俺だけが知っている先輩
「――却下」
冷たい一言が室内に響き渡る。
「トレンドである抹茶を使った点はいいけれど、クッキーと合わせるのは安直すぎる。他社商品との比較も現在から数年前までで不完全。人気アニメとのコラボで若い世代には手に取りやすくなっているようだけれど、30・40代以上の一人世帯にはどうやって購買意欲を高めるつもり? しかも抹茶は苦い。調査で子供は苦いものが苦手なことはわかっているのにどうしてリピーターが増えると? コラボ商品なのに予算もこれじゃあ足りないでしょう。デザインもパッとしないし、特別手に取ってみたいとは思えない。それから――」
延々と続くダメだし。
俺の渾身のプレゼンはやはり大前先輩の壁を超えることはできなかった。
製菓メーカーの商品企画部に配属されて早数か月が経つ。
自分の考えた商品が多くの人々の手に渡って食べてもらい、笑顔になってもらいたい。
就職活動を始める前にいろいろと仕事を見ているとそんな自分の思いに気づき、努力の甲斐があってか第一志望の製菓メーカーかつ商品企画部に就職が決まった。
市場・トレンドのリサーチ、ユーザーニーズの分析、商品知識はもちろんのこと、商品開発部やマーケティング部と相談して説得力のある資料作成、プレゼンも大学時代からやってきてそこまで苦手ではなかったし自信はあった。
だというのに。
新商品の企画は未だに通ったことがなかった。
「大前先輩の下についてしまったのが運の尽き。それだけだ」
ふたつ上の先輩である岩下先輩からは、にべもない言葉が返ってきた。
大前涼香。
商品企画部のエースにして俺の教育係。
曲がったことが大嫌いな完璧主義者。仕事のミスや失敗はこれまで見たことがなく、狼狽えたり困った様子もなく、何事もしっかりとこなす。企画した商品はほとんどヒットしている。
先輩に対してこう言っては失礼かもしれないが、とても美人な人でもある。
長い黒髪は乱れた姿を見たことがない。
怜悧に整った相貌は凛としていて高貴な家柄を思わせる。
きちっとしたスーツに身を包み、所作も美しく品があり、まるで高嶺の花だ。
そんな綺麗な人であるがしかし。
前述した通り、仕事のできる人であり、かつ仕事に一切の妥協をしない人だ。
自分に対しても他者に対しても厳しい面があり、衝突することもしばしばあり。
社内では大前涼香という存在は「怖い」というイメージがあり、上司にも恐れられている。
「それは関係ないと思いますけど」
大前先輩は教育係の俺に対しても変わらず厳しい。
商品企画部ということもあり、定期的に新商品を提案する機会が設けられているが俺はそこに一度たりとも企画を通したことがない――否、そこに企画を提出したことすらない。
なぜならその前に大前先輩からのGOサインが出ないからだ。
「降谷の同僚はこの前企画通ってたじゃん」
耳を塞ぎたくなることを言われる。
人気商品のひとつである『チョコリーヨ』という商品の新味のひとつの企画が通ったのだ。まあすべてを任せられるというわけではなく先輩とともに、らしいがそれでも凄いことだ。俺なんてそこでも企画出せなかった。
「いい企画だと思うけどな」
渡していた企画書をぺらりとめくる。
「流行も押さえてる、うちの人気のクッキーと合わせるのだっていいだろ。商品比較もこれくらいやってれば充分。アニメとのコラボもあるようでなかったから面白いし、予算なんてこの際どうにでもなる。味も開発部と一緒にやっていけば根強い人気の抹茶なら売れる。俺なら全然アリだけどなあ」
率直に褒められ、先ほどの傷が多少ながらも癒える。
「細かすぎるんだよなあ。こんなのやってみなきゃわからないっての」
「その段階でもないってことだと思います」
「少なくとも一年目の俺より断然いい企画書だと思うし、前の会議で新しく決まった商品あっただろ? あれよりも売れそうだけどな」
「…………」
