五.
七月四日(土曜日)
不安な夜が明けた。
わたしは昨日の夜にベッドに入った後も、居ても立ってもいられないような、もどかしい気持ちのままで、布団の中でごろごろ転がっていた。
そのうち気を失うように、いつしか浅い眠りに就いていた。――そして、
目覚めた時も相変わらず、そんな心持ちが続いている。
だから、睡眠時間そのものは取れているはずなのに、まるで眠った気がしない。
けれど不思議と、眠気はあまり感じなかった。
神経か気持ちかはわからないけど、どっちか、あるいは両方が昂っていたのだろう。
朝食後、少し時間をおいてから、佳奈ちゃんの家に電話をした。
「あら、悠花ちゃん、昨日はありがとう!」
佳奈ちゃんのお母さんが出て、とても嬉しそうに〝四神結界〟に効果があったことを知らせてくれた。
昨日は、結界を置いてから佳奈ちゃんの言動が落ち着いたのだと。熱は引いて食欲も戻り、昨日の夜は安心したように眠っていたそうだ。
今朝も、ふらふらしてはいるものの会話もいつも通りで、どうやら回復に向かっているようだと、言っていた。
ただ、深夜に一度だけ、直下型の地震でも起きたかのような強烈な揺れを感じて、家の人が一斉に目を覚ましたとか。
でも、地震速報もなく、それに、近隣住民が騒ぐ様子も見られなかったから、そのまま寝直したって言っていた。
それはとても強烈な揺れだったのに、朝になって調べてみても家具は転倒・散乱していないし、外壁にもひび割れなんかの異変は見られなかったんだって。
それが何を意味するのか、わたしにはわからなかったけど。
佳奈ちゃんのお母さんは
「〝結界〟で佳奈に近寄れなくて、家に八つ当たりしたんじゃない?」
と、ちょっと愉快そうに言った。
今、佳奈ちゃんはまたぐっすりと眠っていて、これなら霊能者の到着も待てそうだと、とても喜んでくれていた。
おじーちゃんに言われて五鈷杵の状態を確認してもらったら、いろんな所にヒビが入っているということだった。
電話を切り、少しだけ安心した。
気付けば、昼前なのにすでに暑く、蒸していた。
まだ七月になったばかりだというのに、ついこの間まで雨模様だったというのに、この変わり身の早さっていうか酷さは、なんだろう。
毎年のこととは言え、その度にめげそうになる。
クーラーも無い時代の人は、どうやってやり過ごしていたんだろう。
そのクーラーは、二十四℃の設定になっている。もっと低くしていいと思う。
でも下げると
「年寄りに冷房はきつい」
って言われてしまうので、発言権の弱い若者は、ガマンするしかないのだった。
ひとまず、友達が無事で良かった。
気持ちが上向いたせいなのか、何か地に足が付いていないような、ふわふわした感じがする。単に熱気にやられたか、寝不足なだけかもしれないけれど。
暑いので外に出掛ける気にもならないし、だからと言って自分の部屋で宿題を片付けるような気分にもならない。
とりあえず、おじーちゃんに報告することにした。
おじーちゃんは、リビングでお茶を飲みながら新聞を読んでいた。
「おじーちゃん、佳奈ちゃん無事だったって」
少しだけ、声が裏返った。ちょっと興奮していたのかもしれない。
「そう、ですか」
電話の会話が聞こえていたのだろうか。おじーちゃんの表情は曇ったままだった。
――五鈷杵のヒビの数の多さ、直下型地震と勘違いするほどの揺れを起こせる物ノ怪。
楽観できる状況ではない――。
おじーちゃんの反応は、わたしにはそう言っているように感じた。
十一時過ぎに、わたしのスマートフォンに着信があった。トラからだった。
佳奈ちゃんは無事だったよ、と言うと、
「ああ、そうか」
と、どこか上の空というか、生返事というか。
なんの用事か聞けば、トラは、伊佐美ちゃんの家に行ってきたという。
トラはこの〝障り〟について、二つのパターンを考えた。
一つは、トラの言う〝こっくりさんのタタリ〟が、言い出しっぺの佳奈ちゃんだけに降りかかるパターン。
もう一つは、〝タタリ〟が参加者全員に降りかかるパターンだ。
――もちろん、誰か一人だけ無事というパターンもあるだろうけど、そういうのは昔のB級映画でもそうそう無いと、ずっと前にお父さんが言っていた。確かに、考える必要はないと思った。
昨日、永倉を見てからずっと、そこが引っ掛かっていたんだよな――。
トラはそう言ったけど多分、最初からわかっていたのだと思う。
直感はすごいんだけど彼、あまり勉強が得意じゃないから。考えたことを言葉にするのに時間がかかるみたい。
「今日オレが無事だったってことは、昨日の夜にこっくりさんに襲われたのは永倉か尾藤で、永倉はお守り……〝けっかい〟だっけ?で大丈夫だったとするじゃん」
本来なら今日には命を奪われていたであろう佳奈ちゃんが無事だとすれば、命を奪うつもりだったこっくりさんはどうするか。
佳奈ちゃんだけがターゲットなら、トラも伊佐美ちゃんも無事なはず。
じゃあ、全員がターゲットなら?
