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わたしの〔ソウル〕こっくりさん  作者: 俺(41)
第一夜「こっくりさん」
8/22

六.

 それは大きな、おおきな〈こっくりさん〉だった。

 真っ白な〈こっくりさん〉の体高は、悠花の部屋の天井いっぱい、二百三十センチ前後。

 犬のように見えたが、起き上がってみれば当人(?)の言うとおりこれは、狐である。

 夏だというのにその体毛は、あろうことか冬毛のようだ。

 尾も負けじと白い豊かな冬毛を揺らしており、その尾は太いのかと思えばその実、複数の尾が生えているのであった。

 尾の数は……九本。

 その身体は、八畳ある悠花の部屋の半分ほどを占拠しており、そのうちのさらに半分以上は、尾が占めているという有り様だ。

 目の縁と耳には歌舞伎の隈取のような、赤いラインが引いてあるように見える。

 最も印象的なのは、熱のない炎のように揺らめく、ルビーのような美しい瞳。

 瞳孔は、こんな暗がりでも細い。人の世のことわりとは別のことわりが働いているかのようだ。

 その巨大な身体の周囲には、バレーボールほどもある蒼い狐火がいくつか、ゆらゆらと浮かんでいた。

「……九尾の、狐?」

 悠花は痛む右の首筋を押さえながら、ようやくそれだけを口にした。

 ――九尾狐。

 どんな現代っ子でも、その名を一度くらいは耳にしたことがあろう、悪い意味で大変に有名な大妖怪である。

 古くは三千年ほど昔の中国、(いん)の時代に、とある九尾の狐がいた。その狐は自らを妲己だっきと名乗り、殷の王に取り入った。

 ほどなく王に寵愛されるようになった妲己は、おねだりをするようになった。

 最初は簡単なものだった。宝玉が欲しい、高価な衣装が欲しい、遠方に生息するという見たこともない不思議な動物が欲しいなどという、王の力を持ってすれば容易な要求ばかりであった。

 だから、王はその願いを嬉々として聞き入れた。だが要求は徐々にエスカレートしていった。

 妲己の放漫が国の財政を圧迫し始めると、彼女は王をたぶらかし民に重税を課させ、その財でもって贅を尽くした生活を送るようになった。

 酒池肉林という故事成語は、酒を注いで池とし、肉を吊るして林とするという、奢侈(しゃし)を極めた妲己のこの行ないに由来している。

 その奔放な振舞いについて王に諫言をした臣下を、王を唆し残虐な方法で処刑させ、奸臣を重用させるなどして国の土台を根底から揺らがせた妲己は、王が他国に討たれ殷が滅びると、他国の王により亡国の悪姫として首を斬られた、という。

 ただ、実は身代わりを立てて処刑させておき、自らはどこなへと逃げ去ったとまことしやかに噂されている。

 ひるがえって、本邦にも九尾狐の記録がある。

 時の帝に寵愛された九尾狐は、人の姿を取っていた頃は玉藻前(たまものまえ)と呼ばれた。玉藻前は自らの毒により、帝を亡き者にし世を乱そうと画策した。

 その企みは陰陽師・安倍(あべの) 晴明(せいめい)が子孫、安倍 泰親(やすちか)により見破られ、玉藻前は目的を果たす前に都を追われた。結果、帝は一命を取り留めた。