「いや本当だって! 自信持たせようと持ち上げているわけじゃないからな!」
本心だと熱心に伝えられる。
岩下先輩はいい意味でも悪い意味でも裏表のない人だ。嘘は言っていないのだろう。
「それとなく話してみようか?」
「だれになにをですか?」
「課長に降谷が魅力的な企画をたくさん作っているって」
「いやいや誇張してますし、いいですから」
企画書を持って立ち上がろうとする岩下先輩を必死に止める。
「そんなことをしてもらうために相談したんじゃありません」
「なんだよ、話すくらいならいいだろ」
「大前先輩を通さないのはなんか違う気がするんで」
「……面倒くさい性格してんなあ」
呆れたように呟いた岩下先輩は席を立つ。
「煙草だよ、煙草」
止めようとした俺の動きを見て、岩下先輩は愛用のIQOSを見せてくる。
本当に言わないのだろうか。あの調子だと弾みで口を滑らせそうなんだよなあ。
「降谷くん、この集計終わった?」
もう一度釘を刺そうかと喫煙スペースに行こうと立ち上がろうとした背に声を掛けられる。
振り向くとそこには俺の教育係でもあり先ほどの話題の中心人物――大前涼香先輩がいた。
「ああ、すみません、まだです」
「そう。なら早く終わらせて頂戴。雑談をするなとは言わないけれど仕事に支障をきたさないように」
「……はい」
「これも置いておくわ」
用件を済ませた大前先輩は自席へと戻った。
午前中に企画のプレゼンを大前先輩にして玉砕してから仕事のペースが落ちていた。
やるべきことを出来ないのは本末転倒である。
「ん……?」
さっそく取りかかろうとした俺の視線は大前先輩の置いた資料に向いて止まった。
やたらと付箋の貼られた資料は見覚えがある。
というかこれは俺の企画書だ。
プレゼンする際に大前先輩に渡したもののはずだけど。
「…………」
気になって中を見ていくと、そこには赤文字で修正点が事細かく書かれていた。
しかもプレゼン時の注意点やこの場面ではこう言ったほうがいいなど企画内容のみならず説得力のあるプレゼンのやり方までアドバイスが書かれていた。
……これを仕事の合間に? それとも昼休みに?
いずれにしてもこの量は相当時間がかかるし、俺のプレゼンをしっかりと聞いていなければ到底書けないような内容だ。
「手が止まっているようだけれど」
「あっ、すみません。すぐやります」
斜め前に座る大前先輩を見つめていたらすぐに指摘を受けてしまった。
先輩を見続けるのも失礼だし、仕事をしろと二度も注意されるとは……。
「……まあ、悪くはなかったわ」
「え……?」
「降谷くんの企画。内容もそうだし、プレゼンも。まだその企画で行きたいのならもう少しブラッシュアップして再度見せること。相談したければいつでも乗るし。他のものをもう一度一から作っていたら次の商品企画会議に間に合わないでしょうから」
「は、はいっ! やります!」
「そう。じゃあ頑張りなさい」
「はい!」
それだけ言うと大前先輩はパソコンに視線を戻した。
俺も返却された企画書を机の中にしまい、仕事を再開させる。
「おーい、降谷。ちょっと来てみろ」
「これしなきゃなんで無理です」
「いやいやほれ、課長喫煙室いるから」
ちらっと窺うと確かにそこには課長の姿があった。
「煙草吸わないんで」
「違うわ! ……さっきの。俺がアシストしといたから」
こそこそと耳元で言われ、俺は前を向いたまま言う。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。俺、次こそは企画出すんで」
「はあ? いやお前、無理だろ。あの人の下についたやつは一度も――」
「出しますんで」
断固とした姿勢の俺を見て岩下先輩は乾いた笑みを浮かべ、
「知ってる? 降谷みたいなやつをマゾヒストって言うんだぞ?」
「かもしれませんねえ」
いまの俺はそんな茶化しすら耳に入らないくらい浮かれていた。
