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リメラリエは案内された客間の寝台で寝転がっていた。全てが用意周到に準備されていた。ドレスや靴、夜着に至るまで、多少サイズが合わないものもありつつ、攫われてくるのが前提だったようだ。
ちなみにイクトは寝室から繋がっている隣の部屋で待機している。イクト用の別室も用意されていたが、イクトが離れるのを拒んだ。これ以上何かあったら、騎士長に顔向けできないと。
そこは騎士団長じゃないのか?と思いながら、リメラリエはイクトの希望を了承した。
トランドールに必ず帰る。
強くそう思っていないと何かに飲み込まれるような気がした。リヴァランの事情など関係ない。巻き込まれるなどごめんだ。
ようやく屋敷の外へ出たいと思えたのに、家の外どころか国を出るなんて聞いてない。現実味のない話に、またリメラリエの心はふわふわと浮遊しているようだった。あれだけはっきりと生きている実感を得たはずだったのに、想定外のことに頭が混乱している。
大きなため息が出た。
アキリアと共に魔樹の森へ行ったことが遠い昔のことのようだ。あの時の幸せな気持ちが思い出せない。
リメラリエは自身が考えているより疲弊していた。あまりに自分を取り巻く環境が大きく変わりすぎてそれについていけない。
トランドールと変わらないような良い寝台ではあったが、とても眠りにつける状態ではなかった。嫌な考えが何度も頭を過り、その度に胃のあたりが苦しくなり、気持ちが悪くなる。
リメラリエは胸元にしまってあった小さな布袋を取り出した。その中には、お茶会前にイクトから渡された石が入っていた。空色の綺麗な石は、不思議とリメラリエの心を落ち着ける。透明に近い青色に、白い雲のような筋があり、それが空のように見せている。不思議な魅力のあるそれを、リメラリエはしばらくぼんやりと眺めていた。
思い出すのは婚約をしなくてよいと言ってくれた家族。特に父には今後はなるべく迷惑をかけたくないなと思っていたのにこの始末。
そして、アキリアを思い出していた。当たり前だがアキリアは家族ではない。よく考えてみると、リメラリエは家族以外と長い時間を過ごすのは、魔力に関する教師をしてくれたメディス以来初めてだ。しかしメディスも1日数時間、週に数回程度だ。一か月以上一緒にいたことなどない。
「……だからかな」
ぼんやりと空色の石を見ていると少しだけ、苦しさが減ったような気がした。
「そういえばこの石の役割はなんなんだろ?」
てっきり魔術を跳ね返したりする系かと思ったが、温室でイルネアの陣が発動した時にも何の反応も見せなかった。
「サヴァトラン卿に手伝ってもらったぐらいだから、てっきり魔力関係かと思ったけど、実は違うとか?」
悩んでみたところで答えは出ない。リメラリエは諦めてもう一度胸元にしまった。
***
それからリメラリエは部屋でただ待つだけの生活が続いた。城内を歩くことも許されず、リメラリエに許されたのは部屋のなかで本を読むことぐらいだった。三日もすればやることがなくなり暇でしかたなかった。
そんな数日のあいだにリメラリエは夜が苦手になっていた。眠りに着くまでの時間が、とても辛くて仕方なかった。何度も最悪の事態を想定してしまい、気持ちが暗く沈んで行く。
今日もそんな嫌な気持ちを何とか払い除けながら眠りに着くのを寝台の上で待っていた。目を閉じて、なるべく悪いことを考えないように、そう思いながら過ごしていると、ふと何の気配を感じて目を開けた。
するとすぐ目の前には真紅の瞳とサラリと流れる赤い髪があり、驚きに身をすくめる。人はあまりに恐怖を感じると動けなくなる。
「元気だった?」
呑気な口調で話しかけてきたのは赤毛の猫、もといイルネアだった。あとわずかで鼻が触れるのではと思う距離に、リメラリエは固まったままだ。
「あれ?もしかして元気じゃなかった?」
ようやく少しイルネアが身を起こしたため、リメラリエはハッとする。
「え、どうやってはいったんですか?!」
「普通に」
扉の前にはイクトがいたはずだ。普通に入って来られるはずがない。しかし、ここはリヴァランだ。彼に敵うものはないだろう。
「っていうか、まだトランドールでの滞在期間じゃ」
「目的は達成したからなぁ。適当な理由をつけて切り上げてきた」
そう言ってニッと笑う猫にリメラリエはイラッとした。切り上げてきたとしても、魔力で転移しなければこんなに早く帰って来られるはずがない。
リメラリエが今一番欲しい魔術だ。だが、リメラリエには使えない。魔力はあっても、それを使うに値するエネルギーがない。そして、陣形もトランドールではわからない。
「あんたが年上好きなら兄貴の相手でも良いかなって思ったんだけど、兄貴は兄貴で相手を見つけたみたいだからさ、やっぱりオレの相手になってよ」
自分勝手なことを言うイルネアに、リメラリエは頭がどうにかなりそうだった。目の前にいる相手の顔が歪んで見えて来る。
「ここにいれば働く必要なんてないし、王弟妃になるし、一生遊んで暮らせるんだ、わるくないだろ?」
