七.
彼は、動揺していた。
自らの右手が、彼女の温かい胸元に納まっていることについては行き掛かり上、仕方のないことだったのかもしれないと彼は思う。
だがそれと、これまできょうだいのように育ってきた幼馴染の「性」について意識せざるを得なくなったことは、まったく別の問題であった。
他の同級生と比べるとまるで育ってないように見えたその胸も、触れてみれば男のそれとは感触が別物だ。
まだ薄いとはいえ、胸板の脂肪に厚みがあり、やけにやわらかい。
その奥から、速めの鼓動が伝わって来るのを、彼の右掌底は感じていた。独鈷杵を正眼に構えていたところを彼女が、胸に押し当てるために手首を返したからである。
――こいつも、女だったんだな。一応。
それは当たり前のことだったのに、今さら、そんな感慨を覚えた。
少年は少女から右手を――少しだけ心残りはあったが――離し、言った。
「わかった。お前が悠花だってことは、よくわかった」
声は震えていた。
だがそれは、先ほどまでの疑心から来る緊張とは違う、別の緊張からだった。
しかしその言葉で、不安そうだった悠花の表情が、一気に明るくなった。
それを見て、彼の全ての緊張が解けた。
――ああ。これは、悠花だ。
判りやすい表情の変化。殊に喜怒哀楽で言えば喜と楽は、彼女の表情をよく変える。彼は十年来からの付き合いで、それを熟知していた。
ただ――
「ところで、その、後ろの奴は……」
悠花の後ろに控えている、大型犬よりも大きな白い狐の存在については、彼は何も知らない。
「あっ」
と、悠花は思い出したように声を上げた。
悠花は事の次第を掻い摘んで説明した。
級友二人が障りによって倒れ、次は幼馴染――虎二のことだ――の番であろう。
例え予想が外れても、けっきょくは二人のどちらかに危機が訪れる。
だから、頼ろうと思ったのだと。
コインに指を触れずとも動かせるほどの力を持つ<こっくりさん〉に。
果たしてそれは成功し、九尾の狐を喚ばうことができた。
多少の条件――「『生きる』とはなんなのか」について答えること――こそあるものの、協力も取り付けた。
それが、この(今は)五尾の狐なのだ――と。
ただし、〝力〟の無制限供給に関しては、敢えて言及しなかった。
幼馴染に余計な心配をさせないための配慮であった。
説明を聞いた虎二は、
「いや、さすがにオレだって聞いたことあるよ、九尾狐は。……悪い妖怪だろ?」
率直に言った。
目の前に当の物ノ怪がいるのに、いい度胸である。
だが今は尾を五本しか持たない九尾狐は、気を悪くした様子もなく、どこ吹く風といった具合で二人のやり取りを眺めていた。
悠花は反駁する。
「人にも良い人と悪い人がいるように、物ノ怪にも良い物ノ怪と悪い物ノ怪がいるの」
そして、この狐は嘘が苦手な善人――否、善物ノ怪である、と。
「だからね、このキュウさんは、味方なの」
だからね、と言われても――虎二は容易には納得し難いようであったが、他に手立てのあるでなし、いずれ失う命なら、幼馴染を信じてみようじゃないかという心持ちとなり、
「で、具体的にオレは、どうすればいいんだ?」
と、話を先に進めることにした。
それを受け悠花は、
「どうするの、キュウさん」
と、後方に視線と水を向けた。
水を向けられた方は二人の顔を交互に見た。
「腑に落ちない点がある」
女に化けて人間の生気を奪う物ノ怪については心当たりがあるものの、それらの特徴は音もなく現れ出で、人間の方から物ノ怪に近付くよう仕向けるというものだ。今回の物ノ怪はその特徴も備えているが、それに家を揺らすような力があるとは考えられない、と。
「其方らを狙っているのは本当に、その一体だけなのだろうか」
「え?」
つまり――二体あるいはそれ以上の集団である可能性が?