☆
やってしまった、と大前涼香は昨日の自身の言動を悔いる。
後輩であり、教育係として直属の部下となった新人の降谷仁。
なかなか優秀な人材であり、教えたことは二度聞くことはないし、すぐに覚える。上下関係もしっかりしているし、言葉遣いや気遣える行動もできる。
そしてなにより企画を考える発想力と粘り強い姿勢はここ数年で入ってきただれよりもあると思っている。
だからこそ――彼を壊したくはない。
一度の失敗で挫折した人間をたくさん見てきた。
そういう弱い人間ではないということはわかっている。
わかっているけれど。
(駄目ね……)
始業前、お手洗いを済ませた涼香は切り替えようと頭を振る。
「えー、こんなところにできたんだ」「知らなかった」「見せてー」
自分のデスクへと戻る途中、なにやら数人の社員が賑やかそうにしていた。
少し気になりつつも、涼香は平然としたまま通り過ぎる。
仕事こそできるものの彼女は社員とコミュニケーションを取るということが苦手だった。
なにを話していいかわからない。
どこからどこまで聞いていいのか、こういうことを言ったら傷つくのではないかとあれこれ考えてしまい、学生時代から人と上手く交流できず、社会人となってしまっていた。
愛想がいいわけでもなく、仕事では厳しい口調のため、気づけば「怖い」というイメージが社員の間に染みつき、用事がなければだれからも声を掛けられなくなっていたし、自分からも声を掛けることはしなかった――
「降谷くんどこで知ったの?」
がしかし。
社員に囲まれているのが特に目をかけている後輩であればべつだ。
「友人がここで働いていて、それで――」
降谷仁は大前涼香と違い、社交的で協調性があり、コミュニケーション能力も高い。そのためか、多くの社員と親しく話している姿をよく目にする。
もちろんそのこと自体はまったく問題ない。自分には似るなと何度も願ったくらいだ。
むしろ交流を深めたほうがいいアイデアも思い浮かぶし、人脈も広がる。メリットしかない。
「…………っ」
単純に気になるのだ。
自分に任せてもらっている彼がどんなことを話していて、なにをしているのかが。
そしてなによりも、思ってしまうのだ。
大前涼香というとっつきにくい先輩よりも、もっといい先輩がいるのではないかと。
もっと話しやすい先輩が教育係になって欲しかったと彼に思われるのではないかと。
「あ、も、もうすぐ始業時間だ! 早く準備しなきゃ! ま、またね」
「大変。わたしもやらなきゃいけないことあったんだった!」
「また今度話聞かせて! それじゃあ!」
女性社員たちが慌てた様子で散り散りとなっていった。
気づけばじっと見つめてしまっていたらしく、彼と目が合ってしまう。
すぐに目を逸らしパソコンに目を向ける。
「おはようございます。大前先輩、ちょっといいですか?」
「今日の仕事のこと? それなら昨日も言ったように――」
「ああ、違います違います」
先んじて仕事を振ろうとするも仁は小さく笑って遮った。
「この店知っていますか?」
そう言ってスマホを見せてくる。
そこには以前に一度行ったことのあるカフェの外観の写真が写っていた。
「ええ。前にアイデア作りの一環で行ったことがあるけれど」
「そうだったんですね。やっぱり大前先輩は知っていましたかー」
残念そうでありながらもその顔には少し嬉しさが滲んでいるように見えた。
「行きたいのなら行けばいいんじゃない」
「へっ?」
「ちょうどお昼は空いているし、午後も多少遅れてもらっても心配ないわよ」
先輩らしく堂々とした姿勢で言った。
おそらくこの話を先ほど女性社員としていたのだろう。
オフィスからは少し離れているものの行けない距離ではない。すでに約束をしている可能性もあるし、昼休みまで拘束するつもりもない。
「いいんですか!?」
「え、ええ。べつにそこまでのことじゃないでしょう」
