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約11年前。トランドールの城内に明るい声が響く。
「お兄様!」
銀色の真っ直ぐな長い髪と青色瞳を持つ10歳ぐらいの少女がアキリアに向かって駆け寄ってくる。空色のシンプルなドレスが翻り、そのままアキリアに抱きついた。この当時アキリアは18歳だった。
「ティナ、元気だったか?」
ティナリア=トランドール。それがアキリアの妹の名前だ。10歳近く歳の離れた兄妹は、仲が良かった。アキリアが成人してからは、王太子として認められたこともあり、公務で忙しいことが多く、毎日は会えなかったが、それでも時間を作っては、会うようにしていた。
二人の母親は一年ほど前に病気で亡くなったこともあり、兄妹としての絆は深かった。悲しみをなんとか乗り越えて、ようやく笑えるようになったところだった。
「ねぇ、お兄様、たまには街に息抜きに行きましょうよ」
「街に?」
「だって、お兄様もこのところずっと働き詰めでしょ?息抜きも必要よ。それに、丁度新しい焼き菓子のお店ができたらしいの、行ってみましょう?」
「むしろ、後者がメインだろ」
「バレました?」
えへへと可愛らしくて笑うティナリアの頭を撫でる。母の死でしばらく笑顔が見られなくなったことを考えると、その様子にホッとする。
「わかったよ。この後行こう」
「やったー!お兄様ありがとう!」
当時の自分はとても甘い考えの持ち主だったと今なら思う。裏で蠢くさまざまな人の悪意や妬みや感情をあまりに想像できていなかった。
この時もっと周りを見ることができていたら、少し未来は違ったのかもしれない。でも、その場合自分は騎士になっていないし、リメラリエの護衛騎士になることもなかったのだから、そこへの未練はない。
街は人でごった返していた。はぐれないように手を繋ぎながら進んでいく。ティナリアが嬉しそうにはしゃいでいるのを見ると彼女に笑みが戻ったことに安心した。
目当ての店に着くとさまざまな焼き菓子を購入し、それを腕に抱えて歩いた。ティナリアはアキリアに会っていない間のことを熱心に話したし、アキリアはそれを黙って聞いていた。
この何でもないような日常がずっと続いていくと、本当に信じていた。
そのあと突然激しい雨が降り出し、二人は慌てて城に戻ってくることになった。なんとか焼き菓子は無事のようだ。
「お兄様、部屋まで送ってよ」
「すぐそこだろ?」
「でも、またしばらく会えないんでしょ?」
ティナリアの言葉に、アキリアは少し迷った後頷いた。公務を任されることも多くなり、アキリアも以前より忙しくなっていた。
「わかったよ」
アキリアはティナリアの手を取ると一緒に彼女の部屋までの短い距離を歩いた。
「私も早く成人したい」
「まだ6年かかるな」
「お兄様と同じように公務ができるようになったら、お手伝いできるよね?そしたら、もっと一緒にいられるかな?」
ティナリアの言葉にアキリアは彼女がいかに寂しく感じているかを理解した。母の死への悲しみから回復したとしても、寂しくないわけではないのだ。母がいなくなり、兄ともたまにしか会えない状況だ。
「そうだな。ティナが成人したら、僕の仕事を手伝ってくれるか?」
「うん!」
嬉しそうに笑ったティナリアにアキリアはホッとした。繋いだ手とは反対の手で頭を優しく撫でる。
「お兄様はミリアルトと会ってる?」
「いや?ティナは会ったのか?」
「ううん。会ってない」
母親の違う弟がいる認識はあるが、基本的に会うことは無かった。
「私と同じぐらいなんでしょ?一緒に遊べないのかな?」
「どうだろう。機会があれば、聞いてみるよ」
ティナリアなりに寂しさを埋める手段を考えているのかもしれなかった。
ちょうどティナリアの部屋の前についたとき、外で稲光が走り、大きな雷がなった。その光と音にティナリアがぎゅっとアキリアの手を握った。
昔からティナリアは雷が苦手だった。細く光る筋や大きな音、どれも怖いらしく、よく布団の中に逃げ込んでいた。それは今でも変わらないようで、ティナリアは慌てたように手を繋いだまま走り、部屋の中に逃げ込み、寝室へと直行した。
アキリアの護衛騎士が部屋の中に入れない姿を視界の端に見かけたが、ティナリアの護衛がいるからまぁいいかと思った。さすがにその部屋の主人に仕える騎士以外は許可なく入ることを許されない。
即座に布団の中に潜り込んだティナリアにアキリアが笑う。
「雷は追いかけてきたりしないよ」
