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それから、フォクトラン家の屋敷には、旅の護衛騎士として同行することになったニルドール大公息が訪れるようになった。騎士だが、大公息なので失礼のないようにと父からは言い含められていた。念のため大公息呼びしておけば、大丈夫だろうとリメラリエはひとまず結論づけた。
リメラリエから見たニルドール大公息は、なんとなくつかみどころのないような人物だった。物静かそうな気もしたが、しゃべらないわけではない。寡黙ではない。理論的に話すタイプのため、話していても苦痛は感じない。
「ひとまず、旅の目的を共有しても?」
彼はそう言って、お茶を飲んだ。
今はリメラリエの自室のテーブルを前に、向かい合う形で座っている。大公の言いつけにより、入り口の扉だけは開いたままになっている。
『何も起きないと思いますけど?』
『何も起きないとは思っているが、淑女として当然のことだろう!』
『こんな行き遅れ女に誰も興味ありませんよ?』
『お前自身がそんなこと言ってどうする!!』
怒鳴る父に追撃を入れるのはもはやリメラリエの趣味かもしれない。
『そもそもこれから二人で旅に出るのに、いまさらでは?』
『あぁあそんなことはわかっているが、旅自体を取りやめにしてほしいのか!?』
『ダメです!』
そんなやり取りをしたため、約束は守る。
彼女の部屋は彼女の好みに合わせてあり、必要な家具だけを置いてあるため、無駄がなくすっきりしている。また色調も女性らしさは薄く、淡い緑や青が基調とされた落ち着いた部屋になっていた。
「旅の目的は、魔樹の森に行くことです」
リメラリエはこの数年間、ずっとそれを望んでいた。本に書かれているこの森に行きたい、その思いが強くなりすぎて、ついに旅にでる決意をした。父親の説得にかなり時間がかかったが、行けるとなったのだからその苦労もなんてことはない。
魔樹の森。
それは、魔力の宿った木がある森のことである。本では、大きな一本の木だと書かれていた。魔力が輝いて見えるというその木は、この国内にあると書かれていた。たった数行のものだった。本に書かれたこの数行とそこに書かれた挿絵に、私は魅入られた。魔力で光り輝く道と木は、白黒で書かれているのになぜか、色がついて見えた気がした。暗い夜空の下、深い緑の木々が、魔力の光で満たされ、淡く輝く姿が。
「何か採取したいものでも?」
「え?」
ニルドール大公息の言葉に、リメラリエは首を傾げた。傾げられた方の彼も、若干首を傾げていた。
「わざわざ魔樹の森に行くのだから、何か欲しいものがあるのかと思ったんですが……」
魔樹の森は、他の普通の森と比べると性質の異なる植物などが生息していると言う。だから彼は私が何かを採取する目的で行くのだと考えたのだろう。ましてや魔力持ちだ。そういうものが好きだという連想も頷ける。
「いえ、特に何かが欲しくて行くわけではありません。ただ、そこへ行きたいだけです」
リメラリエの言葉に、彼は少し不思議そうな顔をしたが、特に何も言わなかった。
それからいくつかのことを聞かれた。「辻馬車が乗れるか」、「体力はどれぐらいあるか」、「食べられないものはあるか」、「病歴」など、なんだか引率の先生のようだ。
まぁ、あまり変わらないのかもしれない。
リメラリエはほとんど屋敷から出たことがなかった。出る必要性を感じなかったし、大抵の興味のあることは父が屋敷に用意してくれた。行き遅れの娘のことを父は見捨てることはなかった。婚約や結婚を嫌がり、自分の興味のあることにしか目を向けなくなった、あの日から変わってしまった娘を。
「ニルドール大公息は……」
「アキリアで結構です」
そういわれて、リメラリエは言い直した。
「……、アキリア様は、この場所に行ってみたいと思うような場所はあります?」
リメラリエの質問に、アキリアは少し考えたようなしぐさをしたが、すぐに首を横に振った。
「いえ、……特にないですね」
「私、ある本を読んでからずっと、魔樹の森へ行きたくてしかたないんです。本物を見てみたくてしかたなくて、だから行きたいだけなんです」
「……、本当に行きたいだけなんですね」
「はい」
アキリアは少し納得したようにうなずいた。
「アキリア様は、魔樹の森に行ったことはありますか?」
「いえ、近くを通ったことはありますが、行ったことはないですね」
「そうですか」
少し残念に思うと、彼は不思議そうに尋ねてきた。
「なぜそんなに行ってみたいと思うんですか?」
アキリアの質問に、リメラリエは考えてから口を開いた。
「……、私にとって見える世界は、まるで映画みたいなんです」
「えいが……?」
聞き覚えのない言葉にアキリアはそのまま繰り返した。ハッとして首を振る。
「私にとっては見える世界は、……まるで、自分とは全く関係ない、ただそこに流れる絵みたいなんです」