 陰陽師や近衛兵の討伐を受け東に逃れた九尾狐は、当時隆興しつつあった武士の追撃によりとうとう滅ぼされると、最期には毒を吹き出す殺生石になったという。

 本邦の三大悪霊の一つとして数えられる九尾狐は、現在でも皇室の宝物庫にその一部が安置されている。

 この九尾狐が殷の妲己であったとする書籍もあるが、定かではない。


 もちろん悠花にも、その名前には聞き覚えがあった。

 白い狐が少女に向き直る。

 そして、その顔を見て、目を見開いた。

 悠花には、それが驚いているように感じられた。そう感じた理由は、本人すら分からない。

 その白い狐は口を開いて――否、開かずに喋った。

其方(そなた)が、私をんだのか」

 穏やかな声だった。

 なのに少女には、それが不機嫌――いや、否定的なイメージを伴って聞こえた。

 なぜ口を開けずに話せるのか、悠花は少し不思議に思ったが、それはこの際、どうでもよかった。

 その良し悪しは別として、ここまで強力な――と言われている――物ノ怪を喚べたのは奇跡だ。悠花は、相手の機嫌を損ねないよう誠心誠意、受け応えるしかなかった。

「はい。友達を、助けたいんです」

「――どういうことだ」

 白い狐はわずかに目を細めた。

「友達が、物ノ怪の障りで苦しんでいるんです」

 そう前置きし、経緯を説明した。

〈こっくりさん〉のこと。

 クラスメイトに起こった〝障り〟のこと。

〝四神結界〟で障りを防いではいるが、このままでは丸一日は結界無しで過ごさなければならないこと。

 それをなんとかしたい一心で、こうして自ら強いこっくりさんを喚ばおうとしたこと。

「――ということなんですが、なんとかなりませんか」

 悠花が語り終えるまで、九尾狐は一言たりとも言葉を発さなかった。

 さらにしばらくの間、沈黙が続く。

 悠花が堪りかねて口を開こうとしたその時、若い男の声が聞こえた。

(ぎょ)せもせぬ怪しげな術で自ら身を亡ぼすのは、それは自業自得というものではないか」

 呆れた口調でもなければ憤った様子もない。実に淡々とした調子であった。

 九尾狐は続ける。

「なに、其方と祖父は人事を尽くしていよう。其方の祖父の言うように、運を天に任せるのが良かろう。其方らの働きがなければ、その者らはすでに現世(うつしよ)になかったはずなのだから――」

 確かにそれは正論だった。

 否。

 たぶん言われる前から、悠花にもわかっていたはずのことであった。

「それに」

 九尾狐は調子も変えず、ただ言葉を吐き出す。

 その物ノ怪は、〝食餌(しょくじ)〟をしているだけであろう、と。

 ――食餌とは、物ノ怪にとっての栄養補給である。

 人をはじめとした動物が食物を通して栄養を得るのと同じように、物ノ怪にも類似行為がある。

 その疑似的な補給行為を、〝食餌〟と呼ぶ。

 大抵の場合、物ノ怪の栄養源は動物になる。

 対象の血肉を喰らう存在(モノ)の他、肉体ではなく生命エネルギーのようなもの(〝理力〟という。後述参照)だけを奪う存在、あるいは恐怖や絶望などといった感情を好む存在などが()る。

 物ノ怪の種類だけでなく、個体によって好みも変わる。

 ただ多くの物ノ怪は動物の中でも特に、人を好む。

 その理由は、前述の肉体にしろ生命エネルギーにしろ感情にしろ、人はその「味わい」が多彩かつ複雑で、端的に言えば「食餌として美味しいから」なのだという。

 そうして得た栄養は物ノ怪の肉体の維持、あるいは強化のために使われる。食餌をしない物ノ怪は体内のエネルギーが切れると、その存在は消滅してしまう。逆に、食餌をするほどに力は増し、強力な存在になっていくのである。

 このように食餌とは、物ノ怪がその存在を維持するために、はなくてはならないものであった。

「物ノ怪同士での食餌の妨害は禁忌行為なのだ」

 そもそも私は荒事が得意ではないから、その〈こっくりさん〉とやらの食餌を止めるために争ったとしても、確実に退けられる保証はないし、できることなら争い自体を避けたいと、九尾狐は言い放った。

 その言い草たるや、完全に草食系のそれであった。

「其方の希望が物ノ怪の排除であるなら、私が役に立つとは考えられない」

 そこまで言うと九尾狐はまた沈黙した。

 悠花は天を仰いだ。

 なんてことなの。そんな思いが容易に汲み取れる表情である。

 天井を見上げる悠花の目には、ロウソクと狐火の照り返しが映る。それらの色は混ざり合うことなく、別々に光を壁や天井に投げかける。真暗な室内を存外明るいロウソクが黄赤に照らし、蒼い光は大きく濃淡を作りながら、ゆらゆらとそよぐ。まるで風に吹かれて落ち着かない、水面の波紋のようだ。

 悠花の心も、そんな蒼い光のように落ち着かなかった。

 祖父母にきつく戒められていた危険な呪術を、身の危険を冒してまでひとり執り行なったのは、いったいなんのためか。学校で怪奇現象に遭遇した上、それと同じことをしてまで、である。

