表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

定年後の日々 続き

9月12日~13日 施設でグループ旅行があった。ここ2・3年は参加していなかったので、久し振りの参加であった。不安があったので私も参加する予定であったが、会議と日程が重なってしまい参加することは出来なかった。そのために、事前の準備からより取り組んでもらった。チーフの支援員さんの様子を見ているとずいぶん頼もしく見えた。彼なりの見通しがあり、また、話しをしていても娘の抱える問題点をよく考えてもらっていた。重度棟のスタッフとして、取り組んでいる成果なのか、久し振りに話しのよくわかる人と会話できたような気がした。一緒に関わってもらった女性支援員さんは今年採用された人であったが、その分丁寧に関わってもらえたのではないかと思った。彼女なりに不安は大きかったと思うが、この行事を通してずいぶん力量が付いたのではないかと思う。今回の旅行では何が良かったのか、そのことについて振り返ってもらって、今後の生活につなげていけたらと思う。マイクロバスに乗って、参加できたことがこれからも続けていけたらと思う。また、私も参加しなくても出来るということが実証されたので、できるだけ施設の方にお任せしていこうと思う。とにかく心配だったので、その行事が成功したのが何より一番うれしい。


9月15日 施設の役員会、奉仕作業、親睦会と一日中忙しい日であった。役員会は2階の会議室を使用することが出来た。廊下を間仕切りされて新しくできた部屋で、ここならこれからの会議で遠慮なく使えると思った。奉仕作業は雨のために室内作業が中心となった。終わりの時に法人後見についての話しをしたが、時間が足りず尻切れトンボになった。ただ、情報を提供したものの、その後問い合わせの電話等はなかった。親睦会は施設の職員さんが来られたのが6時過ぎであったので、正味2時間ぐらいの会であった。Tさんのおしゃべりにはいつも感心させられるが今回もそうであった。Fさんが欠席だったので、あれぐらいで終わっていたが、もし参加されていたら費用の面からももう少し赤字になっていたと思う。Mさんが宝塚から参加されていて、初めの頃は話すネタもあったが、3時間近くとなるともう話すこともあまりなかった。ただ、差し入れのお菓子に対して、クレームをつけたので心証を悪くしたかも知れない。忘年会も参加とのことであったので、次回はもう少しいい話が出来たらと思う。会が終わった後、理事長から法人後見については、施設の保護者だけに限定しあまり広げない方がよいとのアドバイスをもらった。もちろん力量から考えてそんなに広げることは出来ないが、特定非営利活動法人の手前、ホームページを公開しているだけなのでそんなに多くの人から問い合わせが来るようなことはないと思う。ただ残念なのは、当該の施設の保護者からそんなに問い合わせがないのが今のところ残念な気がする。しばらくは、法人登記のことで忙しくなりそうである。


9月19日~20日 久し振りに妻と京都に行った。年末に行ってからだと9ヶ月ぶりになる。今回は、平安神宮の神苑が無料公開というのがあったので、まずそこに行くのがメインであった。行ってみると、台風の影響のため10月1日まで延期となっていた。入り口まで行って書いてあったので、余計に腹ただしかった。そんな思いを持った人は私たちだけでなく、がっかりして帰る人も何人かいた。もう少し早めに連絡していてくればと思った。しかも、久し振りに30度を超える暑さで結構暑さが応えた。次に聖護院まで歩いた。これもそこそこ距離はあったが、バスに乗るほどでもなかったので歩いていった。特別公開ということで、詳しく説明してもらうことが出来た。聖護院を見学した後は、直ぐ横の八つ橋の里で甘いものを食べた。雰囲気のいいところだったが、蚊に刺されたようで後味が悪かった。値段も割と高めで、お昼よりも高くついた。それから後は、吉田神社を目指して歩いていったが、途中階段で妻がこけたり、場所がわからなくなったりさんざんな目にあった。結局本殿に行くことはできず、真如堂から金戒光明寺を通って帰った。バス停を間違えたために、その分たくさん歩くことになり、大谷本廟にお参りに行く時間があわただしいものになってしまった。いつも余裕のないまま大谷本廟に行っている。ホテルにはバスで行った。ユニバーサルホテルは簡単に見つかったが、京都駅の南ということで、少しひなびた感じであった。一泊2食付きでひとり四千四百円なので、そんなに良い料理は期待できないが、安く上げる点では良かった。大浴場もあって割とのんびり過ごすことが出来た。翌日はあいにくの雨であったが、宇治に行くことにした。お得な切符を買うことも考えたが、雨ではそんなに回れないので買うことはやめた。ホテルから駅まで歩くだけで少し時間がかかった。宇治までは奈良線に乗った。懐かしい雰囲気を味あうことが出来た。宇治から平等院までは裏道を通っていったが、そこそこ時間がかかった。雨であっても世界遺産の平等院はたくさんの人が見学にきていた。鳳凰堂の見学は時間制になっていて、こんなに近くで拝観できたのははじめてであった。展示室は友人のTさんと昔行ったことを思いだしたが、あの暗さではさぞかし見えにくかっただろうと思った。内部の復元の様子が大原の往生極楽院とよく似た感じで、やはり平安の頃の思想を表していると思った。平等院の後は宇治川の中州を通り、宇治神社・宇治上神社に行った。宇治上神社の朱印は紙に書かれたもので、書いてもらえなかったのは残念だが、これで朱印帳2冊目を終了することが出来た。今のところ3冊目については考えていないがとにかくひとつ区切りをつけることが出来た。宇治上神社の後は、京阪の宇治駅から電車に乗った。途中の中書島で、うどん屋があったので、そこでお昼ご飯を食べることにした。安いお昼ご飯である。京阪の三条まで行き、そこから嵐山行きのバスに乗った。バスの中から市内観光をした。嵐山に着き、少し温かいものを食べて、というのは、雨のせいでとても寒い一日であったので、体が冷えていたからだ。昨日とは天気もそうであるが、気温もまるで違う一日であった。嵐山からは再びJRに乗って亀岡に帰った。今回の旅行では、いろいろとハプニングがあったりした。なんといっても、神苑の無料公開がなかったことがつまずきのもとであった。


9月26日 福祉の集いがあったので、Hさんと一緒にメリケンパークオリエンタルホテルに行った。車の中ではFさんの話で盛り上がった。Aをやめてから、いろいろと活躍されているようだ。もともと、宿泊訓練ホームの有料ボランティアで関わってもらっていたが、ボランティア的な要素はほとんどなくある意味障害者を食い物にしているような感じを受けた。あのときに感じた違和感はやはり今も尚残っているのだと思った。宿泊のセールスをしたり、建物を自分の所有物のように使っているのは、ますますひどくなってきているように思った。

 福祉の集いの途中、神戸地方法務局に登記の書類を持っていった。時間がかかるかも知れないと思ったので、余裕を持っていったが、当日は資料を渡すだけで何も見てもらえなかった。県に申請したときは、丁寧に見てもらったのでものすごく時間がかかったが、本当にあっけない時間であった。これで大丈夫かと不安もあった。何事もやってみなければわからないものであるが、こういったこともやはりそういうものだろう。


9月27日 妻が孫に京都の土産を持っていきたいと言ったので豊岡に行くことにした。娘婿が気を遣ってくれて、私の誕生祝いをしてくれることになった。と言っても、本人は勤務中なので4人ですることになった。いつもなら孫の食べたいものですませることが多いが、今回は私の誕生日ということで、私の意見を通させてもらった。王将のポイントがだいぶんたまってきていたので、豊岡の王将でお昼を食べることになった。お腹の方はだいぶん良くなってきたが、傷口の違和感はまだ残っていて、何かしっくり来ないのは致し方ない。久し振りにアサヒのエクストラゴールドが飲め、昼から飲酒したのは久し振りであった。

 豊岡からの帰りは妻が運転した。高速道路を本格的に運転したのは今回が初めてであったが、平日の昼間ということもあり、交通量もそれほどでなく快適に運転することが出来た。これからはひとりで豊岡にも行けるのではないかと思った。助手席でゆっくりしていると法務局から電話があった。音声を下げていたのと、ブルートウースを切っていたので直ぐに出ることが出来ず、こちらからかけ直すことになった。かけ直してみると、書類に不備が見つかり再度提出することになった。後で考えてみると、本当に基本的なミスをしていたことがわかった。思いこみというものは恐ろしい。おかげで明日再び神戸に行かなくてはならなくなった。


9月28日 神戸法務局に書類を再び持っていくことになった。26日よりは早めに出たが渋滞に巻き込まれ、伊川谷の駅に着いたのはそれほど変わらない時間であった。窓口に行くとブースを案内してくれた。暫く待っていると担当の人がきたので、差し替えようの書類を渡した。手続きが完了したときにまた来なくてはいけないのかと問うと、郵送でも出来るとのことであったので、切手を買い郵送の手続きをして帰った。帰る途中、地下鉄の駅で法務局より電話がかかってきて、戻らねばならないのか心配したが、確認の電話であったので助かった。地下鉄の構内では電話の内容はほとんど聞き取ることは出来なかった。時間を見ると11時前であったので、Aさんのところに行ってお参りをして帰ろうと思った。おかあさんが亡くなったことは、10日ほど前本人さんからのメールで知っていたが、その機会がなく東加古川病院の帰りにでも行くつもりであったが、早く済ませたいとの思いから今日行くことにした。少し迷いながら自宅に行くと、おとうさんの遺影の横におかあさんの遺影がまつられていた。やはりそうかと思ったが、仏壇らしきものはないのだなと改めて思った。遺影そのものは良い姿で映っていたが、棚の上というのは何とも言えない感じがした。話を聞くと大阪の一心寺のところに、納骨されるようなので、しばらくはここでまつるということなのだろう。Aさんには兄弟もないので、誰も何も言わないと思うが、私自身はやはり何とも言えない違和感を感じてしまう。それは、たとえ自分ひとりの親であっても、孫が居るわけだし、その孫にとっては得難い祖父母なのだから、みんながもっと顔が見られるところに、祀ってあげれたらと思うのだが。


10月4日 法人の登記が完了したので証明書をもらいに社の法務局に行った。手続きが思ったよりも早くできたので、2回目に神戸に法務局に行ったときに郵送でも可ということをきいていなかったら、しんどい目をしなくてはならなかったので助かった。社での手続きは簡単に済んだので、ついでに裁判所に行って申請書類の一式をもらいに行った。二部もらったが、何のために使うのかと聞かれたので名刺を出して説明した。これからここに行くことが多くなると思う。法人が後見人になれたらと思うが、これから少しずつ進めていかなければならないと思う。その後、みなと銀行の加西支店に行って、口座の開設を申し込んだ。証明書が有れば簡単に出来るものと思っていたが、法人の口座は審査があるようで、直ぐには出来なかった。なかなか難しいものである。それから、県税の事務所に行って、減免の手続きをお願いしたが、これも定款などの添付書類が必要でその場で直ぐにというわけには行かなかった。やはり1つ1つやっていく中で、解決していくのだろうと思った。


10月14日 人権交流祭があった。昨年に比べて好天に恵まれたのは良かったが、アトラクション的なものが少なく午前中は時間をもてあますのに疲れた。駐車場の仕事も暑くて大変であった。昔の時はといっても20年近く前であるが、解放祭という形で部落差別のことがメインであったが、ここ最近はメインになるものが少なく人集めというのが目的になっているような気がする。それであるのなら、会館祭りとして、取り組む方がいいのではないかと思ったりもする。子どもを呼ぶために食べるものは無料としているが、何か釈然としないものがある。会館の中の展示を見たり、人権教室の話を聞いたり、そのうえで無料で食べればいいのであるが、実際はそうなっていないし、大人も劇を見たり、講演を聴いたりする人はわずかである。来年は町行政の役が変わるので、実行委員になることはないと思うが形そのものを考えて行かねばならない時期に来ていると思う。

 解放同盟の人権劇にM不動産が出ていたのにはびっくりした。お寺のことや隣保のことは自分から脱退したのに、解放同盟を続けていたのにはびっくりした。続けるには何らかのメリットがあるのであろう。実際のこのような人がいるから逆差別のようなことが言われるのである。解放同盟に入らなかったのは、他にも差別を利用する人があることを知っていたからだが、改めてその現実に直面したという感じである。一緒に活動している人はどう思っているのだろう。そして、町内のことも含めて古き考えが残っているのも、こういった現実を許してきたからだと思う。