「物ノ怪が集団で人を襲うことって、あるの?」
「遠い昔に読んだことのある物ノ怪に関する記録物は、単体での遭遇譚が多い。しかし、記録というものは、よほどのことがない限り、襲われた者が生き残って初めて残されるものだ。――もし、寄って集って襲われれば、生き残る目は」
無きに等しい。
特に、物ノ怪に抵抗する手段を持たない、ただの人間にとっては。
生き残らなければ記録も何も、あったものではない。
はてさて、もしそうなれば、私だけではどうにも間が持たないが、其方らいったい、なんとする――。
最後に妙に時代がかった口上を述べ終えた九尾狐は、黙って二人を見比べた。
「じゃあ……わたしが戦う」
「はぁ!?」
悠花としては、どうせ(キュウによって)死線を潜らせられるなら、自ら選びたいという気持ちだったのだろうが、虎二にはただの自殺志願者のそれとしか映らなかった。
だから非難じみた声を上げてしまったわけだが、元はと言えばこれは、彼と級友二人の問題である。
「……その役目は、オレがやる」
本来無関係の幼馴染が危険を承知で喚んだ九尾狐が、その矢面に立ってくれるなら、それを補佐するのは自分であるべきだ――虎二は言語としてそう認識したわけではなかろうが、感覚でその結論に至ったようだった。
今度は悠花が非難の声を上げそうになったが、虎二は、
「三匹目がいたら、そいつは悠花に頼む。それでいいだろ」
と言って場を収めた。
悠花はキュウに質問する。
「ところで、心当たりのある物ノ怪って、何?」
「……トラツグの腰のあたりに、何か見えぬか」
キュウはその質問に質問で返した。
悠花は虎二の腰の周囲を丹念に見詰めたが、特に何も見当たらない。
別に何も――。悠花がそう言おうとしたとき、虎二が声を上げた。
「あ!なんか、細い糸がある!……おかしいな、切れないぞ」
右腰前方で手刀をぶんぶんと振り回す虎二。だが悠花にはそれが見えなかった。
感心したようにキュウが言った。
「ほう。トラツグには視えるか。〝見鬼〟の才があるようだ」
見鬼――文字どおり、鬼あるいは妖怪など、物ノ怪を視る能力のことである。
平安時代の陰陽師は、隠れるのが得意な鬼を使い、物ノ怪を探す訓練を行なっていたという。その際に重要な能力が見鬼で、その有無は陰陽師の格を左右した。
かの有名な陰陽師、安倍 晴明などは、幼少の頃より見鬼の才を発揮したとされる。
朝廷では四十を過ぎるまで鳴りを潜めているが、それは十二天将という強力な式神を使役するなど、陰陽道の極意を会得するための、研鑽の代償だったのだろう。
それを証明するかのようにその後の活躍は目覚ましく、たった十年で天文博士という、帝に代わり天文現象から吉凶を占う重要な役職まで上り詰めている。
皇太子の命で天狗封じの儀式を行ない、帝から直々に占いを命ぜられ、旱魃に際して雨乞いの五龍祭を命じられればたちまち雨が降り、急病に伏せた帝の病気平癒の禊にて病状を回復させるなど、見鬼や陰陽道だけでなく、占術方術天文道と多種多様な知識や能力を有し、一代で一族の名を大きく上げた。
彼ほどの傑物はそう居ないとはいえ、現代と違い物ノ怪の存在が身近だった平安時代において、見鬼ができ、さらには物ノ怪の調伏ができるか否かの差は大きかったようだ。
物ノ怪の視えない陰陽師は、他に重要な仕事があるとはいえ、やはり一段下に見られていたという。
虎二にその才が発現したのは、〈こっくりさん〉によるものか、それとも――。
「けんき?」
虎二はもちろん、そんなことは知らない。
「そんなのどうでもいいから早く切って!バケモノの糸なんか」
だから好き放題に言う。
ふと、悠花には見えなかった糸が突如、視えるようになった。
どうやらキュウが何かしたようだった。
「それ、切っちゃダメ」
悠花は虎二を制止した。
なんでだよ、と不平を漏らす虎二に
「それ切っちゃうとたぶん、物ノ怪がこっちに来れなくなるでしょ」
そしたら、その物ノ怪は他の二人の所に行っちゃう――。
悠花の言を継いでキュウは