 少なくともそれは、友達を見捨てるかのような正論を聞いたり、物ノ怪の禁忌を知るためではない。

 悠花は呟く。

「……やっぱりわたし、助けたい」

「なんだと?」

 目の前の少女は、今の話を聞いていたのだろうか。そんな雰囲気の伝わる声だった。九尾狐はあえて警告した。

「自らの能力ちからを超えた問題に(くちばし)を挟むと、(ろく)なことにならぬぞ」

 それでは命がいくらあっても足りなかろう。

 しかし悠花は退かなかった。

「それでも、助けたいの!足りないって言われた能力なら、あなたがいる。……さっき、わたしの『〝力〟が凄まじい』って言ってたよね?」

「言ったな」

 悠花の言葉は、感情的になったためか、いつの間にか敬語ではなくなっている。

 だがこの九尾狐は、そういったことに無頓着なタイプのようであった。

「だったら、わたしの〝力〟? がなんなのか知らないけど、いくらでも使っていいから、わたしの代わりに悪いこっくりさんをやっつけて」

 無茶苦茶な要求である。

 そして、とても危険な取引でもあった。

 ――そもそも〝力〟とは、理力のことを指す。

 理力とは、〝魂〟、〝命〟、〝生気〟、〝精気〟など、一般的には計測できないが確かに存在するエネルギーの総称である。

 理力という枠組みにおいて、魂は燃料であり、人に限らず動物はそれを燃やして動く自動車のようなものだ。物質としての人という器の中に、魂という燃料が満たされていてるのである。そして命はエンジンに相当し、燃料が尽きるか外的要因で器が大破するまで動き続ける。

 その他に生気や精気、〝霊能力〟すら理力の一部ではあるのだが――それは別の機会に譲る。

 無制限の理力の融通――それは物ノ怪との取り引きにおいて厳禁とされていた。


 九尾狐は押し黙った。

 何を考えているかなど、悠花にはもちろんわかりはしない。

 紅い瞳が悠花を見据える。

 悠花はそれを見つめ返す。

 悠花の瞳に、不安や迷いといった感情はない。何かを確信しているようにも見えた。

 九尾狐はそんな悠花を見下ろしている。

 そして、やにわに言った。

「断る、と言ったら?」

 その口調はまるで、試すようだ。

「……別のこっくりさんを喚んで、同じようにお願いする」

 悠花は少しだけ悩んで、かなり絶望的な選択肢を選んだ。それ以外の方法は、少なくとも悠花は知らない。

「喚ばった物ノ怪が、従う振りをして其方の命を奪うかもしれぬ」

「そうなったら、それは仕方ないと思う。あなたの言うように、身に余ることをしてるっていう自覚はあるもん」

 九尾狐は目を細める。感心したのか、呆れたのか。

 悠花から視線を外して前方――襖の方を見ると、またしばらく黙り込んだ。

 そして、

「其方の願いは聞こう」

 そう言った。

 その言葉に顔面の緊張が緩む悠花だったが、

「ただし、条件がある」

 との発言に緊張を取り戻した。

 どんな条件が付くのか、果たしてそれは悠花だけで応えられるものなのか。

 わかりやすい表情で、発言の続きを待つ悠花。


「生きるとは、なんなのだ」


「……へぁ?」

 悠花の口から、気の抜けた声が出た。

 質問の意図が掴めなかった。

 禅問答だろうか。それとも、生物学的な話なのだろうか。

 悠花はそのどちらも、よくわからない。そのため狐の質問に、ずいぶんと間抜けな声で反応してしまったのである。

 とはいえ自身の決して多いとは言えない人生経験だけでは、その深すぎる問いに答えられる自信はない。

「答えなどない」――とでも言えれば苦労もないのだが、それは不誠実である気がして、彼女はそう言えなかった。

「ええと……ごめんなさい。わかんない」

 だから悠花はそのように答えた。

「それが、答えか」

 狐の声のトーンが落ちた。

 悠花にはそれが怒ったかのように聞こえたため、慌てて釈明した。

「違うの。わたしは子供だから、そういうのはまだ考えたことがなくて」

「ならば、考えてみてほしい」

 狐にそう押し込まれ、悠花は言葉に詰まった。

 おもむろに狐から視線を外し中空を見つめていたかと思うと突然、足元を見たり、腕組みをして唸ったりする。何やら考えこんでいる様子である。

 そうやって小首を傾げていた悠花が突如、顔を上げた。

「ご飯!」

「ごはん?」

「そう、ご飯。物ノ怪の場合は、食餌って言うんだっけ。生きるっていうのは、つまりは食べること、なんじゃないのかなぁって」

 この世の生きとし生けるものは全て、何かから栄養を受け取って生命を維持している。

 物ノ怪は生きていると言っていいのかはわからないが、食餌を摂る以上は生き物に準じた扱いをしてもよいだろうし、それならその解釈もそれほど間違っているとは言えないだろう。ただし、