10月21日 善防公民館のバザーがあった。去年は台風で中止になったので2年ぶりの開催であった。テントの設営も金曜日の午後から行った。これまで立てていたところよりも、北側の所しか開いていなかった。これまでよりも先にやっている感じで、好天になるだろうという予測からか、完成した状態で二日間立てることになった。バザー当日、少し遅刻して8時過ぎについたが、すでに保護者会の役員さんは来ていた。8時からスタートなのだから当たり前なのであるが、バザーなど店開きしてしまうと逆に10時の開店まで持たせるのが大変。これまでも何回かフライングをしたことがあった。イカ焼きの準備をやらなければと思っていたが、肝心の施設からの材料が届かないので手持ちぶさたであった。結局材料が来たのが、9時半頃でここから準備をすることになった。ガスの火がつくか、これがいつも心配なのだが、今回はガスボンベそのものがロックがかかっていて使うことはできなかった。1つのボンベを焼きそばと共用することになったが、ガスが持つかどうか不安だった。しかも、イカ焼きになかなかガスが点火せず、これも時間がかかってしまった。ただ今回は焼く量が100食であったので、余裕を持つことができた。売り上げも、夏の時は150食作ったにもかかわらず、15000円にもならなかったが、今回は11000円になっていて、思った程良く売れたので良かった。イカ焼きは、12時過ぎには終わっていたので、それからあとはゆっくりすることができた。その後、1時半過ぎからバザーの方の片づけも始まり、2時半にはテントの片づけも終わり、保護者会としては解散した。立場上、テントが残っていたので、施設の職員が軽トラで来るのを待っていたが、一時間たっても来ることはなかった。仕方がないので施設に連絡しいつ頃来るのか確認した。するとまだ一時間はかかると言うことであったので、話しにならないと思ったが、行きがかり上帰るわけには行かず暫く待つことにした。当日の予定がどのようになっていたのかはわからないが、職員の動きもタイトなものであったのだろう。これまでなら、理事長の奥さんがおられたことで無事に済んでいたことが、そうでなくなってきたのだろうと思った。1つ1つの確認が要求されるようになってきたのだろうと思う。今回のバザーの件で、これまで何となく無事でやってきたことをもう一度見直す必要があるように思った。それと、休憩の時にIさんと後見人のことについて話しをしたが、わかっている人は本当に少ないということを前々会長と話しする中で改めて思った。一番残念なのは、反応がなかったということである。先に手紙を差し上げたことに対して、先方からそのことについて聞いてくれればありがたかったが、なにもなく無視されたような感じで本当におもしろくなかった。手紙だけでは難しい面もあったと思うが、それだからこそそれに対して関心を持ってもらいたかった。NPOを育てていくのは会員の協力がなければできない。


10月23日~24日

かぞくねっとの全国大会があった。火曜日の朝、出かける前になって娘のこだわりが強くなり、Hさんとの待ち合わせに遅れてしまった。最初の頃は、間に合わないと思っていたが、ペースが早くなり、何とか間に合うのではないかと思ったのがつまずきの元であった。コンビニの弁当を見せる袋にいつも入れてなかったことが、混乱を招いたことになった。やはり事前の準備が大切であると思った。待ち合わせの時間には遅れたが、舞子ビラには9時半には着くことができたので当初の会議には参加することができた。全国大会ということもあって、事前の準備はいろいろされていたと思うが、どうも空回りしていたようで、受付の終わり頃になって、ようやく受付の紙が見つかったりと、ちぐはぐなことがいくつかあった。

 大会は定刻通り始まった。Kさんはさすがに司会慣れしている感じで、てきぱきとされていたのが印象的であった。Hさんとも話したが来賓の立場にある人に司会をお願いするのもおかしいが、受ける方もおかしいのではないかと思った。最初の講演は厚生労働省の専門官の報告であった。昨年秋田の時に聞いていたのとそれほど変わらない内容であった。違ったことというと今年の4月に報酬改定がされたことぐらいで、そのほかは変わったことはなかった。次の講演は明石市長の話であった。市長の話はこれまで何度か聞いていたが、今回ほどテンションの上がった講演はなかった。最後尾で講演を聴いていたが、耳にがんがん響く感じで選挙演説を聴いている感じであった。聴衆の反応も高くそのことがより市長のテンションを挙げていたような感じであった。熱き思いというものは十分伝わったのではないかと思ったが、好感を持てなかった人は何人かは居たように思った。

 夜は交流会があった。司会をしなければならないということで、少しはプレッシャーがあったが、Kさんほど上手にできるわけでもなく、司会が目立っても仕方がないので、あまり目立たず冷静にやっていこうと思った。だから思ったほど緊張することもなかった。司会の合間に食べたので、食べた気がしなかったが、M施設長やY課長と話しをすることができたのは良い経験になった。M施設長とは娘のことで少し前向きな意見を聞くことができたし、Y課長とは成年後見について、法人として協力を仰ぐことができたのは良かった。途中、実行委員長の声かけで、各地の記念撮影が始まった。それぞれが集合するのに時間がかかったりして、予定の時間より遅れがちになったが、その分、挨拶をいう人が短くなって全体では5分の遅れで散会した。とにかく交流会が終わって良かった。交流会後は二次会があるのかと思っていたが、舞子という地理的なこともあり、ホテルのカラオケルームがすでに予約でいっぱいだったこともあっておとなしく過ごすことになった。同室のMさんとははじめての出会いであったが、子どもさんのことや本人の病気のこと、これまで全施連のことなど知らない話をたくさん聞くことができた。特に、丹波の地でかぞくねっとの活動に新風をまきおこしたことはとても参考になった。

 翌日は、全員参加型討論会の名の下に話し合いがもたれた。施設側からは「あかりの家」と「陽気会」の話しだった。「あかりの家」の話を聞くのは10年以上たっているが、そんなに変わらない話しであった。ただ、お葬式に支援してくださる話しは心強いものがあった。「陽気会」の話は全施連の受け売り的なことが中心で、時間の割に何を言っているのかよくわからない感じがした。施設としての取り組みの概要が見えてこなかった。施設の話のあとは親からの話があった。福岡の第2田川学園の保護者会長の話は、事前のデーターが取られていて、話の内容に説得力があった。何事でもそうであるが、実態をつかむことなく話しをしてもそれは机上の空論でしかない。そういったことを考えると、地に足の着いた話しではなかったかと思う。その次は、「あゆみの里」の話しであった。その中できずなノートの紹介があり、成年後見に役立つと思ったので購入することにした。8年前に発行されていることから考えて、それなりに取り組みがなされていたのだなと改めて思った。これらの人の話しを聞いたあと、質問の時間があったが、質問者は自分のことの話が中心で、聞いている者にとっては単なる愚痴を聞いている感じしかない。本人はそれでよいのかも知れないが、質問する以上自分のことがもっと全体のテーマとなるようにして欲しいと思う。フロアーからの発言になるとどうしても聞くに堪えないようなことが多く、共通の理解に繋がらない。その後、休憩を挟んでからは大学の先生の纏めだった。募金で集めたお金で、本を発行することが中心で、いいことも言われているように思うが、なじめないことの方が多かったように思う。昼過ぎには全国大会は終わり、来年は仙台と言うことの報告があった。10月7日〜8日の日程であるが、月曜日と火曜日というのがひっかかった。全国大会は自分については得難い経験であったが、今後これからも忙しくなるような気がした。早速、リレー随筆の依頼があったからだ。


11月10日~11日 報恩講があった。そのときに支援課長の長女の告別式があったとはびっくりだった。さぞかし落胆されているのではないかと思う。合同行事の反省について、添付ファイルで送信しなくてよかった。よけいに落ち込まれると思った。報恩講は朝の準備から集まりが悪く大変であった。生ける花は三つと聞いていたが、それが四つになっていた。こういったことはこれまでもあったが、花はたくさんあったので、何とかなるのではないかと思った。生け始めて松が少ないのは困ったが、正面を生けるのにたくさん使われたので、あるものでやるしかないと思った。花を生け終わると供物を供えることになった。いつもと違って、グレープフルーツがなかったが、これもあるもので供えた。だいたいできたときに坊守さんに領収書のことを尋ねたが、整理できていないとのことであった。たった四枚の領収書のことなのに何でこんなに時間がかかるのかと思ったが、晩の時には整理できていることを期待した。

 晩になりお勤めが始まった。やはり参加者は少ない。懇志だけ置いて帰る人もあり、十数人が最後までいた。布教師の話はそれほど悪くはなかったが、休憩が二十分あり間延びしてしまう感じであった。坊守さんからは領収書はもらえなかった。

 翌朝は9時からおつとめが始まった。昨日よりも参加者が少ないのは例年通りであった。懇志は全部で34件で11万円あった。額的にはそんなに悪くないが、これまで総代をした人や町の中でも割と発言力のある人が、懇志もなかったのは残念だが仕方がないようにも思う。片付けのときは参拝の人が手伝ってくれたのでわりと早くすんだ。坊守さんに再度、領収書のことを確認したが、二、三日待ってほしいといわれた。早く済ませたいと思ったが、なかなかできないものだ。支払いを待ってくれというのはよくあるが払うのに代金を待ってくれとはおかしな話だ。


11月26日 保護者会のIさんの告別式があった。77歳であった。白血病と聞いて、五月の連休の時にお見舞いにいってから半年が過ぎた。先月のバザーの時は元気な姿を見せていただいて、半日あまり金庫番をしてくださった。てっきり快方に向かわれていると思ったが、入院したときのことを考えると、いつ亡くなられてもおかしくなかったのかなあと思う。話好きで明るくて、存在感のある人だったので、信じられないというのが正直な思いである。10月はじめの時に、すでに後見人の手続きをされている方で、今後のことについてお手紙を6人の方に差し上げたが、反応を示していただけたのがIさんだけであった。自分の体調のことも考えて、息子さんに後見人の手続きをされていたことを話してくださった。さすがというか、やはり先のことを考えておられたのだなと改めて思った。そうだからこそ、こんなにも早くお迎えがきたのかと思うと複雑な思いもする。通夜の時はそれほどでもなかったが、出棺の時の娘さんのことを思うと、つらいだろうなあと思う。母親が亡くなったことについて、とうてい受け入れられないだろうと思う。自分の思いとは違ってかってに式が進行していき、訳の分からないまま母親と別れなければならない。骨上げの時の気持ちはどうだったのだろうかと思う。家族葬ということであったが、それほどたくさんの家族がいるわけでなく、今後は息子さんから相談を受ければ、後見人のこともふくめて、親身に関わってあげなければと思う。それにしても、保護者会にとっては惜しい人を亡くしたものと思う。


12月10日 施設の忘年会が「のんき」であった。午後4時からの開始であったが、事前の連絡を受けていた人以外ではFさんがまだ来てなかった。前回の時も無断欠席であったので、忘年会の出欠も気になったのでNさんに電話してもらった。20分ほど遅れるとのことで、しかも2人参加だとの返事であった。これまでの様子から2人参加は考えられたが、連絡がなかったので1人としてカウントしていた。やはり、確認せねばならないのかとも思ったが、子どもではあるまいしいちいちそこまで言わねばならないのかとも思った。役員会の中では、保護者会費のことなどいろいろ検討することはあったが、Fさんは一言もなにもいわれなかった。思うことはあったと思うが、忘年会が遅くなるとのことで、あえてなにも発言されなかったのかもしれない。

 忘年会が始まると早速焼酎のお湯割りを注文していた。今回から飲む人は千円アップであったので、飲むことはなにも問題ないが、これまでと同じように半端でないペースで注文されていた。特に、理事長が来られてからはそのペースが速くなった。理事長も体調が思わしくないにもか関わらず、負けじとハイペースで飲まれていた。飲む人はこの2人であったので、他の人はアルコールを飲まないので、そんなにお金はかからないと思ったが、支払額を確認すると2万円ほど足りなかった。忘年会は2時間にも満たなかったので、いかにハイペースで飲んでいたかがわかる。

 その忘年会で私は途中で退席したが、その理由は2人の飲むペースがハイペースであったということは関係がない。理由は役員会ではなにも発言されなかったFさんが、酒の場でそれを蒸し返すようなことを言われたのがトリガーになった。それは、

「かき回さなければ、なにも問題が起こらない。そして、かき回しているのは会長である私。」

という発言であった。保護者会費について、問題点を把握しているのが私だけでその私があえて議題にあげなければ、揉めるようなことはないというのがその真意であった。確かにそういう考え方もあるとは思う。ただ、その意見は役員会が終わった酒の場で言うことなのかというのが私の率直な思いである。それでは何のために、役員会を事前に持ったのか、意味をなさないではないか。役員会では検討をしていくということでまとまったからだ。その後もFさんからは何の連絡もない。こちらもあえて関わることはないが、先日亡くなられたIさんとの違いを思うにつけ残念な限りである。

 12日に神戸で「かぞくねっと」の会合があり、忘年会のその後の様子を尋ねると、みんな何もいわず、デザートのアイスを食べた後帰途についたということであった。酒の場ではFさんといろんなやりとりがあったが、私も今から蒸し返すわけでなく、何もなかったことにして今後のスケジュールに従ってやっていこうと思う。それが大人の対応というものであると思うが、酒の場であるから冗談ではなく、本音がでていたと思うのは間違いのないことで、そうであるならば、しらふの役員会の時に発言をしてほしいものである。


12月13日 娘のショートスティの2日目で、今回は旅行や孫と関わることもないので、早朝に出発し、高槻のNさんのところと京都のNさんのところに行くことにした。10月の時に高槻のNさんには出会えなかったので、4ヵ月ぶりということになる。京都のNさんは5月に出会ったので7ヶ月ぶりということになる。