「ハルカの言うとおりだ。その糸は〈悪いこっくりさん〉とやらのものだろう。それを切れば、カナとイサミ、それにトラツグを同時に守らなければならなくなる。それはとても効率が悪い。更に、標を失った複数の物ノ怪が、別々の場所に出没するとなればもう、お手上げだ」
と補足した。
「あ」
虎二はようやく、自らの腰に付着した糸の重要性を理解し、糸の切断を諦めた。
常人には見えない、細い糸。
つまり、これは。
「大蜘蛛、だな」
キュウは心当たりの物ノ怪の名を挙げた。
大蜘蛛(山蜘蛛、土蜘蛛、あるいは女郎蜘蛛(絡新婦とも))は、その名を古来より伝えられてきた由緒正しい、昆虫から〝変化〟した物ノ怪である。
通常、複数年も生きれば御の字の昆虫が時折、十年二十年の単位で生き永らえることがある。昆虫は年古れば、それだけその身を大きくしていくが、ある程度の大きさになるとそれは昆虫から物ノ怪に〝変化〟する。
その大きさは昆虫の種類により様々だが、大蜘蛛に関しては一尺(三十センチほど)が〝変化〟の分岐点である。
物ノ怪に〝変化〟したとはいえ、その大きさで出来ることなど高が知れている。だが、より巨大になってくると、そうも言えなくなるという。
平安時代にそうした大蜘蛛の話が遺されている。
源 頼光という武将が京都の蓮台野という土地に赴いた際、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。
訝しんだ頼光がそれを追うと古い屋敷に辿り着き、そこで多数の物ノ怪に襲われる。夜を徹し家来と共に奮戦していると夜更けに美女が現れ、目くらましを仕掛けてきた。
その女を頼光が斬り付けると、女は消え、白い血痕だけが残される。それを辿ると山奥の洞窟に巣食う大蜘蛛(土蜘蛛、山蜘蛛とも)と遭遇し、激戦ののちその首を刎ねたところ、その腹から二千近くの多量の髑髏が出てきた、というものだ。
キュウの知る大蜘蛛で主なものは、頼光公絡みでこの逸話の他にもう一つくらいしかないが、それらしい話は時たま耳に挟んだという。
他にも江戸時代に複数の話が聞き取られており、そのどれもが退治されていることから大蜘蛛は、物ノ怪としては比較的発生しやすい部類に入るのかもしれない。
もちろん今回の大蜘蛛はこれらの話とは別物であり、その特性はまた違うであろう。
「そんだけ沢山頭蓋骨が出るくらいには、やられる奴が多いってことだよな」
虎二は大蜘蛛が全て退治されていることより、犠牲になっている人数を気にした。
今回の蜘蛛とは別の個体とはいえ、確かに犠牲者数だけなら、大妖怪レベルと言って差し支えなさそうではある。
「やっぱ、そいつ一匹だけじゃねえの?」
虎二の言うとおり、その一体だけで行動しているという線もあろうことは確かだ。
「そうであればまだ、対処もしやすいのだがな」
だが、キュウは懸念を捨てきれないようだ。
話によれば部屋に現れるという悠花の姿をした大蜘蛛は、あちらからは近寄らず、こちらから近付くのを待っていたという。
「とするならば、大蜘蛛は安心させる役割で、嚇す役割の存在がいるはずだ」
それが何者か、何体いるかは、わからぬが――。
キュウの発言を受けて虎二が応じる。
「じゃあ、部屋に出てくる大蜘蛛を、オレが引き受けりゃいいってことだな」
外はお前に任せていいのか、と聞く虎二にキュウは、
「複数を相手取った経験はないが、なんとかしよう」
いや、物ノ怪になる以前に、大型の獣に幾度か襲われたことがあったか――逃げて事なきを得たが。などと言って、聞いている方を不安にさせた。
「ただ――」
キュウは続ける。
まずは退くよう声をかける。争わずに済むなら、その方が良いであろう――と。
悠花も虎二も、別に物ノ怪と戦いたいわけではない。話し合いで済むなら、それは願ったり叶ったりである。だから、二人は同意した。
それから最低限の打ち合わせをする。残り時間はもう――
「あっ、そろそろ時間だよ」
「もう二時前かよ」
「さて。鬼が出るか、蛇が出るか」
「……蛇のがマシ、かな?」
「どっちもイヤだよぉ」