「そうですか。いや、ここ友人が働いているんですけど、新作で抹茶を使ったスイーツが出るらしくて、今回の俺の企画になにかヒントがもらえるんじゃないかって思ったんですよ」
「そう。いいんじゃないかしら」
目を輝かせる後輩に少し頬が緩む。
こういう勉強熱心で積極的に動けるところは彼のいいところだ。
ならばここで後輩のために出来ることは。
「じゃあ終わったら領収書を忘れずに持ってきなさい」
「領収書?」
「それくらい出すと言っているのよ」
「え? いやいや悪いですよ」
「そんなことを遠慮するものじゃないわよ」
「いや、でも一緒に行くんですし、領収書って二度手間じゃ……?」
「……は?」
口を開き、数秒固まってしまう。
なにかおかしな点があるような気がする。
なにか決定的に食い違いのようなものが。
「一緒に……? 私と降谷くんが?」
「あれ、そういう話じゃなかったんですか?」
真っすぐな目で言われる。
「さっき、あの子たちと行く約束をしていたんじゃないの……?」
言うと仁も涼香がなにを言わんとしているのかがわかったらしく、手を横に振る。
「確かに新作の話はしましたけど、一緒に行くとかっていう話はしてませんよ」
どうやら自分の思い込みだったらしい。
「というか俺行くなら絶対大前先輩とがいいですし」
「……はっ?」
「でもそうすると、話が違ってくるし……、大前先輩のお昼邪魔できませんし、やっぱひとりで行きます」
ひとりで勝手に決断した仁はそのまま立ち去ろうとする。
「行くわ」
「え?」
「私も行くと言ったの!」
「ほ、ほんとですか? やったあ!」
「仕事の時間よ」
子供のようにガッツポーズをしたのと同時に始業のチャイムが鳴った。
存外仕事の切り替えは早く、彼は「ですね」と返事をして自席へ戻る。
(……わからない)
どうしてここまで自分に懐いているのだろう。
どうしてここまで自分を尊敬してくれているのだろう。
よくはわからないけれど。
昔よりも仕事に行くのが楽しくなっているのは確かだった。
☆
「え? それ俺が今週中までにやるって話じゃなかったでしたっけ?」
「そうだったかしら。まあいいわ。私がやるから、降谷くんはそれだけしておいて」
それだけ指示を受け、大前先輩は行ってしまった。
今日朝からやろうとしていた仕事だったんだけど。
おかしいな、大前先輩が俺に振っていた仕事を忘れるだろうか。
否、そんなわけがない。
単純に記憶力がいいのもそうだし、しっかりとメモしているのを俺は知っている。なんなら俺も真似して同じような手帳にメモするようにしたから確認すればわかる。
「やっぱ言われてたよな」
記載されていたメモを見て、不思議に首を傾げる。
まあミスのない人間はいないし、メモし忘れたってこともあるだろう。
それともあまりにも仕事が遅いから自分でやるってことなのか……?
「いやいや、まさかね」
仕事には慣れてきた。
そんなわけがない、と思いたい。
――
「降谷くん、お昼休憩よ、いつまでやっているの?」
「すみません、これだけ終わらせたくって」
キリのいいところまで終わらせたい俺は断りを入れ、残り数行のまとめに入る。
本当にもうちょっとだったのですぐに終えることができた。
「ちょっと、お昼もしかしてそれ?」
「はい?」
鞄から取り出したカップ麺を見て、大前先輩は少し怒ったように言った。
「いま節約しなくちゃいけなくて」
「なんで今日それなのよ……」
「でも大前先輩は気にせずお昼行ってください。俺このまま調べ物もしたいので」
「これ使いなさい」
ダンッ、と机の上に千円札が置かれる。
「だ、大丈夫ですって!」
「いいから使いなさい」
「いやマジでこれで足りますんで」
「いいからこれで好きなものを食べなさい」
語調強く言い捨てて去ってしまった。
どうしたんだよ、今日の大前先輩。
もしかして健康的なものを食べろってこと?