 高槻のNさんのところにいくのは、Sさんの車に乗せてもらった。Sさんとの出会いは、6月以来だから半年ぶりということになる。思えば結構時間があいたものだと思う。お互い仕事をしていないので、時間を合わせられるものと思えばできたと思うが、高槻のNさんの都合のいいのが木曜日ということなので、それを基準に考えるとそうもいかないことがわかる。8月に高槻のNさんと出会ったときはMさんの奥さんと一緒であった。その時はいつものように、食べるものを持ってきてくださっていて、ホールのところで会食したことを覚えている。弟さんも居られてベッドから車椅子への移乗などしてくださり、高槻のNさんも気持ちの上では割と元気で、裁判のことや介護のサービスのことなどいろいろと話をされていた。私もこのようにしたらとかいろんな提案をすることもできた。しかし今回は弟さんも来られてなく、部屋で話をすることが中心となった。これまで病院に行ってお見舞いしたのと同じような感じであった。病院と違うのは、ボタンを押さない限りスタッフは誰も来ないということだ。そして、ボタンを押してスタッフが来るときは、それは有料のサービスということになるということだ。高槻のNさんのおられる高齢者住宅は定員を満たすまでは、低姿勢というかサービスも割と良かったが、定員を満たし待機者がふえるようになると、何時出て行ってもらってもよいという感じで、施設側の態度が変わってきたと言われていた。つまり利用者が施設を選ぶのではなく、施設が利用者を選ぶようになっているということである.これは施設でも感じることで、対応が難しい人はなかなか受け入れてもらえない。措置の時代であるならば、社会的使命というものがある程度あったと思うが、生産性や費用的効果などが叫ばれる昨今にあっては経営理念が働くのはやむを得ないのかも知れない。受けている介護サービスについても、20分単位でチェックシートのようなものがあり、いくつかのサービスをしたことが記載されていた。サービスがお金に換算されているようで、効率を上げるだけであるならば、AIのほうがいいのかも知れないと思った。

 そして特に気になったのが、高槻のNさんの気力がどんどん衰えていることであった。

「最近は、テレビを見たり天井を見たりして、過ごす時間が増えた。」

と言われていたが、そのことばを聞いて何ともやりきれなさを感じた。脊髄損傷の人がそれなりにがんばって生活している人は割りとあるし、この年末には「こんな夜更けにバナナかよ」の映画が封切られることもあり、障碍者として自己主張をしながら生活をエンジョイしている人は多数ある。時間はいっぱいあるわけだし、自分さえその気になれば道は開けると思うが、高槻のNさんが落ち込んでいるときに、そういったことを話しても詮無いことである。自分ができることは何回か訪問することぐらいで、顔を見させてもらうことしかない。それも時間をいろいろ工面しなければできないことである。「今日行くと今日用」と言う言葉があるが、私自身も毎日そのようにして生活している。そうでなければ何のために自分が生きているのかわからなくなってしまう。もちろん体が健康であるからできるのであろうが、健康でなくても、それなりの楽しみは自分で考えていかないと駄目なような気がする。高槻のNさんのように、急転直下このような事態になったわけでもなく、何年もこういった状態が続いていると気持ちが落ち込むのは仕方のないめんもあるが、自分に与えられた人生を大切にしてほしいと思うばかりである。それには、やはり人との繋がりしかないように思う。今度行くのは、来年の2月か3月以降になると思うが、それまでに元気な姿を見せてほしいと思うばかりである。

 Sさんに阪急の高槻市駅まで送ってもらって烏丸に着いた。少し時間があったので、錦市場でビールの当てになる出し巻きとてんぷらを買った。四条烏丸からは仏教大学まで上賀茂行きに乗ると30分あまりで着いた。時間を見ると2時であったので構内で半時間ほど椅子に座って転寝をした。2時半になり、京都のNさんの研究室に行った。今度ここに来ることはないと思うと一抹の寂しさを感じた。部屋の中に入ると、蔵書が半分以下になっていて片づけが少しずつ進行していることがわかった。錦市場で買った出し巻きとてんぷらをあてにビールを飲んだ。恵比寿ビールであった。足が痛いなどの持病は抱えられているが元気そうであった。哲学者のK君のことや私がこれまで読んだ本のことなどの話をした。そのなかで、小説に応募していることを話すと、文章の書き方の本を2冊下さった。今後の参考にさせてもらうことにした。それから退官後にお邪魔させてもらってもよいかと話をすると、好意的な返事がもらえたのでよかった。来年の5月以降にI君とお邪魔できたらと思うが、I君が仕事を続けるかにもよると思う。京都のNさんは、退官後は「晴耕雨読」のようなことを言われていたが、町内会のことなどこれから忙しくなるかも知れないと言われていた。今までお世話になっていたので、順番というか忌避することはできないと思っておられたのは納得がいった。私自身は町内のことはこれまで割とやってきてので、宝くじが当たれば施設がある加西市に転居したいと思っている。4時過ぎまで、研究室にいてと一緒に京都駅まで行った。私はそこからJRで帰り京都のNさんは近鉄で帰った。また再会したいものである。


12月16~17日 久しぶりに娘と旅行に出かけた。施設の旅行では楽しめたこともあり、今回は少し経験を広げられることを期待していたが、なかなか難しかった。

 16日の朝、午前3時前には起き出しドラえもんのビデオを見てすごすことになった。いつもなら、ブレーカーを落として見られなくするのであるが、眠たいこともあり、また運転せねばならないことを考えると、無理はできないと思いそのまま見させることにした。6時半になり私が起きてから朝食の用意をしたが、途中でビデオを止めて朝食を食べることはなく終わるまでそのまま見ていた。8時になりビデオを見るのをやめかけたが、何処でビデオを止めるかでこだわり、なかなか終わることができなかった。そして、それから朝食を食べだしたが、何か気になることがありなかなか進まなかった。仕方がないので薬を先に飲ませるようにすると、私の足の位置や口元が気になり、それもなかなか進まず結局は水気のものを流し込んだだけで食事は終了した。それから、着替えにかかったがここでも時間がかかり、一人で着ることはなく、着せてもらうようなことになった。出発にこぎつけたのは10時を少し過ぎていた。車に乗ってからも時間が少しかかったので、10時半になってようやく出発した。

 出発してしまうと、問題はないがお昼ご飯を何処で食べるかということになった。最初のところの三上神社には昼ごろに着いた。どこか食べられるところがあるだろうとの推測で、吉野家で牛丼をテイクアウトしたが、境内は食べられるところがなかったので結局車の中で食べることになった。もう少し早く出発していれば、近江富士公園で食べることができたと思うが、時間の余裕がなかった。その次の太郎坊宮は久しぶりに運動することができた。駐車場が山の中にあったが、始めてきたこともあって、ふもとに止めざるを得なかった。あまりにもたくさんの階段を上ったので、娘も結構疲れたようで、発作というかチアノーゼ出てとてもしんどそうであった。上までは無理かと思ったが、何とかがんばって本殿まで行くことができたのはよかった。本殿からの眺めはよくがんばって登った甲斐があった。今回の旅行ではなんと言っても、太郎坊宮に行ったことが一番の思い出である。それから豊郷小学校に行った。行く途中でローソンでアイスとスイートポテトを買ったが、食べる気がなくボーっとした感じが残った。小学校についても見学することはなかったので、ホテルにその後直行することにした。ホテルはこれまでも泊まったことがあったので、入るときは割りとスムーズに入ることができた。ただ、発作で失尿していたこともあり、ホテルに着くと、すぐに娘はお風呂に入るようにした。お風呂に入っている間、近くコンビニに行き、夕食のおかずを買ってきた。お風呂から上がると食べる用意ができていたので、娘のひとりで別室で食べさせた。私たちは隣の部屋で食事をした。テーブルが小さかったこともあり、この方がよいように思った。娘が食べ終わると7時になっていた。見たいテレビ番組もないので、あまり寝ていないこともあってそのまますぐに寝ることにした。これで、朝までぐっすり寝てくれたら何も言うことはないが、残念ながらそんなふうにはならない。12時位から起き出すとベッドを替われといって何回も移動してきた。その回数は家で眠るときの2倍はあったように思う。これまでも生理の前はなかなか寝ないことがあったのでこちらもあきらめていたが、それにしてもその回数は半端ではなかった。それにチックの症状が強く、大きな声を出したりするので、隣りに迷惑がかからないかそのことも気になった。娘はほとんど寝ないまま、一晩を明かしたが6時過ぎには私たちも起きた。娘は起きてすぐにお風呂に入った。その間に私たちは朝食を食べた。7時すぎにはお風呂から上がり、着替えもできていたので、朝食を食べればすぐに出発できるものと思っていたが、テレビを見ながら食事をするということができず、結局9時を過ぎてもまだ朝食が済んでなかった。結局、今日もまたやいやい言って食べさせる事態となった。ヨーグルトや水などのものはこちらが飲ませた。パンは最初パスさせるつもりであったが、本人が食べたいというので待つことにした。ホテルのチェックアウトが11時であったので、時間的には余裕があったが、10時であれば相当あせったと思う。何とか食事が終わりホテルを出たのは10時を少し過ぎていた。今日のメインは近江八幡に行くことであったが、生憎の天気で少し雨が降っていた。八幡の日牟礼八幡宮に着いたときは、雨が上がっていたのでお参りすることができた。もう少し周辺をお参りしたいとも思ったが、ちょうどお昼ごろになっていたのでお弁当を買うことにした。娘よりも私たちのほうがおなかがすいていた。ほか弁を売っている店は案外少なかった。途中、有名な「たねや」の店があったので、そこで、生どら焼きを買って食べた。少しおなかが膨れたので、次のアウトレット竜王に行く途中に店があるかも知れないと思い、探したがいい店がなかった。アウトレットは広くて駐車場から行くだけでも時間がかかるので、そうしていると昨日高速を降りた栗東インターの近くまで来ていた。そうすると、昨日行くことができなかった近江富士公園があり、近くにスーパーマーケットがあったのでそこでお弁当を買うことにした。近江富士公園で食べるつもりでそこまで出かけたが、月曜日閉園ということで結局車の中でお弁当を食べることになった。2日目ももう少し早く出ていれば、いろんなことができたと思うがそのようにはならなかった。睡眠が十分に取れ、食事がスムーズに行かなければいい旅行をすることはできないと改めて思う。次回は5月、娘の誕生日に予定しているが、どんな旅行ができる心配である。今回の旅行でスケジュールを作ったが、何処で食事をするかについてはもう少し詳しく考えていったほうがよいと思う。


12月25日 支援課長と個別支援計画についての話し合いを持った。音楽レクの時にトラブルがあり、それに対して申し入れたのがきっかけであったが、ちょうど中間評価が出ていたこともあり、いいタイミングで話し合いを持つことができた。6月の時には担当の支援員さんの体調が思わしくなく、一応支援係長にはお話しをしていたが、こちらの要望については何も取り組んでもらっていなかった。なぜ取り組みがなかったのかも聞きたかったが、担当があやふやなままであったので仕方がないめんもあった。それに一応担当は支援課長になっていたが、お子さんをひと月前に亡くされたばかりなので、私としても言いづらい面もあったが思ったほど早く話し合いが持てたことが大きかった。話し合いをするために、資料は私のほうから用意した。事前に中間報告をもらっていたので、それについてこちらの意見がわかるように纏めればよいかと思った。だいたいこちらの要望通り話し合いは進んだがあとはいつからそのことに対して取り組んでもらえるかである。話し合いの最後で、支援課長が思わず泣かれたのは、ずっと堪えていたものが堰を切ったような感じであった。前途洋々の若者が命を落とすということは、親としては耐えられないものであろう。課長の涙は、卒業生のW君が亡くなったときのことを思い出す。彼が亡くなって早いもので、もう六年が過ぎるので今年は七回忌ということになる。


12月28日 施設に娘を送っていくのは平成30年では最後になった。今日からショートスティなので、明日迎えに行くと1月3日までは正月休みということになる。今年取り組んだことはなんと言っても、NPOを立ち上げたことであるが、その後の活動についてはなかなか進んでいない。理解が広まらないことによると思う。しかし、やっている方向は間違いないのでとにかく継続して行かねばならない。術後、一年経つが経過は良好で今後もこの調子であればと思う。年末に支援課長と話し合いを持てたことで、今後の取り組みにいかせて貰ったらと期待するのみである。娘が楽しみを持って通ってくれることが何よりである。そしてその延長上に入所ということが考えられる。それはお互いの自立ということである。かぞくねっとの全国大会では、交流会の司会をさせていただいた。大きな経験になったと思う。今後も、かぞくねつとのことは活動の大きな部分を占めていくと思う。

 友だち関係では、Iくんを通して、Mくんと再会できたことは良かったし、彼の行動から刺激を受けることもあった。京都のNさんとは退職後のことも含めて、話しをすることができた。これからのつきあい方が楽しみである。高槻のNさんは、意欲が低下しているのが気になった。何か生き甲斐のようなものを見つけてくれればと思うが、あまりそのことを言うわけにはいかない。もし、自分が高槻のNさんの立場であるならば、決して受け入れることはできないと思うからだ。とにかく、ふた月に一度は顔を見せてあげられることしかできない。Aさんとはお母さんのお参りをのけると一回しか出会っていない。どうも、こちらから積極的に出会おうとは思わない気持ちになっている。出会っても刺激を受けることがなく、何か後ろ向きの気持ちになるからだと思う。おそらく待ちの姿勢で対応することになると思う。

 寺の総代が来年の2月で終わるのはほっと一息というところである。この2年間あまり得るものがなかったように思う。つきあえばつきあうほど住職の短所が見えてきて、その人となりにがっかりすることがあったからだ。それは坊守さんに対しても同じことが云えた。今後は、距離をおいて関わることになると思う。財産組合と町行政に対しては来年は今よりも忙しくなると思う。それは仕方のないことであるが、できれば西脇市から加西市へ転居したい思いはより強まってきた。なんとか、宝くじが当たって欲しいというのが願いである。