そんなことを言い合いながら、各々配置に就いてゆく。
ふと、キュウは虎二に声をかけた。
「トラツグ」
なんだよ、と虎二が返す。
「其方が、蜘蛛からハルカを守れ」
キュウはそう言うと、庭の木陰に身を潜めた。
言われなくたって、そうするよ――。虎二は鉄の独鈷杵を握りしめながら、呟いた。
戸締りは完璧。
少し暑いが窓も閉め切った。
網戸は邪魔になるので反対側に移動させた。
悠花は虎二のベッドに一人、横になっている。
木製の五鈷杵は胸の前で、両手で保持していたが、知らず知らず、固く握っていた。
意識しないようにしているものの、やはり、怖いものは怖いということだ。
その様子を盗み見た虎二は、役割を交代して良かったと思った。
あれだけガチガチだと、実戦では咄嗟に動けず、作戦は失敗していたかもしれない。
虎二はといえば、ベッドの頭側の板の影に隠れて待機している。
――まあ、オレも怖いんだけどな。
武者震いなどという便利な慣用句を知らない虎二は素直に、身震いをしていた。
二時。
西向きの窓。
首を傾げた満月が、室内を煌々と照らす。
元より田舎の過疎地域。
初夏ともなれば、深とした静寂などとは無縁の地。
気の早い蝉と蛙の鳴き声が山の谷間に木霊する。
生まれた頃より親しんだ、子守歌とも言えようか。
やがて二人の緊張は、解け始めてくる始末。
もしやこのまま何もなく、朝を迎えやせぬだろか――。
そんな期待が沸き上がる。
不意に。
子守歌が止んだ。
室内を静寂が支配する。
耳が、鼓膜が圧迫されるかのような、閉塞感を覚える。
――違和感。
先ほどまで、あれだけ蒸していたはずの室内が、やけに寒々しい。
毛布一枚で充分だった部屋は、今や掛布団を一枚追加したくなるほどに冷えていた。
来る――。
二人の緊張が息を吹き返す。
冷たい汗が背と額とを問わず流れる。
うるさいくらいの鼓動が耳を打つ。
どんな兆候も見逃すまい。
と、神経を集中した矢先――
【バァン!】
窓が鳴った。
悠花は一瞬、心臓が爆発するかと思った。
虎二は飛び上がった。文字通り、しゃがんだまま、二十センチほど宙に浮いた。
悠花が音のした方に目を向けるとそこには、
鬼がいた。
女の、老婆の鬼だった。
夜叉、とでも呼べばいいのか。
老婆は、人間のそれとは二回りほども違う大きさの顔を持っていた。
肌の色は黄色く、髪の毛は伸びるがままにしたように荒々しく四散している。
目は見開いたように大きく、吊り上がり、小さい黒目に血走った黄色い眼球。
眉毛は薄くて細い。
鼻梁は低く、鼻翼が広かった。
口には八重歯に相当する場所に牙が五センチほど伸びている。
人の犬歯とは役割が違いそうであった。
体長や服装は、窓の枠外のためわからない。
満月の光を受け金色に光るその異形は、それはそれは凶悪な面相で悠花を睨みつけた。
――動けない。
金縛りか。
怒りに満ち満ちたような炯々とした両の眼を、夜叉は惜し気もなく悠花に向けている。
その凝視に耐えられなくなった悠花は、動かない身体の中で唯一動く目を動かして、視線を老婆から外した。
それは方角にして北西。扉は北側にある。
月の光も届かない、部屋の小隅の暗がりに――
そこに、悠花が佇んでいた。
その悠花は夏制服姿で、普段に比べると表情が冴えない。
顔色も決して良いとは言えない。
悠花自身は、それほど自分の表情に詳しくないので、自分はいつも、あんな表情なのだろうかと軽いショックを受けた。
虎二はと言えば、窓ガラスが大きな音を立てた時に起きた動悸がまだ続いていた。
あんな鬼婆ァがいるなんて、聞いてねえぞ――。物陰から夜叉を盗み見た虎二は、胸中で唸った。
見た目だけで言うなら、悠花の連れてきた狐より数倍は強そうだ。
アレをなんとかする前に、キュウの方が負けてしまいそうな気がした。それでも、
――あっちが、大蜘蛛か。
虎二は悠花のニセモノを確認した。暗い表情で佇むソレは、彼の知る悠花とは似ても似つかぬ、ひどい出来損ないに見えた。
いずれ、キュウが外の物ノ怪をなんとかすることが前提なのだ。
