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今年初めてセミの抜け殻を見た。

作者: 雫石

 今日、朝、学校へ向かおうとすると、家の垣根の中ほどのところに小さなセミの抜け殻が控えめに一つ、くっついていた。

 それはすこし風が吹けば飛んでしまいそうなほどに弱々しいはずなのに、僕はそのコンクリートの壁に懸命につかまる六本の足が、まるで大木の根のように思えて仕方がなかった。

 僕はその思いに自信を持つことはできなかったけど、きっと僕にそう思わせる目に見えない要素があったのだと思う。

 今日は一日中雨が降っていたし、ここ最近はずっとそんな感じで、壊れたブラウン管テレビの砂嵐のように降っているときもあれば、正にすこし遅めの春雨と言った感じで延々と霧のような雨が景色を覆い隠しているときもあった。

 そして、今日については後者で、そのセミの抜け殻の主が、果たして無事にしておられるのだろうかと、名も、形もしらぬセミの事を、通学中のバスの中で案じたりもしていた。



 今日、昼、課外授業があって、とある施設の入り口前で、僕達が点呼をとるためにならんでいたとき、しとしとと降りしきる濃密な雨の向こう側から、かすかにだが、たしかにセミの鳴き声が聞こえた気がした。

 僕はセミの種類については、それほどに詳しくもないから、その鳴き声の主が一体どういった種類のセミであるかなど分かりはしなかったが、そんなことは僕にはほとんどにおいて関係のない事だった。

 どこか嬉しくなって、

「セミが鳴いてる」

と、僕が横に並んでいた友人に言うと、友人は、

「そうか?」

 と、あまり興味が無かったのか、その小さな小さな雑談は、そのまま無の彼方へ流れて行ってしまった。

 それでも僕にとって重要だったのは、僕がセミの鳴いているのを聴いたという事実であり、僕がそのことを言葉にしたという事だけだ。



 帰りのバスが渋滞に引っかかって、午後七時過ぎに家に帰ると、いまだ降り続ける雨と、悲しくなるほどの闇に包まれた垣根の、その中ほどの所に、今朝と変わらず一つの小さなセミの抜け殻が付いていた。

 やはり、僕がその抜け殻の足がまるで大木の木の根のようであると思えたのは間違いでは無かったという事を、どうにかして言葉に変えて、誰かに伝えたくなった。

 どうしてかは、僕には見当もつかないのだけれど、きっとこれを今文章としてまとめている大きな要因の一つはそれであると思う。もちろん、次点には僕の所持する「話題」の圧倒的欠乏という耐えがたき問題があるのもそうだけれど。



 「蝉時雨」という言葉が僕は好きだ。日本語の美しさを表す、もっとも顕著な例の一つだと、僕は勝手に思っていたりする。

 時雨とは秋の終わりの断続的な雨の事だけれど、今日僕の見た、そして感じた光景の数々は、まさに——その天候も合わさって——蝉時雨と言い表すことはできないだろうか。

 いやもちろん、蝉時雨と言う言葉自体が表す心は、もっと別の所にあるというのは分かってはいるのだけれど、あの強かなセミの抜け殻や、昼にかすかに聞こえたセミの鳴き声は、弱々しくはあったけれども、それを時雨と喩えるのに不足はないだろう。少なくとも僕の中という不確かな環境においては。

 


 こうやって何も意味をなさない言葉を書いているのが、僕は大好きだ。僕にとってしかこの言葉の連続は意味を持たないのかもしれないけれど、それを分かっていてもなお止められないものがある。

それはきっと、今日出会った少し焦って眠りから覚めてきた強かなセミたちのような存在が、僕のなにかをくすぐるからかもしれない。

 きっと、こんな文章をここまで読んできたもの好きの人たちのなかにも、そういった人たちがいるかもしれないし、この文章を載せるのにお借りしたこの場所にも、そういった人たちがいるかもしれない。

いつまでこんな気持ちを持ち続けることが出来るだろう。最近はそんなことばかり思うようになっている。きっといつか七月頭の強かなセミの抜け殻にすら気付けなくなった時のための自戒と、気分屋の雨と、なによりも僕の大切なセミたちへ、この文章を書いたことにさせて下さい。



(了)


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