平成31年


1月1日 お寺に初参りに行った。12人しかいなかった。例年よりも少ない。特に、女性のひとは仏婦の会長と副会長だけであった。読経は正信偈だったが、いつものように最後は恩徳讃になっていた。どうして経文通り読まないのか不思議に思う。その後、住職から提案があった。鐘楼を造ることに対しての意見を問うものであった。なぜこの時期に鐘楼なのか?思いも寄らなかったが、賛成に手を挙げたものは誰もなかった。私としてはこの場で話すべきものでないので、2月にある門徒の会で提案するのが筋ではないかと言ったが、その意見に対して住職は門徒の会では提案しないとのことであった。帰り道親鸞聖人像を寄付したひとが、その当時のお金でトヨタのクラウンが買えるぐらいのお金を寄付したそうだが、今の時期に鐘楼を造ったところでどれだけの者が参るか、もったいないと思うと言ったことが気になった。

 元日の朝は9時過ぎに起きた。娘は5時頃から起きていて、ドラえもんのビデオを見ていた。9時半頃、お酒の用意もできおせち料理を食べ始めたが、娘は続けてビデオを見ていたので、夫婦2人で酒を飲みながらおせちを食べた。介入されない分ゆっくり食べることができた。長女からもらった久美浜のお酒久美の浦がとてもおいしかった。我々2人が食べ終わると、娘もようやく食べ始めた。たくさんの料理を自分のペースで心ゆくまで食べていた感じであった。三段重のおせちが、酢の物だけを残してほとんどなくなっていたのにはびっくりした。食べ過ぎの感じであった。そのため、しばらくしてから下痢となった。何回もトイレに行くように声かけしたが、カタトニア的な感じで動くことはできず、おむつの中でしてしまうことになった。トイレに行けばすぐに済んでしまうのに、なぜ動けないのか?それがカタトニアということはわかっているが、事前に言っているので何とも腹立たしい限りである。


1月2日 3日 ともに、播磨中央公園を歩いた。ホカ弁が開いてなくて、弁当を調達するのに一苦労した。弁当を買って公園に行くとなかなか車を止めさせず、駐車場を行ったり来たりしている間に、1時間近く時間が経ってしまった。歩くときはまあまあスムーズに歩いていたが、一度立ち止まりやり直しがあると、元のところに行くまでにずいぶんと時間が掛かった。本人もしんどいと思うが、ひっかかるとなかなかペースが戻らない。それに歩き方もおかしくなり、一歩動かすのにぎくしゃくしてしまう。とにかく2日とも、合計して播磨中央一週コースを歩いたので、運動量としては納得のいくものであった。去年の時は、食べるのも歩くのもなかなかであったが、一年経ってみてずいぶん回復してきたとは思う。ただ、時々傷口が痛かったり、かゆかったりするのは、傷口の回復から考えると、まだ時間を要するのかも知れない。


1月10日 姫路の義兄が心臓の手術をしたというので姫路循環器センターに見舞いに行った。元日の晩、集中治療室から一般病室に変わったと姉から聞いたのが最初であったが、なぜ今まで黙っていたのかと問いつめると、

「心配をかけたくないから」

とのことであった。それなら、退院してから連絡してくれればよいものをなぜ元日の今になって連絡するのかと言うと、姉もほっとしたようで、とにかく伝えたかったような感じであった。自分なりの考えである。これまでもそんなことがあったと思うが、なにかしら腹の立つことであった。

 手術して退院までは2週間と聞いていたので、28日に手術したのであれば、10日ぐらいに行くのがいいのではないかと思った。それに面会時間は午後3時からで、帰りも遅くなることを考えると、娘のショートスティのある10日の木曜日が一番良いように思えた。見舞いに行ってみると、義兄は病室からいなくて、どこかに行っているとのことであった。いつ帰ってくるかわからないので、とにかくテレビのある待合室でしばらく待つことにした。そうしていると、姉から今病院に着いたとのメールがあり、しばらくして姉が待合室にやってきた。義兄はまだ来ずそこで、しばらく話をした。回復の状態は良く、自転車こぎなどにリハビリに行っているようだった。リハビリから兄が帰ってきた。少し痩せてはいたが思ったよりも元気そうであった。術後も食事を残さず食べたようで、生命力の強さを感じた。傷の治りも早そうで、術後一年たつ自分の傷口がまだしっくり来ないことを思うと、早く回復しているようであった。とにかく元気そうであったが、大きな手術をしているだけに、無理はしないようにと思ったが、まだしばらくは働くようで心配な気もしたが、働かないとやっていけないこともあり、なかなか大変であると思った。


1月15日 中古のパソコンを買って入れ替えた。バッテリーがどれだけ使えるか不安であったが、今日バッテリーだけで使ってみて、フル充電ならば2時間近く使えることがわかった。これならばもっと早く中古のパソコンを買っておけばよいと思ったが、新しいパソコンがキャンセルになったおかげで返って良かった。不思議なものである。


1月16日~17日 京都旅行

 昨年の9月以来の夫婦での旅行となった。亀岡の西友に車を止めて電車で行った。花園で降りると、バスにスムーズに乗れるので、花園で下車した。そこから、京都バスの四条河原町行きに乗った。バスの一日券を2枚買った。このバスは千本通りから御池通に入るバスで、本数はそれほど多くないものの、便利なバスであった。新町御池で降り、ホテルシャトレーインに荷物を預けに行った。今回から宿泊税が加算されるとのことで、一人400円別途徴収された。フロントの対応はいまいちであったが、一泊朝食付きでしかも大浴場があり、一人3,500円なのであまり文句は言えない。荷物を預けた後、御金神社に行った。わかりにくい小さい神社であったが、多くの人がお参りに来ていた。前にも夜遅くお参りに来たが、そのときは御朱印を貰うことができなかったので、今回は御朱印を頂くことがねらいであった。ただ御朱印は書き置きのものが置いてあった。ホテルからすぐ近くの所に神社はあったはずなのだが、スマホのナビを車に置いていたため、思ったほど時間がかかってしまった。一方通行などの制限があったからだろう。御金神社の後は、吉田神社に行った。新町御池から京都バスに乗り四条京阪で降りた。バス停は川端通り沿いにあったので、下車してから四条通のバス停まで歩いた。市内循環の201系統のバスに乗った。京大正門前で降りた。降りるとすぐに大きな看板の案内が目に入った。前回は少し手前の丸太町のバス停で降りて、聖護院に行ってから吉田神社を目指したので、そこまではなかなかで、結局は違う神社を参って残念したが、今回はなぜ間違ったのか不思議なくらいで、やはり最初が肝心であると改めて思った。吉田神社で御朱印を貰い、次は方広寺に行くことになった。降りたバス停まで歩いていると、京大に学校見学に来ていた高校生がたくさんいて、バス停も込んでいたが、とにかく南に降りていくバスに乗ることにした。高校生は二条まで行くようなことを話していたが、途中の東山で降りれば地下鉄に乗れるのでそこで降りた。そうするとバスは余裕ができたが、そのまま乗っていても、方広寺の近くまでは行かないので、知恩院前で降りることにした。知恩院からは207系統のバスに乗った。東山安井のバス停から、たくさんの荷物を抱えた外国人観光客が乗ってきて、通路がいっぱいになった。馬町のバス停までは、後2つしかなかったが、何とか降りることができた。馬町のバス停から方広寺はすぐの所にあった。有名な国家安康の鐘は外にあったが、本堂は小さくほとんど目立たないくらいであった。それで、ほぼ境内を素通りして、豊國神社にお参りに行った。秀吉を祀ってあると言っても、なにかこじんまりとした感じで、徳川に滅ぼされたという感があった。ここでも御朱印を貰い、南に歩いて国立博物館のバス停に着いた。時間を見ると3時半であったので、大谷本廟にお参りに行くことにした。いつもぎりぎりにお参りしているので、今日は比較的余裕があった。五条坂で降りお参りに行った。第1無量寿堂にある檀家寺の「やの26番」と妻の実家の寺の「ふの57番」をお参りした。三年ほど前までは娘と月一回はお参りしていたのが、今ではほとんどなくなって、夫婦でお参りすることになった。その後、親鸞聖人の墓所である明著堂をお参りして、帰りに本堂をお参りした。御朱印がないのでスタンプラリーのようなものがあって、スタンプを押している老夫婦がいた。お昼にサンドイッチを食べただけであったので、バス停近くの茶店で、中華まんを買って食べた。それから後は、西本願寺に行くことにした。直通で行けるバスはないので、京都駅までのバスに乗り、京都駅から又バスに乗ることにした。堀川通りを通るバスでなく、西洞院通りを通るバスであったので、少し迷ったが西本願寺に着くことができた。4時半になっていた。今日まで御正忌報恩講が行われて、その後片づけをされていた。その時に幔幕が五色でなく三色であることに気づいた。また、阿弥陀堂は修理中で参拝することはできなかった。トイレに行って、少し休憩していると、閉門まで後5分と言われた。今日は本願寺であわただしくなった。その後、今まで行ってみたかった島原へ行くことにした。江戸時代の遊郭で祇園よりはその当時は栄えていたと思うが、新撰組と関係の深かったこともあって、今は寂れていたが当時の面影を残す雰囲気は十分あった。島原周辺を歩くと、結構おなかも減ってきた。大宮通りのバス停から207系統のバスに乗った。そして、四条高倉で降りて、権太呂に行くつもりであったが、スマホで調べると定休日であったのですぐ近くにあった天狗という居酒屋で夕食を食べることにした。飲み放題のプランがあり、それを含めてふたりで6、200円ほど支払った。料理はそれほど食べなかったが、飲み放題ということもあって、ビール、焼酎、ワイン、ウィスキーなど少し飲み過ぎた。その後、バスに乗ってホテルに帰るつもりであったが、直通のバスがなく、途中の京都市役所前で下車した。バス停が思ったより、北側にあり、勘違いをしてしまい、バスを降りてからホテルに着くまで、30分近く歩き回った。バスを降りた時点でナビを入れておけば良かった。このときの疲れが結構尾を引いた。ホテルに着くと、8時半を過ぎていた。だいたい予定通りに拝観できたが、夕食から後がさんざんだった。

 翌17日は6時頃に起きた。飲み過ぎたせいで少し頭が痛かったし、睡眠も夜中に2回トイレに行ったので、熟睡できてなかった。7時半頃、朝食を食べにレストランへ行った。バイキング形式でなく、洋食の朝食であった。量は十分満足のいくものであったが、食事を取っている人は私たち以外は一人だけだった。朝食後、チェックアウトした。そして、御金神社に再びお参りに行った。お札を買うことが目的であったが、なかなかいいものがなく、しかも小銭を持ってなかったので、500円のものを2つ買った。それから新町御池のバス停に行った。嵐山行きのバスに乗った。嵯峨嵐山駅近くまで行くバスは本数が少なく、降りてから少し歩かなければと思った。嵯峨嵐山駅でコインロッカーに荷物を預け、そこからの野宮神社を目指して歩いた。多くの外国人観光客がいて、竹林の道は結構混んでいて、写真を撮ったりする人も多かった。野宮神社でもたくさんの人がいた。修学旅行生の中学生もたくさんいた。御朱印を書いて貰うような所はなかったので、お参りだけして次の御髪神社の所に行った。人は少し少なくなり、静かな感じになった。御髪神社は小さな神社で、社務所の方が本殿よりも大きかったが、御朱印は貰うことができた。絵馬もたくさんあって、書いてある内容を見ると、美容師の国家試験合格というのがたくさんあった。その後、嵯峨野散策になった。今までの喧噪が不思議なくらい静かな感じで、いい雰囲気になった。常寂光寺に着いた。お参りに来る人は少なく雰囲気のいいところであったが、小倉山の麓にあるので、結構勾配はきつかった。本堂にあがって、ほっと一息つけるような所はなく、庭園と景色だけを見るところであった。それから二尊院の行った。5分ぐらい歩くと、二尊院に着いた。二尊院というのはお釈迦様と阿弥陀様の2体の仏像があるから付けられた名前であるが、先頃本堂の修理ができたというので、幔幕が張ってあった。この幔幕は五色でいつもよく見ている幔幕であった。二尊院は書き置きの御朱印ではなかったので、書いて貰うことができた。持参した線香やローソクも使うことができた。先の常寂光寺では、妙見堂のところでその御荘厳をした。二尊院を出ると12時頃であったので、「あだし野」という茶店でお昼ご飯を食べることにした。客は私たち夫婦だけで静かであった。昨日のアルコールが残っていたこともあって、お茶漬け定食を頼んだ。妻は雑炊定食を頼んだ。1.000円前後のものであったが、割とボリュームもあって十分満足できるものであった。食べ出して半分ほど食べた頃、修学旅行生のような学生さんのグループが入ってきた。これでこの店もなんとか助かったろうと思ったりした。平日とは言え客が2人だけでは大変だと思ったからである。「あだし野」を後に、祇王寺へ行くことにした。山の方へ歩いていく感じで、よりいっそう静かになった。祇王寺に行く途中に別の寺があった。祇王寺と勘違いして入ってしまった。由緒ある寺のようであったが、壇林寺といい、嵯峨天皇の皇后様のお寺と言ったが、観光客は我々2人だけであった。霊宝館にはいると、たくさんのものが展示されてあったが、それが本物であれば国宝級のものであろうと思ったが重要文化財にもなっていなかった。何かうさんくさいものを感じたが、昭和三十九年にできたということがわかって、やはりうさんくさいのだろうと思った。御朱印もあったが、書き置きのものしかなかったので買わなかった。入るべきでなかったと思ったが、勘違いしてしまった。それから、祇王寺にいった。山の麓の小さな寺であったが、こけが何とも言えず美しかった。小さなお堂があり、靴を脱いであがることができた。紅葉の時はさぞかしきれいだろうと思わずにはいられなかった。あとは、滝口寺へ行こうと思ったが、案内がいまいちであったので、行くのを辞めて寂庵を見学することにした。寂庵の近くまで行くと、案内のチラシがあった。講演会は月一回しかも、聴講できるのは抽選によるとなっていた。そしてその周辺を歩いていると、店の多くがしまっていることに気づいた。嘗てはおとずれるひとも多かったが、最近は少なくその分寂れているのだろう。帰りに、森嘉で嵯峨豆腐を買うことにした。妻は足に疲れが出ているようで、バスに乗りたがったが、バスに乗っても嵯峨嵐山の駅に行くことはできないので、それから20分ばかり歩くとようやく駅に着いた。2時半頃であった。