「私は、食餌をしたことがない」

 こういう例外もある。

 悠花は素直に驚いた。

「ええ!?じゃあどうして消えちゃわないの」

 ご挨拶もいいところだ。

「普通の物ノ怪は現世(うつしよ)に在るだけで、その魂が磨滅していくと聞くが、それは私には当て嵌まらないようだ」

 しかし狐は特に気にする様子もなく答える。

 狐にとっては些事なのだろう。

 いや、この狐にとっては、万事が些事なのだ。おそらく、この世に在り続けること以外は。

 この狐にとって自分は「どうでもいい事」であると思い至ったのであろうか、悠花は少しの間だけ、悲しそうな表情をした。

 だが万事が些事なら、聞けば大概のことには答えてくれるはずと思い直したようだ。

「おなかが減ったこともないの」

「ただの狐であった頃は、定期的に空腹が訪れたものだが」

 妖狐となってからの長い長い時間の中で、ただの一度も、そういった感覚を覚えたことがないのだという。

 飲食が空振りとなると、「生きる」ことの少なくない部分を喪失してしまう。

 悠花はさらに、狐に眠くなったりしないのか、パートナーが欲しいと思ったことはと聞き、いずれも玉砕した。

 完璧だった。

 完璧な一匹狼――いや、一匹狐か――である。

 この世に在るために必要なものもなく、誰の手も必要とせず、何事にも関わる必然がない――さらに悪いことに、当人がそれで満足している節も見受けられる――これでは「生きるとは、なんなのか」という命題に思い悩むのも、仕方のないことであった。

 そもそも、なぜこんなことを聞くのか。悠花は今さらそこに思い当たった。

「十と数年前に、ある者にそんなことを問われてな。以来、気になっていたのだ」

 と答えた狐は、加えて

「――ひとまず、悪いこっくりさんとやらを退けてから、もう一度聞かせてもらうとしよう」

 なに、死線の一つも潜れば、何かしら答えも出るであろうなどと、物騒なことを言う。

 悠花は、友人に危害を加える悪いこっくりさんを退けてくれるという、九尾の狐の言に歓喜しつつも、彼女に「死線」を潜らせるつもりらしいことに若干の、いや。

 大きな不安を抱いた。


 時間はもう、深夜〇時を回っていた。

 佳奈の母親によれば、家が大きく揺れた時間は午前二時頃だったという。

 とするなら、残り時間は二時間弱。その間に、対策を立てなければならなかった。

「佳奈ちゃんと伊佐美ちゃんは四神結界っていう強い結界で守られてるはずだから、狙われるのは一番弱いお守りのトラ……わたしの幼馴染の虎二っていう男の子ね。この子だと思う」

「念のため、カナとイサミの状況を確認しよう」

「わかった。自転車出してくるね」

「それには及ばぬ」

「え?」

 白い九尾は、器用に尻尾を動かした。

 三本の尾を使って悠花を自らの背に乗せ、一本の尾で窓の鍵を外し、一本の尾が窓を開けると、勢いよく窓の外に飛び出し――飛び出せなかった。

 身体が、大きすぎた。

 白い九尾によれば、物ノ怪が人を乗せるには実体化せねばならず、実体化すると物理的な制限を受けるということであった。

 なかなか、ままならないものである。

 なので、白い九尾から悠花に、〝力〟――理力が戻された。

 また噛み付かれるのかと悠花は身構えたが、ぺろりと右の首筋を舐められると、先ほどまであった痛みも引き、それに伴い白い九尾の尾が五本に減って、五尾狐となった。

「どうして、尻尾が減るの?」

 なぜ減るのかは当事者の九尾にすらわからなかった。

 もちろん、普通は理力が減ったところで尾の数まで減ることはないらしい。

 五尾となったことで体高は悠花と同程度――百四十センチ前後となり、余裕で窓から飛び出せるようになった。

 五尾は空を蹴ると、UFOのように蛇行しつつ、空へと舞い上がった。

「飛べるんだ!」

「物ノ怪だからな」

 物ノ怪は皆、飛べるのかと思った悠花だが、飛べない物ノ怪もいるという。

 五尾によれば、どうしたことか妖狐には飛べる存在(モノ)が多い――とのことだった。


 悠花にとっては、これが生まれて初めての空中散歩だ。

「初フライトが、物ノ怪の背中かぁ……」

 そんな経験してる人、あんまりいないだろうね――などとはしゃいでいる悠花に、妖狐が尋ねる。

「どちらに行けばいい」

 悠花は慌てて方向を指示した。

 すると妖狐は、勢いよく駆け出した。

 時速にして三十キロといったところか。

 本気を出せばもう少し早いのだろうが、今は人が乗っている。あえて速度を落としているのかもしれなかった。

「飛べるのに、移動するには走らないと駄目なんだ」

 悠花は呟き、それからひとり苦笑した。〝駆ける〟という行動をせずにスライド移動する様子でも思い浮かべたのだろう。確かに絵面がシュールすぎる。走った方が見栄えがいい。