言い直してみたが、いい言葉だったとは思えずリメラリエは、自分でも眉を寄せた。うまい表現が見つからない。
私は、前世と言うのが正しいかわからないが、以前の記憶があった。
それは、突然、10年前のデビュタントボールで蘇った。それまではリメラリエとして、なんの疑問もなく過ごしていたというのに。
何がきっかけだったかはわからない。華やかな会場や、煌びやかな光がそうだったのかもしれないが、よくわかってはいない。
ただ、突然に思い出した私は、とても混乱した。自分の格好や、周りの姿が、あまりにも知っている記憶のそれと違っていて、恐ろしく思えて。思わず、その場を駆け出したのを覚えている。少し大きすぎた真新しいヒールの靴が痛くても、脱げてしまっても関係なかった。
とにかくその場から離れたくて仕方がなくて。
でもその場から離れる方法を知っていたのはリメラリエとしての記憶で。彼女の記憶で、逃げ出した場所は、結局ファクトラン家の屋敷だった。唯一縋れる場所は、リメラリエとして生まれ育ったその場所しかなかったのだ。
そこからリメラリエは、リメラリエではいられなくなった。
思い出したのは、日本という国で暮らしていた"私"。
社会人として会社で働いていた"私"の自我が強くなった。それは生まれ生きた年数の差かもしれない。
本来受け入れなければならない大公家の令嬢としての婚約や、結婚はまったく受け付けられなかった。
父であるファクトラン大公とは何度も言い合いをした。突然大人びたようにしゃべりだした娘に、非常に驚いた顔をしていたのを覚えている。ここではない常識を振りかざす娘に、相当頭を抱えていたが、それでも見捨てないでいてくれている父には感謝しかない。
そして、その記憶が蘇ったと同時に、これまで発現されていなかった魔力の発現があった。
どちらが先かはわからない。記憶のせいで魔力が目覚めたのかもしれないし、魔力のせいで記憶が蘇ったのかもしれない。
そこからは、リメラリエはひたすら魔力について夢中に勉強した。教師をつけてもらい、大公家にある本だけでは読み足らず、父にお願いしてありとあらゆる本を取り寄せてもらった。魔樹の森について書いてあったのもそんな本の中の1つだった。教師が来ないときは1日中魔力に関する本を読み続けていることもあったし、そんなときは大抵食事も忘れてしまい何度も怒られた。
教師をつけてもらってからは魔力を使う方法も実践的に学んでいった。簡単なことなら指を振る程度で使えてしまう。
これまでの"私"にはありえなかった事象は、私を夢中にさせて、それを学び理解していくことにより、同時にこの世界に生きることを徐々に受け入れていった。
その最後が、この魔樹の森だとなんとなく考えていた。
だが、そんなことをこのアキリアに話す必要はない。彼はただ、護衛としてついてきてくれるだけなのだから。そんな風に頭の中で思いを巡らせながらお茶を一口飲むと難しい顔をしたアキリアは、こう尋ねた。
「……リメラリエ嬢は、自分がこの場所に生きていることに違和感があるということですか?」
まさかそんなドンピシャをついてこられるとは思わず、思わず咽た。
「そ、そんな感じです……」
「なるほど」
アキリアは妙に納得したように、リメラリエと目が合うと少し微笑んだ。
あまり騎士っぽくない人だなと思った。
リメラリエの持っていた騎士のイメージとは少し違う。そもそも体格もどちらかというと線が細い。いや、着やせするタイプかもしれないとは思うが、騎士のイメージとしてはもっと、がっしりとした体格のいい男性を想像していた。背は高いが、もっと筋骨隆々とした騎士には負けてしまいそうだなどと失礼なことを考える。
「採取が目的ではないのであれば、割と安全に目的地には向かうことができると思います。ただ、魔樹の森の付近には、ストライガと呼ばれる危険な植物もいますので、なるべく遠くから見ることをおすすめします」
「ええ。それで大丈夫です」
リメラリエの目的はあくまで見ることだ。それが叶えば文句はない。
「日程やルートは何か希望はありますか?」
アキリアは細かく希望を聞いてくれるようで、とてもありがたかった。リメラリエとしては、旅立ってみれば何とかなるだろうという案外行き当たりばったりで進もうとしていたため、ますます引率感が強くなる。
「通りに町などがあれば、見ていきたいです」
「そうですね、できるだけ町で休息できる場合はそうしたいと思います」
やや困った顔をしてアキリアは言いづらそうに言葉を続ける。
「……、どうしても町や村がない場合ですが……」
「野宿になっても構いません」
きっぱりそういったリメラリエに、アキリアのほうが困惑する。それはそうだろう。
「……、野宿をした経験は……?」
「ありません」
そうだろうなと思いながら聞いたのだろう、アキリアの表情は特に変わらなかった。
「……、騎士とは言え、私も男ですが、大丈夫ですか?」
「我が国の騎士を信頼しています」
にっこり微笑んで見せると、アキリアも少し微笑んだ。