最初の計画では、4時半頃に駅に到着予定であったが、2時間ばかり早くなってしまった。昨日たくさん歩いたのと、今日も朝からたくさん歩いたのが答えたようだ。京都に行くことはしばらくないと思うが、次の神戸ではもう少し余裕を持った計画を考えることが大切である。特に徒歩の移動についてはもう少し考える必要がある。


1月22日 賀詞交換会がメリケンパークオリエンタルホテルであった。アルコールも出るのでバスで行くことも考えたが、そうするとバスに乗っているだけで2時間かかるので、結局いつも通り、伊川谷に車を置いて地下鉄で行くことにした。「みなと元町」からは、10分程度歩かねばならないが、それぐらいは仕方がないかと思った。自宅から出発して2時間でホテルに着いた。Nさん達が先に到着していた。聞くところによると、もう一人のNさんの運転する車に3人同乗してきたとのことであった。8人がけのテーブル席で、私たちの施設4名の保護者の他、陽気会の2名と三田谷学園の2名であった。どちらもうちよりは歴史のある施設であった。どのような配慮でそうなったのかはわからなかったが、斜め向かいに施設長のMさんとその隣のテーブルに相談支援のOさんが座って居られた。乾杯の後しばらくして、MさんにはKさんからのクレームについて話をした。施設長には連絡が行ってなくて初めて聞く話だと言われていたが、支援課長にあった話が施設長に行っていないのは不思議な気がしたが、Hさんの方で話されてなかったのかなあと思った。新規入所の方がこのような態度であるならば、この先保護者会はどうなるのだろうと思ったが、今日の交換会の中で話をされた方とはずいぶん違うなあと改めて思った。Oさんとは、成年後見の研修会の話をした。相談支援から半数近くの人が参加してくれるとのことで少しほっとした。保護者会からの参加が少ないからだ。その後元の席に戻り会食が始まったが、このメンバーで、どのように話をしていくのかはなかなか難しいと思った。Nさんは話しやすいムードを持って居られるが、人の意見をあまり覚えて居られないので、それが又話題になったりしておもしろいこともあるが、あまり深まっていかない。これはうちの保護者会についても同じ事が言える。Kさんのクレームのメールを見せたが、何か素通りした感じで、他人事のような感じであった。また、新規の入所者が6人もいたことなど、知っていないのも不思議な感じであった。私も会長として、住所を尋ねたことがあって知っているだけで、多くの人にはわからないのが現実なんだろうと思った。

 途中、かぞくねっと事務局のUさんの紹介で、上郡のNPOの方と名刺交換した。会員70名のうち、7割近くが成年後見を取られているとのことでうらやましい限りであった。うちとは意識が違うということがよくわかった。保護者会の活動に、第三者の専門職が支えている感じがして、ホープのように素人ばかりの集まりとはずいぶん違うことがわかった。男性2人であったが、やはり父親の参加というものが必要なのだろうと思う。うちの施設の保護者会の中にも、男性の方で活躍してくれる人が出てきてくれるのを望むばかりである。

 会食の最後の方になって、陽気会のOさんが来られた。元々うちの施設のコーディネーターであったので、娘の時もお世話になったが、それ以上にNさんの息子さんの時はいろんな武勇伝があったのが、話を聞くとよくわかった。その武勇伝を聞くと、今が落ち着いて居られるということが実感された。その当時の苦労は、今となっては笑い話であるが、疾風怒濤というべきものであった。そんなことがあるからか、入所についてはそれほど考えられてなくて、ショートの日数が12日あるので、もう少し増やして貰おうかなという考えであった。娘は16日あるが、増やして貰ったのは孫が生まれるときにお産に立ち会いたいということで増やして貰ったのだが、利用しているのは9日で施設の受け入れがないと難しいのに比べると、日数は少なくても案外簡単に受け入れてもらえるのはうらやましいと思った。もう一人のNさんのところは15日あるが、発作があるので施設が受け入れてくれるかどうか、前もって条件があるようであった。条件ということでは娘と同じであるが、その条件の中味が異なる。娘の場合は、前もって早くから予定を渡しているが、もう一人のNさんのところは担当の勤務が決定しないとわからないそうである。Tさんのところはすでに入所されているが、まだ一度も外泊されたことがなく、外出は何回かしたが家につれて帰ると、次は施設に帰らないと言われるのが怖いとのことであった。入所しているができれば家で見たいというのが根幹にあるわけで、預けてはいてもやはり完全に任しきっているわけではないことがわかる。多くの親はそんな気持ちだろうと思うが、入所者の土日の過ごし方を見ていると、食べて寝るだけの生活になっていて、そこまで人が回らないのが実態である。平日はパート勤務の人がいるので作業などができているが、土日となるとそこまでの余裕はない。また、話題の中でミャンマーの留学生が又1名減ったことが出た。昨年の秋にも1名減ったので、これで採用したうちの半分になってしまった。資格はまだ取っていないので、資格が取れたとしてもいつまでいてくれるか先行きは暗い。人材不足で外国人労働者の採用というのが国レベルでも行われているが、こちらの思い通りには進まないものである。


1月30日

 東加古川病院に娘の薬をもらいにいった。第5の週ということもあって、患者は少なく4番目に見て貰うことができた。診察が終わり会計を待っていると、Nくんのお母さんから声をかけられた。かつての勤務校の小学部の6年生の時に、取り出し指導をしていた関係で懇談をしたことがあったが、それ以来だから10年以上になる。その当時、本校から訪問学級に変わったが、N君のことは気がかりであった。3年前、その時はお母さんはいなかったが、おじいちゃんと支援員の人で受診に来ていて、不穏な感じでなだめるために関わったことがあった。だから、ここに受診に来ていることは知っていたが、お母さんと話すのは10何年ぶりかである。話を聞いていると学校時代よりも大変になっていると思った。他害的な動きはなかなかなくならず、しかも一瞬にして人を見極めてしまうようだ。相性の合うあわないと事で、相性の合わない人とは関係を作るのが難しい。髪の毛を引っ張ったり、首元をつかんだりしたときに、その後自責の念に駆られて、申し訳なさそうにしていた彼の様子が目に浮かぶ。自分の手でありながら、自分でコントロールできない情けなさを感じていたのだろう。「T園」には通所で通うことができているが、入所施設でないので、もし何かあったときに、ショートスティで預けることができない。「Aの家」にショートスティで預けたことがあるが、他の利用者の部屋に入ってしまい、そこでトラブルを起こし、それ以降行けなくなってしまったようだ。今は行動援護のサービスを利用して土曜日に外出できればと取り組んでいるとのことであった。ここでも支援員さんとの関係がうまくいけばよいが、何かでつまずくとそれ移行できなくなってしまう。いざとなれば、東加古川病院に入院して預かって貰うことを考えているとお母さんは言われたが、薬漬けになる心配もある。

 娘もそうであるが、重度と言われる手がかかる利用者よりも、手がかからずある程度重度の利用者が施設にとっては一番ありがたいものなのかも知れない。嘗て措置と言われた時代であれば、重度の人の方に行政も手が届き、配慮してくれたこともあったが、契約の時代となりしかも経営が絡んでくるとなると、なかなか受け入れてもらえないのが現状である。それと支援員さんのレベルというか支援力というのも大切になってくる。「Kグループ」のコンサルテーションを受けているとのことであったが、今のところうまくいっているようなので、この取り組みが効果を上げてくれればと思う。もう少し話をしたい気持ちもあったが、とにかく話ができたのはよかった。


1月31日

 講演会の打ち合わせにFの事務所に行った。雨が降っていたこともあって、約束の時間に遅れてはと思ったので、到着したのは約束の時間より10分早かった。そのせいか、着いてから話し合いまで10分待たされた。当然お茶ぐらいは用意されていると思ったが、なにもなく話し合いは始まった。なぜ今日のこの時間にこの話し合いになったか、あまり考えていない様子で、驚いたことに事前に話し合いをしたことはないと言われた。それなら、講演依頼したときのメールは何であったのかというと、希望の日時を知らせていないからと、当方の責任のように言われた。それで、講演場所が変更になったメールを示し、メールの最後にしばし時間を下さいと書いてあるので、そちらからの連絡を待っていたと告げると、それでも素直に誤りを認めず、弁解をするのにはあきれた。メールの文面では、拘束時間が4時間なので4万円というのは少し高いように思ったが、誠実にやってくれればよいと思ったので快諾したが、その後の態度があまりにも誠実感にかけ、NPOであるものの企業ベースであることが思われた。少なくとも、1週間前には今日のことが決まっていたので、何らかのレジュメに近いものが提示されるものと期待していたが、それもなく、白紙の状態での話し合いであった。自分に後見依頼があるとかであれば利益があるので、もっと真剣に取り組むと思うが、漠然とした講演会の講師ではそれほど実入りもなく、煩わしい思いがあったのかも知れない。また、自分がメールで書いたことは失念していて、こちらが提示するまでは忘れていたのかも知れない。地元の人でありホームページにもしっかりしたことがかかれていたので、講師を安易に依頼したが、人選ミスであったような気もした。親の気持ちがよくわかり、それに近い立場で取り組んでもらえる人でないと、話を聞いても上滑りするだけのような気がした。

 講演料については釈然としないものがあったが、蒸し返してもよけいに腹が立つので、4万円払うことにした。その後、資料についての話し合いになった。レジュメがないのでどれくらいの分量になるかわからないが、たくさんになっても親にはわからないので、できるだけコンパクトにして欲しいと伝えた。6日に理事会があるので、それまでに添付して送るとのことを互いに理解した。印刷も当方ですることになった。パワーポイントを使いたいということであったので、機器についても当方で用意することになった。プロジェクターやパソコンは当然持っておられると思うが、コスト計算が働くのか持参してまで使う気はないようであった。このことからしても、親身になってやってくれるということはない感じであることが改めてわかった。極めつけは講演についての録音であった。

「お断りしています。」

とはっきりと言われた。その理由はこれで飯を食っているので、その話が広まったら、講演依頼がなくなるからということだった。なにをかいわんやである。


2月5日

 Fより講演会のレジュメが届いた。もったいぶった感じでデーターなどは入れてないものがあり、16日までには完成したものを送るとなっていた。この原稿だけ見ても、もう一つ要領を得ないのでこれが、4万円も払うものかとあきれたが、今更どうしようもない。そして、こんなものしか作れないということは、打ち合わせをした意味もあまりないと改めて思い知らされた。明日の役員会で検討して報告すると伝えたが、検討すること自体時間ももったいないことであるし、前回私が説明したものを送信することにした。そして、これをふまえてもっとわかりやすく説明してもらえればいいのではないかと思っている。とにかく話を聞いて、一人でも多くの人が権利擁護に対する意識を持ってもらえればと思う。


2月7~8日

 新年になって初めて孫が泊まりにやってきた。先週の土曜日長女の友人の新築祝いが多可町であって、その帰りに我が家によったが、そのときは泊まることもなくすぐに帰ったので、今回が久しぶりということになる。インフルエンザがようやく落ち着いた感じであったが、鼻水は止まらず、何度も鼻をかまなくてはならないような状態であった。

 7日は家の中で過ごすことが多かった。一つのもので長い時間遊ぶというよりは、次から次に引っ張り出してきて遊ぶので、おじいちゃんとしては片づけさせることを中心に関わった。最初は、孫用にカラオケをしてみようと用意していたので、私の方からセッティングをした。カラオケの曲は、300入っていたが、孫が歌える曲はあまり無く興味を示さなかった。それで童謡の入ったカラオケを用意したが、長らく使用していないこともあって、機器の電源が入らず使用することはできなかった。せっかく遊べると思っていたのに残念であった。そのあとは、いつもの孫のペースで、ままごとセットをいっぱい出してきた。遊ぶ相手は主におばあちゃんが関わった。ままごと遊びが終わる頃、長女が孫の入園準備のものを買い物に行くというので、出かけた。孫はおばあちゃんがいるのでさびしくなく、

「おかあさんいってらっしゃい」

と軽く言っていた。

 ままごと遊びの次は、森の遊園地といって、紙で作るおもちゃを出してきたので、

「ままごとあそびをかたづけてから。」

と言って片づけないで遊ぶのを制止した。おばあちゃんひとりだと孫のペースについていけないが、今日はブレーキ役がいるので、片づけないで次へは遊べないと思ったのか、一緒に片づけ始めた。そして、片づけが終わると、森の遊園地を出しておばあちゃんと一緒に作り始めた。