 その乗り心地は、決して良くなさそうだ。馬などであれば地面を蹴るたび受けるであろう上下の衝撃がないようだから、ふわふわとした感覚であろう。

 例えるなら、回らないメリーゴーラウンドといった風情だ。


 昼間がどんなに暑くとも、七月上旬の夜はまだ、少し涼しい。

 乾いた陸風が、昼の名残を洗い流すかのようにさわさわと吹き、悠花の長い髪の毛を揺らす。

 悠花は思い出したように髪の毛を手早くまとめて、手にしていた銀のかんざしで一本挿しにした。いつものスタイルである。

 白狐はその様子を見ると立ち止まり、物珍しそうに

「其方はいつも、その、かんざしを?」

 と、問うた。

「うん。お風呂と寝るとき以外は、だいたいこれでまとめてるよ」

 悠花がそう答えると妖狐は、今どき珍しいのではないか、と言った。

 確かに珍しくはある。

 和装だけならともかくも、髪の毛まで和の小道具でまとめるのは、二〇二〇年に生きる女子中学生にしては趣味が渋すぎる。

「お母さんがね、あ、もう死んじゃってるんだけど。そのお母さんの家系の〝シキタリ〟なんだって」

 その〝しきたり〟では、

 ・家系の女は常時和装とすること。

 ・家宝を受け継いだ者は何があっても肌身離さないこと。

 と、伝わってはいるものの、悠花は和装をいいように解釈して普段着は甚平か作務衣だし、二つある家宝は、一つは自室に飾りっぱなしで、もう一つに至っては母親の代で遺失していた。

「……ご母堂は、何が原因で?」

「事故だった、って聞いてる。わたしが三歳の時の話だから、詳しくは聞いてないの」

「そう、か」

 妖狐はそれだけ聞くと、また前を向いて走り出した。

 この妖狐に興味を持たれたのがよほど嬉しかったのか、悠花は身を乗り出して話しかけた。

「あ、わたしの名前言ってなかったね。わたしは悠花。たちばな はるか。よろしくね」

 あなたのお名前は?と聞く悠花に妖狐は、

「タチバナ、ハルカ――」

 そう呟くと一転、私の名は好きに呼べばよい、と事務的に言った。

「なにそれ。ちゃんと名前あるんでしょう?なんで教えてくれないの」

 妖狐は悠花の教えて教えて攻撃に屈することなく走り続ける。

 その後の執拗な追及にも決して名を明かさぬ妖狐に根負けした悠花は、いつまでも「あなた」とか「ねえ」とか呼ぶのもどうか――こんな草食系でも、いちおうは九尾狐なのだ――と思ったようで、言われたとおり勝手に名前を付けることにした。