とりあえず心の準備と、いつでも飛び掛かれるよう、短距離走のクラウチングスタートよりも半端に腰を浮かせた不細工な格好で、その時を待った。
竹林家。
三世代八人家族の暮らす、古びた造りの広めの一軒家。
その二階。道路に面した、足場のない西向きの窓に取り付く、物ノ怪がいた。
体高二メートルほど。
頭は大きく、猪か熊かはわからないが、獣の皮で作った服を無造作に羽織っている。
それは月の光を浴びて金色に輝いていた。
獲物はもうそこにいて、あと少しで獲物を守る物もその効果を失う。そんな時である。
「そこな物ノ怪。少しよいか」
後方からそう声をかけたのは、月光を受け銀色に光る体毛を持った、五尾の狐だった。
金色の物ノ怪は振り返りもせず
「この魂喰夜叉さまに、なんの用だい」
と応じた。
――物ノ怪とは、魂だけの存在である。
全身で他者の存在を感じ取れる物ノ怪にとって、視線を向けるという行為は例外こそあれ、ほぼパフォーマンスに過ぎない。
だから金色の物ノ怪は眼前の獲物に集中し、後方にいる敵意のない物ノ怪などに視線をくれてやりはしなかった。
そんな物ノ怪に対し、
「何、用事というのは他でもない」
この件から、手を引いてはもらえぬか――。声をかけた物ノ怪は、単刀直入に申し入れた。
「――ああん!?」
銀色のあまりに突飛な要求に、さすがに金色もその顔面を、背後に向けざるを得なかった。
そもそも、物ノ怪にとって捕食行為――食餌とは、魂そのものである己の肉体を、他者の理力で補充あるいは強化するために必要な行為である。
自らが食餌対象になるなど、自らの存在を脅かされでもしない限り、他の物ノ怪の食餌を邪魔または制止するという行為は、物ノ怪同士では避けるべき不文律の一つである――といことは、以前にも触れた。
だからこのキュウの行為は、アンチマナーの誹りを受けても仕方なかった。
それでも夜叉の対応は幾分、紳士的であった。
「止めるなら、それなりの代償は必要だよ」
結界など多少の障害が増えたとはいえ、このまま行けば三人からの子供を餌食にできるのだ。
相応の対価を要求するのは、おあずけを食らう側の当然の権利である。
「残念ながら、何もない」
「それでは話にならん。見逃してやるから、どこへなりと消えろ」
キュウの理不尽な要求に対し、物ノ怪の理論からすれば上等な返答で追い払おうとする夜叉。だがキュウは凝りもせず、
「そういう希望なのだ。ここはひとつ、退いてはくれぬか」
と言を重ねた。
そういう希望、というところが引っ掛かったのだろうか。夜叉は
「狐、誰の指示だい――もしや、〝機関〟じゃなかろうね」
機関という単語が何を意味するのかは、キュウにはわからないようだった。
だが、敢えて何も言わずにいた。
こういう時は相手に好きに話させるほうが、多くの情報が得られるものだ。
人間との交わりが極端に少ない九尾狐でも、その程度の知恵はある。
夜叉はキュウの目論見どおり続けた。
「お前さん――〝協力体〟かい」
「だとしたら、どうする」
当然〝協力体〟の意味するところも分からない。
すると夜叉は肩を揺すりながら、
「相性が悪いねぇ。おれ相手に妖狐、しかも五尾とは」
もしやお前さん、機関に持て余されてるんじゃないのかね――。
夜叉はニタリと笑った。
凶悪な面構えの鬼婆ァによるそれは、心の弱い者ならそれだけで失神してしまいそうな迫力であった。
キュウに争うつもりはなかったが、どうやら、そうも言ってられないようだ。
空中で佇んでいたキュウは、どちらにも飛び退けられるよう、態勢を整えた。
「よく解ってるじゃないか。協力体を見逃すほど、おれァ甘くねぇよ」
夜叉はすでにキュウを敵と認識し、会話の最中に右手で逆手に持っていた包丁の柄を握り直していた。完全に臨戦態勢だ。
今さら協力体とはなんだと聞いても、相手には時間稼ぎとしか思われないだろう。
キュウには、戦って退けるという選択肢だけが残った。
そこに間髪入れず包丁が飛んで来た。キュウの左上から右下へかけて振り下ろされる。