 長女は3時頃に帰ると言って出かけたが、3時をすぎても帰っていなかったので電話がかかってきた。用件は先にケーキを食べてくださいとの事であった。そういえば、おばあちゃんの誕生日の祝いをするのが今日来た目的だったわけで、還暦の誕生日であった。孫がいなければ寂しい誕生日になるが、やはり孫の存在は大きい。ケーキの準備をしていると長女が帰ってきたので、ケーキを4人で食べることにした。次女の娘も一緒にいて食べられたらと思ったがそれはまだ先のようにも思った。ケーキには大きいローソクを6本たてた。

おばあちゃんが消すのではなく孫がローソクを消した。そしてネームプレートのチョコレートも孫が食べてしまった。

 ケーキを食べたあと、長女は孫の入園式でどんな服を着ていくか、試着の服をアマゾンで7着注文していて、それを着てはおばあちゃんと相談していた。孫はおばあちゃんが忙しそうにしているのを見て、おじいちゃんに絵本を読んでくれと持ってきた。オズと魔法使いの絵本であった。この話はなぜかあまりなじみがなかったが、孫は気に入っているようで、家でもよく読んで貰うようだった。

 夕方近くになり、晩ご飯を何にしようかということになった。家で食べることも考えたが、そうするとおばあちゃんが作らなければならず、それではおばあちゃんの誕生祝いにならないので、やっぱり外食をすることになった。おばあちゃんは孫が食べたいものでよいといったので、聞いてみるとラーメンと言った。ラーメンは予想していなかったので、ラーメンも食べられるところということで、結局は回転寿司に行くことになった。蔵寿司でもよかったが、先日の動画騒ぎがあり、スシローに行くことになった。スシローについてから早速ラーメンを注文した。孫はケーキがまだ残っているせいかあまり食べなかったが、おじいちゃんが酒のあてで注文した刺身はよく食べた。おばあちゃんもケーキを食べたこともあって、あまり食べることはなく、支払ったお金は3千円を少し超えただけだった。

 家に帰ると風邪を治すために早く寝ないといけないということで、すぐにお風呂に入った。そして、どの部屋で寝るかということになった。いつもならベッドの2つある広い部屋で寝るのだが、その部屋では寒いだろうということになり、エアコンの効きのよい次女の部屋で寝ることになった。7時過ぎにはベッドに入ったので、熟睡できればよいのだがと思った。

 翌朝、2階の廊下を子ネズミのように走り回る音で目が覚めた。あとで聞くと孫がトイレに行ったときの音だった。目が覚めてから下に降りると、朝ご飯の用意ができていたので食べ始めた。そうしていると孫が降りてきた。母親の長女はまだ寝ていたので、そのまま寝かせることにして、孫と一緒に遊ぶことにした。昨日は遊ばなかったひも通しの遊びをやり始めた。やり方がわかるとおもしろいようで、集中して遊ぶことができていた。お母さんが見ていたら喜ぶだろうなと思ったが、お母さんは寝ていて9時になっても起きてこなかった。しばらくして、おばあちゃんが2階に見に行ったがまだもう少し寝たいということで、そのまま寝させることにした。そうしていると、孫も気になったのか、2階にあがった。結局、起きてきたときは、10時を少し回っていた。7時から寝始めたので、寝過ぎではないかと思ったが、話を聞くと、昨晩は孫娘の鼻が詰まり、何度も起きて鼻をかんでいたのでほとんど眠れなかったそうだ。それに、エアコンの青いランプが気になり、エアコンを止めたのでそれほど暖かくはなかったようだ。寝始めたのは孫が下に降りてからのようなもので3時間ぐらいしか眠れてないということだった。確か今日はコストコに行くと言っていたので、この時間からでは難しいだろうと思った。次女の迎えの時間を考えると、私は行くことができないと思った。長女は今から出かけて、そのあと、豊岡まで帰ることを考えると確かに強行軍であるが、行っておかないとなにかやり残したことがあると言って出かけるようだった。孫娘はお母さんの様子が気になったのか、今日は一緒に行くと言ったので、おばあちゃんもコストコに行くことになった。そのあとで、疲れが出なければと思った。


2月14日

 先輩の見舞いに高槻に行った。住んでいるところがサービス付き高齢者住宅なので、見舞いというのはおかしいが、体の不自由な先輩が自分から動くことはできないので、こちらの方から行かない限りは出会うことができない。昨年の12月の中頃に行ったのでほぼ2ヶ月ぶりになる。前回の時も、テレビと天井を見ることが多くなったと言われていたが、今回もあまり変わらなかった。年賀状も出していたが、その返事もなく、今回の訪問でもそれにふれることはなかった。気配りのできていた先輩だけに、そんなことを構う余裕もないのかと思うと寂しい限りである。話の多くは施設への不満が中心であった。いかにそれを打開するかを考えるとなかなか難しいが、自分からなにかをやらなければ道は開けていかないと思うが、スマホなどの機器も使っていないし、自分からコミュニケーションを取らない限りは進んでいかないと思うが、その気力がないのかと思うとつらい限りである。愚痴を聞くだけではお互いがしんどい。話の途中から、Mさんの奥さんが移動図書館のことを話されていたが、この場で話を聞いてもと思ったが、話し始めた以上その話を聞いているのもしんどかった。先輩も適当に相づちを打っていたが、聞いても何もすることができず、しんどかったのではないかと思った。2時間ばかり過ぎいとまごいをする頃になって、Mさんの奥さんが持参してきていたお寿司やチョコレートを出した。チョコレートについては、今日がバレンタインデーだから仕方がなかったが、最初Mさんの奥さんを誘わなかったのも、バレンタインデーであったからなのだが、なぜかSさんから連絡が言っていた。そして、お見舞いの手みやげはなしという方向で話をしていたのだが、お寿司も持ってこられていた。結局その持ってきたお寿司も先輩は6個すべて食べられないということで、Sさんと私で一つずつ食べることになった。それに、普段先輩が食べているサンドイッチも全部食べられないということで、一切れずつ食べることになった。返すものがない先輩にとっては、貰うばかりでは申し訳ないという気があり、それが少しずつ負担になっていると思ったので、出会うだけにして手みやげはなしと言っていたのだがそれぐらいはたいしたことがないとMさんの奥さんは思われていたのが、かえってお互いがしんどくなることになった。おそらく元気な頃の先輩なら、私たちが来るとわかっていたら、なにかおもてなしの用意をしていたと思うが、今の様子からそのことに対して気を遣うだけの気持ちはなくなってきたように思う。おそらくこのままの形では、遅かれ早かれ見舞いも続いていかないのでないかと思う。先輩の環境を変えてあげれることが一番だと思うが、そのためにはSさんの関わりに期待するしかないと思う。私の見舞いはどう考えても2ヶ月に1回ぐらいしかない。Sさんであればもう少しできるように思うし、今乗っている車は嘗て先輩が乗っていたジムニーであるからだ。ジムニーを介してそんなことができればとてもいいように思う。そして、私も高槻の福祉についてもう少し調べてみようと思う。


2月23日

 ホープ主催で保護者研修会をした。ホームページの情報と加西市にあるNPOということで、M.Hさんに講師を依頼したが人選ミスもはなはなだしかった。1月末の打ち合わせの時に感じた失望感は否めなかったが、その後検討資料が来たときもあきれるしかなかった。録音は却下されたが、一応念のために録音したがそれに値するだけの内容ではなかった。講師謝金として4万円ものお金を払ったが、合計で15万円しか予算のないホープにとっては本当にもったいないお金であった。なにが物足りない講演であったのかをいくつかあげてみたい。

①成年後見制度そのものについての説明が不十分である。

 申立人の範囲は図示するべきである。申立の手続きが不十分。

 申立の費用についても不十分である。スライドにはあったが、説明がしっかりされていない。

 裁判所のDVDの方がよくわかる。

②知的障害者に絞って説明して欲しいという要望に応えていない。

 後見 保佐 補助について知的障害と関連しての説明が不十分

 相続がなぜ難しいのかの説明が欲しい。

③事例については、ホワイトボードに簡単に描いただけで、事例報告としては意味をなしていない。あれくらいの説明なら、聞くほどのこともない感じで、実際のどのようにして関わっているのかが見えてこない。

身上監護 財産管理に分けて、スライドを使って説明するべきである。

④メリット・デメリットが曖昧。

普通考えられることは、成年後見の手続きをしていなかったらできなかったことが、それをしていたために、できたことをあげるのがメリットの訳であるが、そういった形での報告はなかった。また、成年後見制度一般のメリット・デメリットでなく、親族後見・第三者後見のそれについても言及して欲しかった。

⑤資料はあとで見たときに、内容のわかるものを用意するべきである。

講演のスライド資料には、データーなどが入っていて、ある程度内容がわかるが、配付した資料は骨子だけであとから見ても何のことかわからない。

思いついただけで、以上5点が上げられる。打ち合わせの時にしこりが残り、こちらの要望がどの程度聞き届けてもらえたかわからなかったのと、講演前の資料が骨子だけのもので、期待はずれだったので主催者挨拶の中で、私の思いを述べたが、あれがなければなぜこの人を選んだのかということが、多くの人から納得が得られないと思った。それを提示することで何とか私の意図は伝わったと思うが、以後このNPOとは連携してやっていこうとは思わない。とにかく予定通りの行事をこなすことができたので、良しとしなければならない。


2月27日

 町の役員会があった。とじあわせをした資料を基に話し合いをするのかと思っていたが、綴じあわせをするだけで役員会は終わってしまったような感じであった。区長の考えでは、先週の臨時役員会で、検討は済んでいたような感じであった。これでは、委員の人には申し訳ない気がするが、そんなことは考えなかったようだ。前回も話していた隣保からの要望事項についての総括が語られなかった。区長の考えでは総会の時に話をすればよいとの考えであるが、それならばもう少し議案書に掲載すべきである。それに、総会の議題では新区長になってからの所に入っていたので、話すタイミングがないのではないかと思った。そして、総会の記録がはっきりしていないようであったが、毎回の役員会についても記録がいい加減であったので、仕方がないのかも知れない。国会を見ていても会議の体裁をなしていないので、会議そのものを軽視している嫌いはあるが、身近な町行政に置いては自分たちの意見が反映されるような、地道な取り組みが必要なのだが、そのことを理解している人がそんなに多くないのが現状なのだと思う。


3月5日

 3日に町の総会があり副区長になった。M.Sさんが区長になるということで、おそらく私に副区長がまわってくると思っていたがやはりそのようになった。このままの状態で行けば、2年後には区長の重責がまわってくることは避けられないが何とか転居できればと思う。それには宝くじで高額当選するしかない。

 それと、M氏の最近の動向を見ていて心配な面も多々ある。それはしんどそうであるからだ。心労を来しているのはレオパレスの事が一番であると思うが、彼がこれまで副区長と財産組合の会計をしていたときも、仕事がなかなかはかどらず心配したものだ。私の方はお寺の総代の立場がなくなったので、少し気が楽になったが、財産組合の会計のことを考えると結構仕事量が多いような気もする。また、副区長の仕事にまとわりついてくる自治防災や公民館の運営についても、考えていかねばならないことがたくさんある。それには早く仕事の引継をして取りかかなければならない。

 Mさんの奥さんに当てた先輩への手紙。何とか進展しそうでよかったと思う高槻市の福祉がどれだけ取り組んでもらえるのかはわからないが、本人が要望を出せば少しはよくなるように思う。先輩の見舞いにいくのは、来月の中頃になるが、それまで少しでも進んでくれればと思う。


3月7~8日

 孫娘ちゃんが泊まりにやってきた。2月の下旬に一回泊まりに来ていたので、今年になって2回目である。前日長女が体調を崩していたので、来ないかもしれないと思っていたが、よくなったようで泊まりに来ることになった。孫娘は相変わらず、鼻の具合がしっくりしていないようであったが、前回よりは元気そうであったので良かった。昼頃に家に着いた。途中のマクドナルドでチーズバーガーを買っていて、前回同様カレーを作っていたが、ほとんど食べることはなかった。お昼ご飯を食べ終わると、早速いろんなものを出してきて遊び始めた。ただ、お片付けしてから次のものを出して遊ぶということを、何回も言っていたので、そのまま片付けもせずに遊ぶということは少なくなった。孫娘が遊んでいるのを見て、長女はコストコに行こうかどうか迷っていたが、行かないと後悔するので、3時を少し過ぎていたが一人コストコに行って買い物することにした。今から出かけるとなると、帰りは6時を過ぎるので、3人で食べに行ってもらったらいいとの伝言を残してコストコに行った。

 孫はおばあちゃんと一緒に遊んだ。100円ショップで買った組み立てる絵本も番号を合わせるとできるので、時間をかけながらも作ったりした。また、絵本も見つけて読んでくれということもあった。絵本は、長女や次女のために買っていたものだが、絵本を開けるとところどころ鉛筆で次女がぐるぐる書きをしているところがあった。なんで大事な絵本に落書きするのだろうと孫は思ったようだ。