そんな風に考えたこともあったが、いかに自分が何も考えていなかったかよくわかった。トランドールを離れることがどれだけ辛いことなのか想像できていなかったし、自分にはその覚悟がなかった。家族や大事な人と離れることが、どれだけ辛いことなのか理解していなかった。
「トランドールに帰してください」
リメラリエは彼に頼むしか帰る方法がない。そんな状況に、辛くて情けなくて、悲しい気持ちになる。視界はどんどんと歪んでいく。前に何があるのかわからない。
魔力がどんなにたくさんあったところで、何もできない。なんでもできるような気になってただけで、家に帰ることすら一人で出来ない。
「帰りたい」
涙をポロポロとこぼし始めたリメラリエはまるで子供のようだった。
「オレだって、あんたを泣かせたいわけじゃない。出来れば、お互い良しと思える関係性が望ましい、けど」
ギシリと寝台が沈む音がした。イルネアはリメラリエに覆いかぶさるように乗り上げる。
そこにドンドンと扉を強く叩く音が響く。リメラリエを呼ぶイクトの声だ。しかし、扉は何故か開かない。
「向こうにこっちの音は聞こえないはずだけど、やるなぁあの騎士。まぁ、障壁があるから扉は開かないし、入って来られない」
そう言ってイルネアは扉を叩く音もリメラリエを呼ぶ声も無視した。
しかし、その内巨大な破壊音がして扉が壊れた。完全に殺気立ったイクトが剣を構えてイルネアを睨みつけている。
「うわっ!よく壊せたな」
流石に驚いたのかイクトの方に目を向ける。イクトは自分の前にある見えない何かに気づいているようで、目をカッと見開くと、剣を逆さに構えて全体重をかけるようにその見えない壁に突き刺した。すると、目に見えなかった壁が、バチバチと火花のように赤い光を放す。
イルネアは軽く舌打ちをすると立ち上がる。それと同時にバキッと硬質な何かが割れる音がして、イクトがとてつもない速さでイルネアに剣を振りかざす姿が辛うじて見えた気がした。
風切り音と共に金属同士が強くぶつかる音が部屋に響く。リメラリエはおもわず身を固くする。よく見ればイルネアは左腕を掲げてイクトの剣を受けている。左腕の部分は魔力で作った盾のようなものが輝いて見え、その盾で剣を受け止めて返した。
イクトが一旦離れたが、すぐに剣を構えてイルネアに飛びかかったが、イルネアが何かをイクトに向けて翳すと弾かれたようにイクトが吹き飛んだ。それは本当に吹き飛んだと言う言葉が正しく、壊れた扉の向こう側まで飛んでいき、壁に強く叩きつけられたのが見え、息を飲む。
「あっぶな。道具持ってなきゃオレもやられてたな。あの騎士何者?」
そう言ってリメラリエを振り返るイルネアのことは見れなかった。それよりもイクトを助けなければと思うのに、体が言うことを聞かない。小刻みに震え出す体を止められない。
イルネアは再びリメラリエの側に腰を下ろす。
「こっちも、せっかく手に入れたあんたを手放す気はないからさ。ここで生きることを考えてくれよ」
なんとか離れようと身を捩るリメラリエを簡単にイルネアの腕が閉じ込める。彼の両腕に阻まれ、リメラリエは動けなくなる。上から見下ろされる形に、恐怖しか感じない。
そのまま右手を掴まれ、振り解こうとするがびくともしないことに、恐怖感が募る。
「離して下さい」
「諦めな。誰もあんたを助けには来られない」
そんなことは言われなくてもわかっている。誰もリメラリエがここにいることすら気づかない。リメラリエがトランドールに戻れる可能性は低い。
今まであまり泣いたことのないリメラリエだったが、涙が出て止まらなかった。もしかしたら、前世の記憶を持つ自分は特別なのかもしれないと考えたこともある。何か意味があって記憶が甦ったのではないかと。でも、調べれば調べるほどそうじゃないと実感していく。分かれば分かるほど、自分の平凡さにため息が出る。
それでも、あの魔樹の森の光景はそれでもいいと思わせてくれるそんな光景だった。その前の自分を受け入れてくれる人たちと同じように、自分自身を受け入れたいと思った。
それなのに……。
イルネアの右手がリメラリエの頬を撫でる。
「オレはあんたのこと結構気に入ってるからさ。後から気持ちがついてくることを願うよ」
その手がゆっくりと首元へ降り、鎖骨をなぞって行く。ゾワリとした感覚にリメラリエの顔が一気に青ざめる。
イルネアの手が彼女の薄い夜着に触れようとさらに下へと進もうとしたところで、リメラリエは思わず声を上げた。
「アキリア様!」
すると突然リメラリエの胸元辺りから青白い光が瞬間的に溢れ出す。あまりの眩しさに目を瞑ったが、自分の魔力がどんどん何処かへ流れて行くのを感じた。それと同時に光はさらに強さを増し、突然弾けた。
と思った瞬間、リメラリエの手を掴んでいたイルネアの手の感覚が消え、同時に床に叩きつけられるような大きな音がした。のし掛かられていたような重みや、気配もなくなり、訳がわからず、恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。