後方へ飛び退くと今度は右から左へ横薙ぎ。キュウは左に跳ねて回避する。
「ひゃあ!」
夜叉は叫び声と共に渾身の刺突を繰り出す。上に逃げるキュウ。あまりの速さに一瞬、尻尾がその場に残る。その尾の先に包丁が刺さると、突然その周囲二十センチほどが爆ぜて、キュウの尾の一部が泣き別れた。
「――む」
刺さるだけならともかく、大穴が開くとはどういうことだ。キュウは短く唸った。
「どうだい、対物ノ怪用の大技だよ!穿ってぇのさ」
どうやら包丁の周囲に特殊な力場を生成し、その範囲に入ったものを力場ごと炸裂させる――身体の大きさと力の強さが比例しやすい物ノ怪との戦いに特化した、斃すための技である。
この物ノ怪、場数が違う――。
五メートル前後の距離を取りながらキュウは、考えを巡らせた。
これほどの高威力の技を使えるということは、それを必要とする状況に陥ったことがあるからに違いない。逆にこちらは、これといった戦闘経験もない。つまり接近戦では圧倒的に分が悪い。かと言って、狐火でどうこうできる相手でもなさそうだ。
全力の火球ならまだしも、この五尾程度の火力では。
――と、するならば。
「その技、あまり効率的ではないな」
喰う部分が減る――。キュウは率直に意見を述べた。
だが夜叉には、単なる嫌味に聞こえたようだ。
「減らず口を!」
夜叉は包丁をやたらに振り回す。
そんな雑な攻撃でも、攻撃や防御の手段に乏しい妖狐にとっては、それだけでも脅威であった。
包丁の切っ先が次第に、キュウの身体を掠るようになってきた。
当たれば切れはするものの、抉れないところを見るに、あの爆発力のある攻撃は刺突時に限られるのだろう。
――頃合いか。
キュウの紅玉の瞳が、妖しく煌めいた。
キュウが金色夜叉に声をかけている最中のこと。
キュウの働きによるものか、悠花の金縛りはすでに解けていた。
だが、それとは別の理由で彼女は動けない。
彼女は今、冷や汗と脂汗が同時に分泌される事態となっていた。
脂汗の原因は、悠花の姿をした蜘蛛の物ノ怪(とキュウの言う)の、執拗な呼びかけである。
それを捨てて――。
それは、危ない物よ――。
早く――。
声が聞こえるたび、手の中にある五鈷杵がうごめくように感じ、思わず振り払いそうになる。
理性では手離すべきではないと理解しているのだが、声に催眠効果でもあるのだろうか、危うく手放しそうになることが何度もあった。
この脂汗は、理性と感情のせめぎ合いとも言えるものだろう。
冷や汗の方は、これも五鈷杵関連である。
蜘蛛から声がかかるごとに五鈷杵はぴし、ぱしと音を立て、音の数だけ罅が増えていく。
そのたび悠花を護る木の棒は、徐々にその効力を失っている。そう考えると、彼女はこの待つだけの時間がとても長く感じた。
さあ――。
ひと際強い声がかかる。それに反応し、
【びきぃっ】
五鈷杵はこれまでで最も大きな音を立てた。
と、それと同時に襲ってくる強烈な寒気。
いま五鈷杵はその力を完全に失い、ただの木片となり果てた。
これが、あの二人を襲った力――。急速に体温を奪われるような、皮膚の内側を荒れた爪でがりがりと引っ掻かれるような絶望感と不快感を、悠花は味わった。
これでは虎二が飛び出す前に、囮である彼女の方が障りで動けなくなってしまいそうだった。
五鈷杵が弾ける音は、虎二にも聞こえていた。少年は少女の危機を動物的直感で悟り、
――今の音は……早くしろよあのクソ狐ッ!
なかなか合図を送ってこない狐に八つ当たりのような悪態を吐いた。
いや増す寒さをこらえて耳を澄ましてみれば、外で何かを言い合っている様子はある。
先ほどは何かが爆発するような音も聞こえた。
もしや、劣勢なのでは――不吉な状況を思い浮かべ、頭を振る虎二。
外がどうなってるか分からないが、あの白狐無しに現状をひっくり返す方法など知らないし、下手に今、動いて状況を悪化させるのは極力、避けたかった。
不意に。
外から壁に物の当たる音がした。
虎二が音のした方に視線を移すと、窓には白い尾がふわふわと揺らいでいる。
――合図だ!