 5時近くなったので食べに行くことにした。餃子を食べたいといったので町内にあるの王将に行くことにした。滝野の王将よりもおいしいからだ。同じチェーン店でも焼き方がそれぞれ違い町内のほうが香ばしく焼けるからだ。王将ではお子様ランチを注文した。おもちゃのおまけがついてあり、洗濯籠の中に入っている中から、ゲームのおもちゃを選んだ。餃子2人前、焼きそば、ジャストサイズのチャーハンとラーメン、それに生ビールを頼んだ。孫娘は餃子と言っていた割にはあまり食べなかった。お子様ランチはデザートにアイスクリームがあったので、ほかのものを食べないとアイスクリームはおじいちゃんが食べるというと、仕方なしにほかのものは食べていた。王将での食事が終わり、家に戻ると5時半であった。お母さんはまだ帰ってなかったので、帰って来るまで遊びの続きをすることにした。かるたを出してきたので、孫が読み手をやり祖父母が札をとることにした。孫は読むことが好きで、割と長い文章もスラスラ読めるのでびっくりしてしまう。7時前になりお母さんがようやく帰って来た。夕方になると1時間では帰ってこれなかったようだ。疲れたようだが買い物に行けたので満足感はあったようだ。

 孫娘はおばあちゃんと一緒にお風呂に入りたいといったので、お風呂はおばあちゃんが相手することになった。2人入れるほど広くないので、洗い場のほうから見ているということでお風呂に入った。お風呂のあとは、割と早く着替えた。そして、歯磨きも終わり寝る用意ができると、今度は絵本をおばあちゃんに読んで欲しいと言った。それでおばあちゃんは孫と一緒に2階の部屋に行き、絵本を読むことにした。その間、お母さんはお風呂に入ることにした。30分ほどお風呂に入ってから2階の部屋に行った。絵本も2冊読み終わったようだが、孫娘はまだ寝てなかったとおばあちゃんは降りてきて言った。

 次の朝、私が6時過ぎに目を覚まし、昨日長女の買ってきたドーナツを食べ終わった頃、孫は一人で起きてきた。聞くとお母さんはまだ寝ていると言った。起きてすぐに遊びたいようであったが、朝ご飯を食べてからと言うとそれに従った。チョコレートをコーティングしたドーナツが気に入ったようで、それを食べ始めた。そうしていると長女も起きてきて、前回は10時過ぎまで寝ていたことを思うと、今回は早く起きてきた。三田のアウトレットに行って買い物をしたいというのがモチベーションだったようである。今日一日何がしたいと孫娘に聞くと、おもちゃ王国に行きたいというのだったので、祖父母にお守りをさせて自分は買い物に行くというのが長女のねらいだったようだ。おもちゃ王国は10時からあくので、9時半には家を出発するという考えであった。私としては次女の迎えに遅れたらだめだという思いがあったので、2時にはおもちゃ王国に迎えに来て貰うため、近くのマックスバリュに車を置くことにして、そこから、おもちゃ王国まで行くことにした。そうすれば駐車料金の1000円も浮くので、経済的であった。

 おもちゃ王国に行くと、こども園のお別れ遠足できていた団体がいくつかあり、平日の割に混んでいた感じであった。風が強くて肌寒いこともあり、室内で過ごすことを考えていたが、団体も来ることを考えるとゆっくり遊べるかなあという思いがあった。最初は入り口から一番近くにある「学びのハウス」というところに行った。オープンしてあまり時間がたってなかったこともあり、ほとんど人はいなかった。孫は少し遊んでいたが、人がいないのも寂しいようで、しばらくすると違うところに行きたいようであった。それで隣にある「メルちゃんハウス」に行くことにした。団体が来ており、ごった返していたが、エリアを確保すると、いろんなパーツを集めてはある程度遊ぶことができた。団体は時間が決まっているようで、20分ほどするといなくなるので次の団体が来るまでの10分程度は気兼ねなしに遊ぶことができた。親子連れできているお父さんは隅の方にどっかと座り、スマホを見て時間をつぶしていた。まさしく苦行のような感じで父親は大変だなあと改めて思った。男の子の好きなトミカやプラレールのようなところならもっと遊べるかも知れないが、女の子の人形は遊んだ経験があまり無いので、わからないというのが実感だ。「メルちゃんハウス」で時間を使ったので、お昼前になっていた。室内では食べられないので、持参してきたお弁当を外のベンチに座って食べることにした。雨の心配はなかったが、風が強く寒かった。孫娘は遊び疲れておなかがすいていたのか割とよく食べた。食べ終わったあとは、「シルバニアファミリー」の所に行った。「メルちゃんハウス」の隣にあったが、そこよりは人が少なかった。10分ほどそこで遊んでいたが、隣に別の団体が入ってきたので、その声に誘われて再び「メルちゃんハウス」に行った。午前中自分が遊んでいたところは跡形も無くなくなっていたが、別のエリアを造り、そこにいろんなパーツを取ってきては着せ替えを楽しみながら遊んでいた。トラブルがないかなあと思いながら見ていたが、さしたるトラブルもなく遊んでいるのを見て、成長したことを実感した。時計を見ると1時をすぎていたので、このままだと「リカチャンハウス」に行くことなく帰ることになるので、それでは後悔するとの思いから、「リカチャンハウス」に行くことにした。「リカチャンハウス」には2つほどの団体が来ていたので、自分のエリアを造ることがなかなか難しかったが、それでも何とか遊ぶことができていた。ただ、2時には入り口付近に来ていないといけないわけで、時間を逆算するとここで遊べる時間は30分ぐらいしかなかったので、孫にとっては物足りないようであった。次回来たときはもっと遊べるようにしようと約束して、おもちゃ王国から帰ることになった。4月からは幼稚園に入園するので、平日に来れることは少なくなるので、いろいろと考えることがたくさん出てきそうだ。土日にショートスティを持ってくることは難しいので、せめて金土のパターンで何日かできればと思うが、今までせっかくよくなってきた次女のペースを変えるのも少し怖いような気もする。孫娘が安心して泊まれるようになればと思う。


3月22日

 かぞくねっとの意見交換会が神戸市立総合福祉センターであった。通所と入所に分かれての話し合いであったが、意味があるのかなと思った。通所では実態がバラバラであるし、実態を把握しないで話し合いをしても仕方がないと思っていたからだ。その意見を述べると副会長のKさんが取り上げてくださり、少しは役に立ったのかと思った。意見の多くは施設に対する批判のものが多かったが、ここで意見を出したところで、当事者同士話し合いを持たない中では、あまり意味がないように思ったが、他の施設の様子を知るということではよかったのかも知れない。T園の様子を聞いていて、大変な事態になっていることはわかったが、重度者19人に対してマンツーマン対応というやり方ではどうしても限界があるし、支援のあり方を考えていかないと、今後難しいのではないかと思った。そして、こういった問題の根本に、一番支援の必要な重度者が切り捨てられる現状があるということだ。福祉の世界に競争というものが入り込み、そして経営ということが叫ばれるようになると、生産性の低い重度者はどうしてもはじかれてしまう。何のために施設があり福祉があるのかを考えるとむなしい感じがするが、それが昨今の現状なのだろう。

 少子高齢化社会というと、未来の展望のもてない、先細りのイメージがつきまとうが、それがこれからの社会の基本スタイルであるとするなら、その中で一番弱者である障害者への配慮を大切にすることで、その社会が住み良いものになっていくかどうかは決められていくと思うが、ベクトルはそんな風にはなっていかない。短期のスパンで物事を考え、自分さえよければという発想にもなっていく。また、そのことへの傾斜が強くなっているような気さえする。重度者には、介護報酬の面では他の人よりも手厚い報酬が出ているが、それだけでは支援できないのが現状であるなら、どうすればよい支援ができるのかを考えていかなくてはならない。とりあえず取り組むことは、施設と良好な関係を作っていくしかない。ただこれも同じベクトルに向いていないと難しいと思う。重度者が切り捨てられないために何ができるのかを考えなくてはならない。


3月28日~29日

孫娘が泊まりに来た。今回は長女が姫路のほうに買い物に行きたいからということでやってきた。この前買ったものを返品するのが目的であった。妻が検診に行くから遅くなるかもしれないと言っていたが、それほど遅くもならず、昼過ぎには帰ってくることができた。着いてから1時間ほどはゆっくりして、姫路のほうに着いたのは、2時を少し過ぎていた。今回は動物園で子守をすることになった。孫には600円の小遣いを渡していた。動物園に着くと春休みということもあって、割と多くの人がいた。孫はすぐにでも乗物に乗りたかったようだが、早くからお金を使ってしまうと、後が大変なので、動物をすべて見てから乗物に乗ることにした。初めのうちは動物を見ていたが、そのうちに、鳩さんにドングリをあげるといって、ドングリの実を探し始めた。そして、自分が見つけたドングリを石で割って、中の実を取り出し始めた。すると面白くなったのか、ドングリを探しに行ったりもしていた。そして、ドングリを割る形のいい石を見つけて駆け込んできた。そのときに、バランスを崩したのか、前につんのめって倒れた。幸い大きなけがをしなかったが、足元を見てないで行動していることがよくわかった。そんなこともあってか、ドングリを探すのはやめて、まだ見ていない動物を見に行くことにした。途中、ワヲキツネザルの部屋があり、そこに手作りの模型があって、それを回すのが気に入ったのか、何回もよく回していた。時計を見ると3時半を過ぎていたので、このままだと乗物に乗らないで時間が来てしまうかも知れないので、まだ見ていない、カバやラクダのところに行くことにした。姫路動物園はこれまで何回も来たことがあるので、カバやラクダのところはよく知っていたようだ。ニシキヘビは怖いけれど、やはり見たいようで、抱きかかえて見せてやることにした。これですべての動物を見たことになる。時計を見ると、4時になっていた。

「これから、乗物に乗っていいよ」

というと100円玉を入れる乗物のところに行った。ドラえもんの車に乗った。カメラを向けると、これまでなら嫌な顔をしたりしていたが、少しすまし顔のような感じでこちらのほうをよく見ていた。そのあと、新幹線に乗りたいというので乗り場のほうに行ったが、係のおじさんはほかの遊具の片づけに行っていて、すぐに乗ることはできなかった。4時を過ぎるともう片付けでしまうと思い、心配したのでおじさんを呼ぶと少し待っただけで、新幹線に乗ることができた。これは一人150円もしたので、二人で300円もかかってしまった。孫に財布を見せると、お金が200円しか残っていなかった。

「あと2回乗れるよ。」

と言うと、再び100円玉で乗れる乗物のところに行った。そして2回乗物に乗ると、満足したようであった。時計を見ると4時半を過ぎていたので、これからゆっくり帰ることにした。帰るときは、花壇の端の狭いところを歩き、バランスをとっていたが、カーブのところでバランスをとることができず、そこで再びこけてしまった。今度も大したけがはなかったが、けがをさせたりしたら大変だとの思いは、おばあちゃんのほうが強かったようだ。5時前には、駐車場のところに着いたが、お母さんはまだ来てなかったので、それまで待っている時間が長かった。

 帰る途中、加西のはま寿司で晩ご飯を食べることにした。行くときにお寿司を食べたいといっていたので、ちょうど都合がよかった。6時前であったが、店内はそんなに混んでなくて、待たずに座ることができた。この頃は食べるものが決まってきたのか、まぐろやいくら、それにたまごをたべると、だいたいおなかは一杯になったようだ。デザートには、パンケーキを選んだが、チョコレートソースが鼻の下の付き、ひげのようになった。家に帰ると、7時を少しすぎていたので、お風呂にはいると眠たいのかそのまま寝てしまった。

 次の29日は予定を考えてなかったので7時半には起きていたが、テレビを見たり、なぞなぞのカルタをしたりして、ゆっくり過ごしていた。10時半を過ぎると、長女がやはり買い物に行きたくなったようで、孫娘にどうするか尋ねると、おじいちゃんとおばあちゃんと居るというので、孫を連れてドライブに行くことになった。川代公園に怖い吊り橋があって、いいのではないかと思い、そこに連れて行くことにした。桜の名所であるが、ここのところの花冷えで桜はつぼみのままで咲いてなかった。吊り橋を渡り、ベンチに座ってお弁当を食べているときに、私たちの方を見る夫婦連れがあった。初めは気づかなかったが、近くに行くと保護者会のFさん夫妻であることがわかった。ここに来るのは初めてのようで、花見をするつもりだったようだが、桜が咲いてなかったので、残念だったようだ。

 川代公園は遊具もなかったので、お弁当を食べるとすぐ近くの恐竜公園に行くことにした。この公園にはこれまで来たことがあるようで、そういえば、みてねに写真があったことを思い出した。恐竜の形をした滑り台があり、そこを何回も滑っては降りていた。そのうちに、おばあちゃんがトイレに行くというので、その場を離れると孫娘も一緒にあとを着いていった。滑り台の他に遊具はなかったので、帰りに首切り地蔵さんにお参りに行くと言って、恐竜公園を出ることにした。孫には首切り地蔵さんよりは他のところがよかったかも知れない。ただ、2時には帰らないといけないので、そこに寄るのが一番いいように思った。帰りの車の中ではいつも以上に次女のおばさんのことについて、おばあちゃんに聞いていた。車の中には、着替えの服や紙オムツがあり、今までならあまり気にもとめてなかったが、大人の人にそんなものがいるのだろうかと思うようになったからだ。これまで、出会ったことはあっても、それはほとんど自分の知らないときに、たまたまであったという感じで、意識してなかったが、4歳半にもなるとある程度のことがわかってきたのだろうと思う。次女のことを、孫にどのように伝えていくのか、これからの課題であると思った。