まあ体調管理ができなくて仕事に影響出されちゃあたまったもんじゃないか。
「すみません。ありがとうございます」
すでにいなくなった先輩に向かって頭を下げた。
――
「おーい、大前からの差し入れだ」
課長のよく通る声がオフィスに響き渡る。
「だれって言った?」「大前先輩?」「うそ、ほんとに?」「どういうことー?」
まさかの大前先輩からの差し入れに大勢の社員が驚きの声を上げていた。
かくいう俺も商品企画部に配属されてまだ日は浅いので大前先輩が差し入れを頻繁にするかどうかはわからないが、少なくともそういうことをするタイプではないと思う。
「うわあ、このケーキってあの有名なところのじゃない?」
わいわいの女性社員を中心に嬉しそうな声が飛び交う。
見ると都内でも予約しなければ取れない有名なケーキ専門店の商品だった。
これだけの量ならここにいる全員に行き渡る。
「大前先輩ありがとうございます」
口々に大前先輩にお礼を言っていく。
それになんてことのないように「ええ」と言って自分は仕事を再開させていた。
「今日雪降るかもな」「雪で済めばいいけど」
そんなやり取りもある中で俺もまた大前先輩の行動に疑問符を浮かべざるを得なかった。
「降谷くん、切り分けるけどどのくらい食べる?」
「ああ、すみません、俺ちょっといま食べれないんで、ちょこっと冷蔵庫に残しててもらえれば」
「いいの? これ絶対美味しいよ?」
それに生返事をし、俺はお腹をさすってデスクに戻った。
すごい食べたい。
すっごく食べたいけど、大前先輩が仕事してんのに後輩の俺が見習わないわけにはいくまい。
「……ぐっ」
これは大前先輩からの試練だ。
この誘惑に負けずにどれだけやれるか、それを試されているのだ。
やってみせますから、俺!
――
「ごめん降谷くん。これやっといてくれない?」
同期からお願いされ俺は二つ返事で引き受けた。
断る理由もなかったし、なにかあるのかと聞くとデートだと言われ、それならばなおのこと残業をさせられなかった。
「お疲れ様でーす」
ひとりまたひとりと退勤していく。
商品企画部には俺ひとり。
大前先輩は確か小会議室でお客さんと打ち合わせをしていたからまだいるのか。
「降谷くん?」
ちょうど打ち合わせが終わったらしい大前先輩がオフィスに戻ってきた。
「お疲れ様です。少し長引いたみたいですね」
「ええ。……あなたまだいたの?」
「はい。やることができたので」
「やること?」
訝しみながら俺のパソコンを覗く。
「私こんなもの頼んだ覚えはないけれど」
「これはさっき同期に頼まれたやつで」
「同期に!? 理由は!?」
いきなり大きな声を出され、俺は一瞬怒られたのかと思い、背筋がぴんと立ってしまった。
「ちょ、どうしたんですか」
「ごめんなさい。急に大きな声を……でも、どうして」
「いや、用事があるみたいだったんで」
「それはあなたが引き受けるに足るものだったの?」
「まあ、先輩に頼むのは難しいでしょうから。となると俺くらいしかいないんじゃないかと」
はあ、とやたらと大きな声でため息を吐かれる。
頭が痛いのか、こめかみを押さえている。
「あの」
「私がやるわ」
「はい?」
「私が代わりにやるから降谷くんは帰りなさいと言っているの」
言い合うことが時間の無駄だと思ったらしく、大前先輩は俺が引き受けた仕事を負担すると言い出した。
「いやいやなんで大前先輩がやるんですか。俺が勝手に引き受けたんですから、自分でやります!」
「あとどのくらいかかると思っているのよ」
「さ、最低一時間はかかるかと」
「わかっているじゃない。いいから帰りなさい」
「30分! 30分で終わらせるので!」
「終わるわけないでしょう。そもそも早く終わらせればいいって話じゃないのよ……」
「どうして俺がやっちゃいけないんですか? ちゃんと説明してください」
「部下の仕事の責任は上司が持つものよ」
「俺には失敗も挑戦もさせてもらえないんですか?」
若干苛立ちを孕んだ言葉が地面に落ちる。
いつもは論理的に明確な理由と根拠を持って指導してくれるというのに今日のこれはおかしい。明らかに暴論とも取れる発言だ。
だから俺も初めて大前先輩に歯向かった。
「そんなに駄目ですかね、俺」
振っていた仕事を最後までさせてもらえなかった。
打ち合わせに参加させてもらえなかった。
いつもなら頼まれる仕事をべつの人に頼んでいた。
手伝うと言ってもことごとく断られた。
健康面でも心配され、今日だけで信頼されていないことがわかった。