「うおぉぉぉっ」
虎二は飛び出した。
短距離走にしては不格好なスタートだが、剣道で鍛えた下半身にはそれほど差し障りなかった。
猛烈な勢いで前方に一歩、前に出た左の足首を九十度左に捻り、勢いはそのままに悠花の偽物に向かって二歩。そして、三歩目には低い姿勢から鉄の独鈷杵を振り上げ、刃の先端をその胸元に叩き込んだ。
胸突き一閃――
【どごんっ】
良い音がした。
悠花が音のした方に目を向けると、偽物は壁に磔にされていた。
虎二が胸突きを決めた瞬間に独鈷杵を手放したので、偽物は独鈷杵ごと吹っ飛んだのだ。
そして彼は、偽物から目を離さずに悠花に声をかけた。
「悠花、立てるか」
討った敵から目を離さない――残心は武道の基本である。
だがこんな現実離れした戦いにおいて、それを実践できる者はそうそういない。
あるいは、現実離れしすぎて冷静になった結果なのかもしれないが。
気付けば室内の冷気は嘘のように治まり、いつもの蒸し暑さが戻っていた。
それでも肌の粟立ちは治まらなかった。
悠花は勢いよく起き上がると両手で二の腕を擦り、
「ちょっとだけ障ったけど、うん。なんとか大丈夫」
そう言うと窓に駆け寄った。
窓を開けて、キュウの背に乗り込む。
虎二を促すため後ろを見ると、蜘蛛はいつの間にかその正体を現していた。
蜘蛛というイメージからは細身の、楕円形の腹部。黄色と緑青色の横縞模様が毒々しい。同じカラーリングの細長い脚。前側の二対が異様に長い。頭胸部は腹部の半分以下しかなく、頭頂にある八つの目に生理的嫌悪を抱く。
女郎蜘蛛と呼ばれる種類だ。
ただ、問題はその大きさだった。本体だけで一メートル、脚を含めれば三メートル半にはなる。
五分もせずに木の五鈷杵が破壊されたのも納得であった。
あまりの大きさに、悠花は気が遠くなりかけた。
虎二は蜘蛛に特段の興味も示さず、その頭胸部から鉄の独鈷杵を引き抜いた。
感覚が麻痺してしまったのか、気にした時点で心が折れてしまいそうなことを無意識に自覚していたのかはわからないが、
「これはまだ、使うだろ」
そう言って、悠花の後に続いてキュウの背に乗った。
二人を乗せたキュウは、ふわりと浮いて窓を離れた。
「鬼だったな」
キュウが言った。――鬼が出るか、蛇が出るか。
「蛇のほうがマシだった……」
「どっちもイヤだよぉ」
出ないに越したことはない。
悠花の言いたいことはよくわかるが、相手が三体以上の集団でないことは幸運だったろう。
そしてキュウと二人は、すぐ近くで微動だにしない魂喰夜叉の前に立った。
「こんなに近付いちゃって、大丈夫なの?」
「まぼろしの中で、いい悪夢を見ているはずだ」
どうやら、狐狸の得意とする幻術の類で夜叉の動きを止めたらしい。
今ごろ彼女はキュウを思う存分いたぶっているはずであった。
「えっぐいなぁ」
虎二の感想にもキュウはお構いなしだ。
「これをどうすれば良いか聞こうと思ってな」
――どう攻撃するべきか。
その言葉に、二人は口をあんぐりと開けた。まさかそこまでとは思っていなかったのだろう。
それでも、提案しないことには話は進まない。二人は思い付くままに挙げていった。
「噛み付く」
あまり野蛮なことはしたくない――。
「爪で切り裂く」
傷付けるのは本意ではない――。
「体当たり」
こちらが逆に当たり負けしそうだ――。
「あーもう!じゃあ尻尾で鞭打ちはどうだ」
「ふむ」
どうやら彼の気性に合う攻撃手段が提示できたようで、反応が前向きになった。
鞭打ちは、非殺傷性と被ダメージの大きさが両立した、インドなどでは現役の刑罰だ。
その昔は各国で拷問の手段としても用いられていた。
簡単に言えば、痛いが死なない。
打たれて腫れ上がった部分をさらに打ち据えた場合には、皮膚が破れたりして感染症などで死亡することもあっただろうが、鞭の打撃単体で死亡する例は、ごく稀であった。
「では」
キュウは軽くバックステップをするや否や、一気に距離を詰めて五本の尻尾を夜叉の脳天に叩き付けた。
ご丁寧なことに尾を細く長くし、その上、五本の尾を揃え、ただの一箇所に衝撃が集中するよう調整する念の入れようだ。
その甲斐あって、夜叉はものすごい勢いで地面に突き刺さった。
「うわっ」
そのあまりの躊躇のなさに、虎二は思わず呻き声をあげた。
「戦ったことがないとか、嘘だろう」