4月1日

共済組合の任意継続の期間が過ぎたので、保険の手続きに市役所に行った。退職してから丸2年がすぎた。定年後の生活もだいたい慣れてきて、図書館に行って本を読んだり、書類を作成したりして、日々過ごすことにだいぶん慣れてきた。最初のうちは、小説に書くこともたくさんあったが、最近は少しネタ切れの感じで、先輩のことをどのように書き進めていけば悩むところである。京都のNさんが退職され、記念に梅酒を送ったところ、丁寧なお礼を貰いかえって恐縮した。けじめをつけるというか、筋を通すということで改めて京都のNさんの誠実さを知った。また、本日の11時40分頃、新しい元号が発表され、それは令和というものであった。命令の令が最初に来ているので、違和感があったが他の候補の元号に比べると、やはりこれしかなかったのかなと思った。平成は4月一杯で終わるので、私のこの日々の思いも4月で終わりにして、5月からは令和と名付けて次の想いを綴っていきたいと思う。


4月8日

 2泊の時のショートスティの時に、2泊目の食事を郷の方で提供してもらえないかということで、これまで伝えていたがようやく進みそうになった。時間の関係から施設で調理したものを提供するというのは難しいようで、それが可能になるためには、ショートスティのスケジュールを変更しなければならず、ここのところようやく慣れてきたこともあって、その方向はやめようということになった。それで、施設の納入業者から、冷凍食品を購入して提供すればということになった。ネットから画像をダウンロードし、娘のすきそうなチャーハンやシュウマイ・ポテトサラダのメニューを作ったりした。用意万端整ったつもりであったが、納入業者からは一つだけではなく、箱買いにして欲しいということになった。箱買いでも保管場所さえあれば何とかなるが、一個人のものをそれだけ確保するのはどう考えても難しいと思わざるを得なかった。また、実際に入所するとなると、今までのスケジュールでは無理なわけで、再構築しなければならないので、ショートスティにあまりこだわらないでもいいのではないかと思うようになった。

 今後の要望としては、とにかく7月からのもう一回2泊3日のショートスティになれることであるので、しばらくはその方向で考えていくのがいいと思う。この形がうまくいけば、1泊2日をもう一回ずつ増やして、1ヶ月にショートスティ14日という形を定着させていきたいと思う。そういったことがスムーズになった時に、施設からの食事提供を考えていこうと思う。あと3年ぐらいは無理をせずに進めていこうと思う。今回はとりあえず朝だけでも提供して貰うことで、一歩進めていきたいと思う。


4月11日~12日

 孫娘の入園式が11日木曜日にあった。式を見たい思いはあったが、ショートスティを変更することもたいそうであったので、今回は式が終わってから行くことにした。妻が子宮ガンの再検査ということもあって、気にはなったが、早めに受けておく方がよいと思った。

 豊岡には、1時頃に着いた。昼前には家に帰ってきたようであったが、写真を撮って貰いたいとの思いから、式の服装のまま着替えはしてなかった。玄関で孫と一緒に写真を撮ったが、あっち向いたりこっち向いたりして、何枚も写真を撮らざるを得なかった。最近はおもしろい表情をして、おどけたような写真は少なくなったが、良い写真を撮ることはなかなか難しい。写真を撮ったあと長女が銀行に行く用事があるというので、孫と歩いて公園に行くことにした。この前来た時に行ったことのある公園に行くつもりであったが、郵便局の所から下に降りていく階段があり、そこを降りていくことにした。遊具のある公園には橋を渡らないと行けなかったが、桜も満開で遊歩道がありなかなかいいところであった。私にとってはいいところであったが、孫はいつになったら公園に行けるのかと思い遠回りさせられたことがわかると、

「おじいちゃんのうそつき。」

と言ったりした。

 それからしばらくして、神社でお参りをし、橋を渡り公園に着いた。遊んでいる子どもはなく、貸し切り状態であった。一年前は、そこにある遊具のうち半分ぐらいしか遊べてなかったが、早いものでほとんどの遊具で遊べるようになっていた。遊んでいると長女のアクアが近くに来たので、孫娘に家に帰ろうと言った。本人はまだ遊びたそうであったが、少し肌寒くなってきたこともあって、歩いて帰ることにした。帰る途中に、白石神社がありお参りすることにした。孫がこれから先、元気で大きくなりますように言ってお参りした。

 家では孫が出してくるゲームをして遊んだ。豆つかみゲームは、お箸の使い方が難しくなかなか上手にはできなかった。一つ一つの豆が微妙に違うのも、やっかいであった。夕方になり食事に行くことにした。新学期ということもあって、お父さんの帰りは遅いので、4人で食べに行くことにした。その前に今日の宿であるホテルに行くことになって長女にナビゲーターになって貰った。豊岡の駅前は一方通行が多く、慣れていないと間違いやすいからだ。そのため、ホテルはすぐに見つかった。駐車場もわかりやすいところにあった。

 食事はくら寿司に行った。とんこつラーメンが食べたいといっていたので、くら寿司を選んだが、とんこつラーメンは食べず、すきないくらやたまごやまぐろをたくさん食べた。くら寿司はお皿が5枚たまると一回ゲームができるが、三回ゲームができたが一度もあたりはなかった。それで、くら寿司を出る時に、ガチャガチャを1回してもよいことになった。食事が終わると五時を少しすぎていたが、明日に備えて孫は早く家に帰ることになったので、私たち夫婦は駅前のアイティで降ろして貰った。アイティには、ショッピングセンターだけでなく子どもの遊び場もあって、孫もよく来たことがあると聞いていたので、どんなところか見に行くことにした。シースルーエレベーターに乗って7階に着くと、子どもの遊び場だけでなく、雨天で使える広場もあったりして、なかなか充実していると実感した。その後、下の階におり、明日の朝食のパンと今晩のお酒を買ってアイティを後にした。ホテルまでは5分とかからない。

 翌12日は但馬空港から飛行機の発着を見たいということで、スケジュールを考えていたが、妻が神鍋高原の方に行きたいと言ったので、飛行機の着陸は見るのを止めて、神鍋高原に行くことにした。道の駅がありそこには温泉があったが、ずっと昔に来た時に比べると、人が少ないような気がした。平日の朝早くだったから、そうだと思うが何かしらひっそりとしていた。道の駅の後は、風穴があるので見に行ったが、危険箇所ということでなかまでは見に行くことはできなかった。時計を見ると離陸は見られそうであったので、但馬空港に行くことにした。何とか間に合って大阪行きの飛行機の離陸を見ることはできた。空港はこの後夕方まで飛行機の離着陸はないと思っていたが、ヘリコプターが旋回していたので、その離陸を見ることができた。また、スカイダイビング用のセスナ機の離陸も見ることができた。そして、その後孫の家に行った。11時前であったのでしばらく休憩してから、長女と一緒にお迎えに行った。園の近くまで来て、あまり近づきすぎない方がよいと思ったので、少し離れたところで待っていた。しばらく待っていると孫娘が赤い帽子をかぶってやってきたが、お母さんに怒られたようで機嫌は悪かった。お母さんの手を放れて、フェンスの方に行こうとして、きつく引っ張られたのが気に入らなかったようだ。親はまっすぐ帰りたいと思っていても、子どもはもっとゆっくり帰りたいのだろう。これから先、元気で過ごしてくれることを思いながら、孫の家に着くと、遅くなると次女の迎えに行けないからと言ってすぐに豊岡を後にした。次に来た時はどんなふうになっているか、少し心配になりながら西脇に向けてかえることにした。


4月15日

 社の家庭裁判所に、後見人の聞き取り調査に行った。妻が後見人に選任されるようにするための聞き取り調査なので、私は別にいいのかも知れないが、書類を一緒に出したこともあり、また、今後のNPOの活動を考えた場合参考になるかと思い、一緒に行くことにした。1時半からであったので、少し早めに行ったが、ビデオを事前に見たりして聞き取りは2時をすぎてからであった。ビデオはドラマ風に仕上げてありわかりやすかったが、高齢者の後見人というパターンのものであった。聞き取りは家庭裁判所の調査官が行った。書類を出した時は、5月頃になるかも知れないと言っていたが半月ばかり早くなった。10年ほど前、姫路の家庭裁判所でも同じような聞き取りがあったと思うがその時のことはほとんど記憶にない。緊張していたのかも知れない。今回はオブザーバー的な感じであったので余裕があったのかも知れない。それと、NPOの事も伝えることができたので、今後の活動には大いに役だったように思う。後見人が複数になれば、何かの時にはスムーズに行うことができるので、メリットは大きいように思う。

 後見人選任の通知は、17日にはこちらに届いていた。面接をしてすぐの通知であったので、ずいぶん早く決定されたものだと思った。これで、2人後見人になったので、気分的にはすごく楽になった。


4月18日

 京都のNさんの家に行った。前回行ったのは10年以上前でI君と一緒に行って、確か泊めて貰ったような記憶があるが、はっきりした日時はわからない。今回は退官された時に、サプライズで日本酒の梅酒を送っていたこともあって、一席設けていただいような感じで、奥さんにはいろいろ気を遣わせることになった。

 家のあるところは、JRでも近鉄でも駅から10分ぐらいの所であったが、今回は高槻から行くということで、JR宇治駅に迎えに来て貰った。平等院に行くのは逆の出口であったので、人も少なくとても閑静な感じがした。

 家に着くと、奥さんが早速料理を用意してくださっていた。先日送った梅酒は栓も開けられず置いてあったが、駅から歩いてのどが渇いていたこともあって、ビールで乾杯することにした。4月になっても寒い日が続いていたが、今日はようやく春らしくなった一日であった。

 料理を食べながらいろんな話をした。やはりこれまでの思い出が多かったが、なぜ出会うようになったのかは奥さんも知らなかったようで、崇文館という塾があったことを思い出した。館長は現在の城陽市長になっていると聞き懐かしい思いがした。それから後は、2年前の手術のことや高槻にいる交通事故で脊髄損傷になって先輩のことが話題に上った。特に、先輩が意識を無くしている時に見た夢の話は、どこかで聞いたことがあるという風に言われていた。人の命というものはどこがでつながっているのだろうと思った。それから、先輩の今住んでいるところが、サービス付き高齢者住宅いわゆるサ高住ということから、奥さんのお父さんも今サ高住に居るということで、そのサービスの違いにびっくりさせられた。高槻と南丹市の違いがそうさせているのかと思ったが、京都のNさんに行くまでに、先輩の所に行き、先日手紙を出したことがどれくらい進んでいるか気になっていたけれど、結局は何も進展が無く、振り出しに戻ったことを思うと歯がゆい感じがした。相談に行くべきだと何回も言っているのに、やはり一歩踏み出すまでの気持ちにはなっていないような感じであった。本人が動かなければ何も進まないと思うのだが、残念な感じであった。京都のNさんとの話よりも、奥さんと話をすることが多くなったので、途中で布団を片づけに行くと席を外されることもあった。そして時計を見ると5時近くなっていたので、今度はI君と一緒にお邪魔したいと言って帰ることにした。帰りは近鉄の小倉駅から近鉄電車に乗ることにした。奥さんのお父さんが自宅から葬式を出して欲しい言われていて、京都のNさんにとっては気持ちはわからぬでもないが、負担を考えるとわがままな人だと言って居られた。サ高住に住んでいるので、実家の隣保づきあいは奥さんがされているようだ。お兄さんが2人居られるようだが、ほとんど奥さんに任せぱっなしのようで、気苦労が絶えないと思う。

 とにかく、京都のNさんとのつながりは確保できたわけだし、適当な時間をおいて、再び話ができればと思う。高槻のNさんとは2月に一回のペースを続けていくつもりであるが、今度は先輩の方から一席設けるといわれていたので、それがかなえられればとてもいいと思うが、5月の末ぐらいにはかなうことを期待している。


4月27日 

稲美町のセブイレブンで追突された。事故直後は何がなんだかわからずどのように対処していいのかわからなかった。車の後部を見るとかすり傷ぐらいであったので、そんなに大したことはないと思い、相手の連絡先を聞いて、修理代を出してくれると言ったのですぐに分かれた。今思えばもう少し冷静に考えることもできたのだが、初めてということと次女が居るということで、とにかく早くその場から離れたかった。こんな事はもう無いと思うが、すぐに保険会社に連絡して対応を仰がねばならないと思う。事故後10分ほどしてから保険会社に連絡した。そして、自宅に帰りすぐにホンダに持っていった。後部の損傷は思っていたよりもひどく、バンパーごと交換しなければならないので25万円はかかるとのことであった。それで、相手方に連絡して、保険を使ってもらえるように話をすると、何とかその方向で話が進んだ。ただ、連休中ということではやくても連休明けになるのでしばらくはこのままの状態で走らねばならない。それにしても、とんだ連休になってしまった。

 それにしても事故の原因となったのは、駐車場の狭いスペースの中でゆっくり出ようとしたことが原因だった。相手方にするとすぐに県道に出ていくと思ったので、バックしてきたと思うが、次女の合図がなかなか出なかったので、遅くなってしまった。少し申し訳ない気がするが、駐車する時やそこから出ていく時は、今以上に気をつけていかなければならない。

 それと、事故した時は興奮しているので、痛みも感じなかったが、しばらくすると、首の周りが少しへんだったので、大丈夫と思っても安心しないことが大切だ。私よりも次女の方がショックは大きかったと思うが、本人の状態については、その後の様子をよく見ていかないとだめである。

 平成も終わろうとする今、こんな事故にあうとは思わなかった。




 


















 







































評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