「じゃあね、あなたの名前は……『キュウ』!『キュウ』さん!」

 尻尾が九本あるから……今は五本だけど――。そう言って妖狐、キュウの顔を見ると、キュウはこれまでで最大級に目を見開いて、悠花を見つめた。

「ど、どうしたの?」

 何かの逆鱗に触れたのかと、恐る恐る聞く悠花に対し、キュウは言う。

「いや。以前……、三十年前にも、同じ名を付けられたのでな」

 そして、

 当時三才の子供に――。と付け加えた。

 その声は若干上ずって、あざけるような口調にも聞こえた。

「奇妙な偶然もあったものだ」

 打って変わって無感情にそう漏らした白狐に悠花は、尻尾が九本なら誰がそう名付けてもおかしくないと抗弁した。


 会話の間に新市街地と旧市街地にある佳奈と伊佐美の家を回り、いずれも問題なく結界が働いていることを確認した一人と一体は、下小丹(しもこに)地区に戻ってきていた。

 悠花の家の上空に差し掛かったところで、キュウは立ち止まった。

「先ほど私は、『喚ばった物ノ怪が従う振りをして其方の命を奪うかもしれぬ』と、言ったな」

 キュウは続ける。

「――私がそれをしないと、思うか?」

「キュウさんが、わたしに従う振りをして、わたしの命を奪う?」

 悠花はそう口に出して、すぐに答えた。

「それはないよ」

「なぜ、そう言える」

 簡単に否定され意外そうなキュウに対し、悠花は実にあっけらかんと答えた。

「そんなこと考えるような物ノ怪(ヒト)は、〝力〟をよこせって言った相手に『少しだよね?』って聞き返されて、あんなに時間をかけて返事しないよぉ」

 絶対に二つ返事で〈はい〉に移動するに決まっている。悠花の答えはシンプルだった。

 それを聞いたキュウは顔を前方に向けると、悠花に見えない角度で、

 わずかに、口角を上げた。


「キュウさん、トラの家は、そこね」

 悠花が自宅から三軒隣りの竹林家を指し示すと、キュウは拍子抜けしたように言った。

「なんだ。ハルカの家と、目と鼻の先ではないか」

「まぁ幼馴染だし」

「では、あの縁側にいる少年が、トラツグか?」

 そう言われて見てみれば、どうしたことか、虎二はまだ眠っていなかった。

 少し考えればわかりそうなものだが、級友が二人も〝障り〟に遭っていて、次は確実に自分が障るという状況で、何事もないかのように眠れる人間の方が、どうかしている。

 しかし、眠っているのを前提にしていた悠花にとっては想定外だった。

「あちゃー。まだ、寝てなかったんだ」

 そう言う悠花に対し、

「都合が良い」

 言うが早いか、一直線に虎二の元へ駆け降りる。

「待って」

 と言う間もなく地面に到着し、虎二の前に立つキュウ。

 悠花は、心臓が止まりそうだった。

 待って。待って待って。

 普通の人は物ノ怪に出会うこと自体が初めてなこと多いんだよ。この状況でいきなり姿を見せるとか、トラに警戒させるだけになるんじゃない?

 悠花の狼狽っぷりには、そうした考えもあったのかもしれない。

 その虎二は、目の前の出来事をうまく把握できずに固まっていた。

「トラツグ」

 キュウの呼びかけに我に返った虎二は、おう、と生返事をした。

 虎二の表情は正に、鳩が豆鉄砲を喰らったかのようだった。

 だが、キュウのその背に悠花の姿を認めると、途端に警戒を強めて、手中の独鈷杵を正眼に構えた。前日の佳奈の話――佳奈の部屋に忽然と悠花が現れたこと――を思い出したに違いなかった。

「ハルカに頼まれた。其方を物ノ怪の障りから守ろう」

「モノノケ?サワリ??」

 いきなり空から降りてきた大きな獣が人語を喋った、というのが虎二の認識である。しかも、意味の解らない単語を並べて。なんならその背中には幼馴染も乗っている。

 警戒しない理由がなかった。

 それに気付いたか、悠花は急いでキュウの背から降りると、虎二に語りかけた。

「トラ……」

 だが、言葉が続かない。

 悲しそうな表情だ。胸を押し潰されるような息苦しさでも感じたか、その手は胸の辺りを押さえている。

 少しだけばつの悪そうな表情になった虎二だが、それでも眼前の二者から視線を切らないようにしながら問うた。

「悠花……お前、本当に悠花か」

 悠花の表情が曇る。

 虎二がそう疑うのは彼女でも理解できる。

 それはそれとして、幼馴染から疑いの目を向けられるのは、やはり辛いのであろう。

 それでも悠花は一歩、踏み出した。まずは信用させること、本物の悠花であるということに気付いてもらわなければならない。

 何をどう説明しようとも、話し手と受け手の間に信用がなければ意味を成さないのだ。

「もし、わたしが〈こっくりさん〉なら、そのお守りを持ってるトラには触れないはずだよね」

 たぶん、な。と、虎二は頷く。

 悠花は、ゆっくりと近付く。

 正眼に構えられた独鈷杵の刃の部分が、悠花の胸骨に当たる。刃と言っても先端が尖っているわけではないから、血が出るようなことはない。

 独鈷杵を握る虎二の両手に、悠花の両手が重ねられた。

 ――あたたかい。

 佳奈や伊佐美の前に現れた悠花は、氷のように冷たかったと聞く。ならばこれは。

「はる――」

 悠花の名を呼び終わる前に、今度は虎二の両手が悠花の胸に押し当てられ、

 虎二は言葉を失った。

 ――この、感触は。

「ね。あったかいでしょ」

 話を、聞いてくれる――?

 悠花の言葉に虎二は、

 十ヘルツほどの周波数で首を上下に振った。

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