一連の動きを見て、本当に争い事が苦手なのかと虎二が疑うのも、無理はなかった。
「私から争いを挑んだことなど、一度としてない」
どうやら、争い事は苦手なだけで、戦えないわけではないようだった。
「さて、次だ」
キュウは庭に降り立つと二人に降りるよう促し、三者はすぐに木陰へと身を隠した。
一時的に仮死状態に陥っていたらしい大蜘蛛が再び動き出したのと、ジャスト三分のいい悪夢を見ていた魂喰夜叉が正気に戻ったのは、ほぼ同時だった。
窓から器用に身体を出す蜘蛛を横目に、埋まった地面から這い上がる夜叉の目は、先ほどとは別種の感情で朱く染まっていた。
先ほどまでぐっちゃぐちゃのぼろ雑巾のように嬲っていた狐が幻術だったとは。
夜叉は幻術に耐性がある。
だからここまで見事に嵌め込まれるとは思ってもいなかった。
周囲には、その白い狐や、寝ていた娘の姿は見当たらない。
身に覚えはないが、強烈な打撃でも受けたか、かなりの理力が減っているようだ。
同じ威力の攻撃をあと二回ももらえば、彼我の力の差は逆転してしまいそうに思えた。
近くに獲物とクソ狐がいる気配は感じるが、正確な位置までは掴めない。
もし見当を付けた場所に獲物がいなければ、今度は側面を突かれる可能性もある。
まかり間違えればまた、まやかしで幻惑される恐れすらあった。
あまり無理はできない――。
夜叉は怒りで頭が沸騰しそうになりながらも、努めて冷静に状況を分析していた。
連中がまだ付近に隠れていて、機を窺っているいるのだとすれば、時間を置けば置くだけこちらの不利になる。
逆に、こちらが拙速に動いたとして、よほど周到な準備でもされていない限り、こちらに不利なことが思い浮かばない――そして、それをする時間はなかったはず――夜叉はそう判断するや否や、
「出て来い!こっちは別に、そのガキじゃなくたっていいんだぜ」
残る二人を襲うことだってできるんだ――。
白い妖狐の目的が、夜叉たちのこの件からの無条件撤退だとすれば、的が絞れない状況に追い込まれるのは望ましくないだろう。そして、その判断は的確だった。
夜叉の挑発を受け出てきたのは、少年だった。
若干目が座っている。
独鈷杵を持つ右腕は構えも取らず、地面に向かい垂れ下がっていた。
「どうだ、出てきてやったぞ。わた……オレが、相手だ」
やけにたどたどしい言葉遣いだ。
「よく出てきたねぇ。あの女子はどこだい」
悠花のことである。
夜叉が金縛りをかけていたのは、こんな小僧ではなかった。
「すでに、家に逃げ帰っておるよ。お前たちは、家の中には手を出せまい」
普段使わないような時代がかった口調で、虎二はそんなことを言う。
――頭の悪そうなガキのくせに、妙な話し方をする。その上、物の怪に詳しい。
夜叉は警戒した。
物ノ怪は基本的に、招き入れられないと人の家には入れない。
それが何故かは誰にも分らないのだが、一説には地面と家屋の境界線が、結界に似た働きを持つからだと言われている。
家屋は人の所有物であるがゆえに、その空間そのものも人が支配するのだという。
それが真実かどうかは不明ながら、実際に家屋の所有者の許可を得なければ、物ノ怪はその中に入ることができないというのは紛れもない事実であった。
もちろん例外もある。
今回のように事前にマーキングされた場合やこっくりさんなどで喚ばれた場合、住人の無信心に起因する空間支配力の低下、または物ノ怪の力が強大すぎる場合などが挙げられる。
ちなみに、西洋にも似たようなルールを持つ物ノ怪はいる。
吸血鬼、あるいはヴァンパイアと呼ばれる存在も、自ら人の家の中には入ろうとせず、窓辺に立ち招き入れられるのを待つという。――もっとも吸血鬼は、外から魅了の術で被害者を操って、無理矢理招き入れさせるのだが。
夜叉はぴんと来た。
「あの憎たらしい、白い狐はどこに行った」
「知らぬ……知らないな。どこかで、待ち伏せしてるのではないか」
「そうかい。……ところで小僧、お前に付けた大蜘蛛の糸が見えないが?」
虎二がはっとした表情を見せた。
夜叉は逆に、ニヤニヤと笑う。その糸は虎二の脇を通り、植え込みの中に消えていた。
「そこの木陰だね。クソ狐と一緒に切り刻んであげるよぉ」
凄んだ夜叉の言葉に、
「うわあぁぁぁぁっ」
と、弾かれたように飛び出す影があった。