「確かに大前先輩に比べればまったくこれっぽっちも仕事できないですけど、手取り足取り一から十まで教えてもらえなきゃできないような新人でもないです。大前先輩のもと、多くのことを学んできました。まだまだ細かいミスや確認の怠り、頭の回転や仕事のスピードは遅いですけど、それなりにできていると思っています」
客観的に自分を見つめ直し、思っていることを口にする。
「それでも……それでも、大前先輩から見て、なんの役にも立っていないと思っていたら遠慮なく言ってください。……悔しいですけど、また一から勉強し直して、出直します。また、それでも駄目だったら辞めることも覚悟していま――」
「――ば、馬鹿なことを言わないでよ!」
自分の無力さに悔しく歯噛みした俺は大前先輩の声で驚き、顔を上げた。
「ミスも少ないし、確認もしっかりしている。私では思いつかないようなことを簡単に出すし、仕事のスピードだって出来る仕事の範囲は狭いかもしれないけれど社員の中ではトップクラスに早いと思っているわ。……なんの役にも立っていないって、私がどれだけあなたに助けてもらっているか……、むしろ教育係が私なんかでいいのかって何度思ったことか」
頭を横に振り、俺の目をしっかりと見据える。
「辞めるなんて言わないで。降谷くんは将来商品企画部を背負っていく人間になれると私は思っているから」
初めて大前先輩の本音を聞けた気がした。
いままでこんなふうに面と向かって話したことがなかったから当たり前かもしれない。
「じゃ、じゃあそういうことだから、降谷くん。あなたは早く帰りなさい」
顔を赤くし、すぐに俺から視線を切った大前先輩であったがしかし、意見は変わらないらしい。
「あの、なんで今日はそんなに頑なに俺を帰そうとしているんですか?」
「……なんでって、今日は降谷くんの…………」
「はい?」
「た、誕生日でしょう!」
「……え?」
言われ、俺は数秒脳が機能を失ったかのように固まった。
「そうですけど、あれ、俺誕生日言ったことありましたっけ?」
「部下のことくらい知っているわよ」
「そういうもんなんですか」
「そうよ!」
マジか。
そういうもんなのか。
俺、大前先輩の誕生日知らないんだけど。
「日付変わった時に仲良いやつとか家族には言われたんで、なんかもう終わった感出ちゃってて忘れてました」
「そ、そう。でもなにか約束とかあるのでしょう?」
「いや特に。ここ最近仕事で忙しかったんで、事前に誘われたものは断ってました」
「……そう、だったの。まあでも今日は早く帰ってゆっくりしなさい。せっかくの誕生日なのだし」
はたとそこで俺は気づく。
「もしかしてだから今日やたらと早く帰れとか言ったり、仕事を振らなかったんですか?」
「そりゃあそうでしょう。誕生日に残業させられないわよ」
「お昼にいいもの食べろって言ったのも?」
「あんなもので済ませるのは違うでしょう」
「差し入れのケーキって……?」
「なんで食べないのよ」
「すみません。本当はすっごく食べたかったんですけど……、持って帰ります」
言うと、大前先輩は安心したように息を吐いた。
「……嫌いなのかと思ったわ」
ぼそっと呟いた言葉に俺は思わず笑みがこぼれた。
やっぱり大前先輩は他の人が思っているよりずっといい人だ。
怖い、なんて違う。
言葉や表情にこそ出さないけれど、不器用ながらに伝えようとしている。
たぶんこれはだれも知らない、俺だけが知っている大前涼香という人の本当の姿。
「な、なにを笑っているの?」
「なんでもないです」
嘯き、俺は改めて大前先輩に言う。
「大前先輩。そしたら半分だけ手伝ってくれませんか?」
「半分? 全部やるわよ」
「半分でいいんで。お願いします」
「わかったわよ」
俺が折れないとわかると諦めたように了承してくれる。
それを見て、俺はもうひとつわがままを通そうと口を開く。
「大前先輩、俺の新商品の企画いつでも相談に乗ってくれるって言ってくれていたじゃないですか? あれ、今日このあといいですか?」
「このあとって、だから今日は誕生日なのでしょう」
「だからです」
俺は言う。
「一刻も早く一人前になりたいんです。大前先輩の期待に応えられるように。……だからお願いします」
しょうがないわね、と返事をしてくれた大前先輩の表情はどこか嬉しそうだった。
その見たことのない自然な笑みに俺の胸が高鳴る。
きっとこの時だったのだろう。
先輩という尊敬していた存在から、女性として意識していったのは――