だった。責任感が強く、自分がやらなければとさまざまなことを一人でこなそうと無理をしてしまう、そんな人だった。
誰かに手渡すこともできず、仕事から逃げることも出来ず。たまたま体力が先につきて倒れてしまったのかもしれないが、先に心が壊れてしまうことだってある。
「逃げる事は悪いことじゃありません。自分を守る大事なことです」
そう言ったリメラリエに、アキリアは切なそうに微笑んだ。何の慰めにもならないかもしれないが、逃げたことで自分のことを責めるようなことはしてほしくなかった。
「誰かがそれを責めたとしても、言わせておけばいいんです。今のアキリア様を見ると、その選択は間違っていなかったのだと思います」
リメラリエから見てアキリアは、王太子に戻ってからも落ち着いている。10年間離れたことは意味があったのではないだろうか。もちろん、王太子でなければ得られないことを逃しているのは間違いだが、逆もまた然りだ。
「私はいつでもアキリア様の味方ですよ。……背中押しちゃったの私ですし」
靴のことを暗に言うと、アキリアが笑う。
「あなたが味方なだけで、今の私には十分です」
目が合うと自然に微笑み合う。緊張することもあるが、アキリアと一緒にいる時間が、リメラリエはとても穏やかで好きだった。
「リメラリエ嬢」
「はい」
改めて呼ばれてアキリアに顔を向ける。
「その、私にも愛称で呼ぶ許可をくれませんか?」
「え?」
唐突なお願いにリメラリエは目をぱちくりする。何故そんな話になったのだろうか。
「ずっと気になっていたんです、メディス卿が愛称で呼んでいること」
「あぁ、確かにそうですね。でも、リメラって呼ぶのはメディス様ぐらいですよ?メディス様の場合は、単純に名前が長すぎて鬱陶しくなって、途中から言わなくなっただけです」
驚愕の理由にアキリアが目を見開く。
「メディス様はめんどくさがりなんですよ。ああ見えて。だから、愛称と言うよりはただ呼び捨てにされてるだけですね」
リメラリエが可笑そうに笑うと、アキリアがなんとも言えないような顔をする。
「じゃあ、私もリメラリエと呼んでも?」
「……、だ、ダメです」
リメラリエはあること思い出し、首をぶんぶんと横に振る。断られたアキリアはひどくショックを受けた顔をしたが、リメラリエは見ていない。
一度だけアキリアが"リメラリエ"と呼んだ時のことを覚えていた。
「私は、貴女がいい。リメラリエ」
そう言ったアキリアの表情まで鮮明に思い出せる。その時のことを呼ばれるたびに思い出しそうで耐えられそうにない。
「あ、嫌なわけじゃないんです!ただ、もう少し、時間を下さい」
そう言ったリメラリエに、アキリアは頷く。
「わかりました。おそらく私の努力が足りないんですね」
そう勝手に納得すると、アキリアはもう一度リメラリエを見た。
「ところで、リメラリエ嬢は簡単に男の私室に入りすぎです」
「え?アキリア様の私室なのに?」
今さらそれ責められるの?と思い聞き返すと、アキリアが不満気な瞳で返してくる。
「私ならいいと思っているんですか?」
「婚約者ですし」
首を傾げると、アキリアの目が少し変化する。隣に座るリメラリエとの距離を自然に詰めると、彼女の頬に触れる。縮まる距離に流石にリメラリエに緊張が走る。
「婚約者はどこまで許されるんです?」
「どこまで……」
ただ繰り返すことしかできなくなる自分が情けない。アキリアは近くで見ても綺麗な顔だ。青い瞳に吸い込まれるような気になり、目が離せない。
「ちなみにどんなお茶でした?」
唐突な質問にリメラリエは、王妃のお茶会を思い出す。そんなことすら忘れていた。
「え、ええと、花みたいな…香りと味の、お茶でしたけど」
「……、どれぐらい飲みました?」
「一口です」
アキリアは少しホッとした顔をして、リメラリエの蜂蜜色の髪を一房手に取る。
「そのお茶、睡眠薬に近いお茶です。東方の国のものらしいですが、効果もかなりあります。一体あなたに何をするつもりだったのか……」
アキリアの目が鋭くなる。
「やっぱり王妃殿下は、敵ですか」
その問いにアキリアは頷いた。
「今も私を王太子から蹴落とすために、色々と動いているようです。せっかく臣籍降下したのに、何故戻って来たのかと、躍起になっているみたいです」
なるほどと思わざるを得ない。お茶会も断れるものなら断りたかったが、リメラリエはそんなことを選べる立場にない。
「やはり、ミリアルト殿下を国王にするために?」
「えぇ。でも、陛下はそれに難色を示しているんです。だから、私が簡単に戻れたにすぎません。自分が望まなくても、最悪戻らされてた気がします」
アキリアは少しだけ息を吐く。
「護衛はつけていますが、十分に気をつけてください。体調などを理由に断るのもありです」
「わかりました。気をつけます」
リメラリエの返事にアキリアは安心した顔を見せた。
アキリアは触れていた髪を話すと、手をリメラリエの耳元へ伸ばす。くすぐったくて身を屈めると、そのまま引き寄せられる。
「どんどん自分が欲張りになるのがわかるんです」
アキリアの腕に捕まったリメラリエは、ドキドキと早く大きく鳴る心臓を抑えようと必死だった。アキリアに伝わらないようにと願いぎゅっと目をつぶる。
「早く、あなたを自分のものにしたい」
切ない声で苦しげに言われると、どうにかしてあげたくなる。少しだけ目を開いてみると、アキリアの顔がすぐ近くにあった。
目が合うと青い瞳に引き寄せられる。さらりと流れる銀色の髪がキラキラと光って眩しい。
ゆっくりとアキリアがさらに近づく気がして、自然にリメラリエは目を閉じた。すると、唇に優しくアキリアのそれが触れる。先日のような一瞬触れるだけの口付けではなく、ゆっくりと離れていった。
リメラリエは自分が真っ赤になっている自覚があり、思わず両手で顔を覆う。
「リメラリエ嬢は、可愛いですね」
「からかわないでください」
「からかってると思うんですか?」
アキリアの手がリメラリエの手に触れる。自分よりも大きな手に、当たり前なのにどきりとする。指先を手に取ると、軽く口付けをされる。
「ずっと触れていたいのに?」
何も答えられずにいると、アキリアはリメラリエの肩に触れた。今日のドレスは肩が出るタイプのものだったため、直接触れられてぞくりとする。
「このドレスとても似合ってるんですが、少し肌が出過ぎでしたね。他の男に見られる可能性があることを忘れてました」
強い瞳で見られ、耐えきれず目を逸らす。アキリアはその隙にすっとリメラリエに身を寄せて、肩にもキスを落とした。リメラリエがそれを見て声にならない悲鳴を上げ真っ赤になる。
「可愛い」
そう言ったアキリアはとても満足そうな顔をした。直後にソファにあったクッションでリメラリエに叩かれても、アキリアはとても嬉しそうに笑っていた。