「わかってるけど、怖いものはこわいの!」
そう言ったティナリアに笑って返した。昔から雷を怖がっていた。その度に母やアキリアのところに来ていた。
窓の外は次第に暗くなり、完全に夜と近づいて行く。その間もまだ雷は鳴り続けている。大きな音が鳴るたびに震えるティナリアに、よしよしと布団の上から軽く叩いてやる。
何度目かの稲光が走ったとき、窓に人の影が映った。
アキリアがハッとした時には、窓が大きな音と共に割れた。二つの人影が一気に部屋の中に飛び込んできて、アキリアに向かって襲い掛かる。
大きな音に気づいたティナリアの護衛が寝室に入ってきた時には、アキリアの目の前は二人の侵入者がナイフをむけて来ていた。避けようと後ろに下がるが相手の動きに全くついていけず、そのまま床に倒れる。
ティナリアの護衛はアキリアの状態が目に入ると、アキリアを助けるために侵入者に剣を向ける。間一髪でアキリアに向けられたナイフは、剣により叩き落とされたが、その横でティナリアが怯えながら布団から顔を出してしまう。もう一人の侵入者がそれを見逃さず、手にしていたナイフをティナリアに向けて振りかざす。同時に別の侵入者も叩き落とされたナイフと別のナイフを繰り出し、アキリアに振り上げた。
反射的にか、ティナリアの護衛騎士はアキリアに振り上げられたナイフを先に払い、ティナリアへの対処へ動くが間に合わず、侵入者は振りかざしたナイフをそのまま下ろした。
目の前で赤い鮮血が飛び散った。
視界に映る全てがどこか別の世界でおきていることのようだった。
しかし、それだけでは終わらない。まだ侵入者たちはアキリアを狙い続ける。ティナリアを介抱することもできぬまま、護衛騎士もアキリアを守るように侵入者に対峙する。
護衛騎士の後ろに守られながら何もすることができない自分が、とてつもなく情けなかった。ティナリアは、すぐそこで血を流していると言うのに、助けてやることもできない。
多少剣術は習い事程度にはやったが、普段から剣を下げているわけでもなく、あくまで形だけだった。
結局護衛騎士が侵入者を始末するまでアキリアはただ、待っているしかなかった。短い時間だったはずだが、永遠に終わらないような苦痛の時間だった。
その後のことはあまり覚えていない。ティナリアに駆け寄った気がするが、なんと声を上げる掛けたかわからない。自分の命を助けてくれたはずのティナリアの騎士にさえ罵った気がする。
雨は強く降り続いていた。
しばらくして、ティナリアの密葬が執り行われた。成人していなかったこともあり、近い親族のみが出席する、寂しいものだった。
真っ黒な喪服を来て、ティナリアの棺を見つめると、出てくるのは多くの後悔ばかりだった。
母の死が与える影響についての考慮が欠けていた。自分たちの立場がいかに危ういか理解が浅かった。これまでと同じ生活が続くと無意識に信じていた。せめてあの時自分の護衛騎士に、許可を与えるようにティナリアに言っていれば……。
(あぁ、なんて自分は弱いんだ)
そして、それからの一年はとてもアキリアにとっては苦痛だった。人一人、大切な妹が一人、死んだというのに、変わらず動き続ける生活も、城も、国王も、何もかも全部許せなかった。生きてる自分も許せなかった。自分が死んだ方がよかったと思った。
それでも死ねない自分がいた。
だから変わりたかった。
どうしたら変われるのかわからなかったが、今の自分の立場が嫌で嫌で仕方なかった。あの時ティナリアを殺した連中の黒幕は結局捕まえることができなかった。誰が敵で、誰が味方か、この時のアキリアにはわからず、すべてが、自分の敵で、ティナリアを害した者たちのように思えた。
だから、王太子という立場から降りることを望んだ。正直まともに公務もできなくなった自分は、そこにいるのが相応しいとは思えなかった。
そんなことを考えながら城で開かれたデビュタントボールにまともに顔もださず、外にいたところで、あの靴だった。
背中に当たったヒールは痛かったが、誰かに背中を押されたような気になり、王太子の座から降りることを決めた。
決めたあとは、いくつかの大公家が引き受けたいと名乗り出てくれた。自分に強さが欲しかった。あの時、自分に身を守る術があったら、ティナリアを守る術があればと何度も思った。
だから、ニルドール大公家を選んだ。
それからは、自分が王太子だったことなど忘れるように、ひたすら騎士としての訓練や生活をこなすだけだった。このままでいいとすら、思っていたのに……。
アキリアの過去でした。