トラは無事だった。
なら、伊佐美ちゃんは?
だからトラは、土曜日の午前中に、わざわざ伊佐美ちゃんの家まで行ったのだという。
わたしは、はっとした。その可能性を、すっかりと見落としていたのだ。
「で、どうだったの?」
少し焦りながら聞くと、返ってきた言葉はとても短いものだった。
「追い返された」
昨日の、佳奈ちゃんのお母さんと同じような感じだったらしい。
それなら、もう〝障り〟を受けていると思っていい気もするけど、トラは一緒にこっくりさんをした仲間のことだから、きちんと確認したいと譲らない。だから、スマホの画像を見せて伊佐美ちゃんの家族を説得してほしい。
そういう話のようだった。
トラらしいなぁ。
彼のそういう、強い仲間意識も含めて、わたしは彼のことが好きなのだ。
好きというよりは、かわいい。
まるで弟に向けるような愛情をトラに寄せているのを、わたしは自覚している。
「仕方ないなぁ。伊佐美ちゃん家に行けばいいんだよね?」
声がニヤけているのが自分でもわかった。
「お願いします」
トラは他の人にはともかく、わたしには恰好つけようとはしない。
そういうところも本当にかわいい。
決して頼りにならないわけじゃないけど、彼に関してはかわいいの方が強いんだよね。英語で言うとプリティー、じゃなくて、ファニーの方だけど。(あ、これカタカナだ)
わたしは自転車で伊佐美ちゃんの家に向かった。
伊佐美ちゃんの家は、生能駅よりも北側、新興住宅街のさらに先にある、とっても旧い街道(北陸道とか言ってた)に沿って立ち並ぶ古い建物の、その一つだ。
北に五十メートルも歩けば海というその立地は、海水浴をするには最高だった。
わたしは好きでよく海水浴に行くけど、こんだけ近いと学校に行く前にだってひと泳ぎ出来そうな気がする。
自転車で十分ちょっとかかる場所に住んでいる身としては正直、羨ましいくらいだ。
伊佐美ちゃんは、泳ぐのがそんなに好きじゃないとか言っていたけど。
そんなことを考えている間に、伊佐美ちゃんの家の前までやって来た。
横幅の狭い、その分奥行きのある家がひしめき合う、いわゆる旧市街地。
以前は商店か何かをやっていたと聞いたことがある、ガラス張りの玄関のその前にトラが、ぼけーっと突っ立っていた。
まあ、暑いしねぇ。
「おお、悠花さま。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「ふざけてないの。じゃあ、行こっか」
妙に芝居がかったトラのボケはスルーして、チャイムを鳴らす。
伊佐美ちゃんのお母さんが出てきた。
今日は昨日の失敗を繰り返さないためにも、まずは例の十円玉画像から見せることにした。異常な変形をしたそれに、伊佐美ちゃんのお母さんもさすがに驚いたようだった。
それから〈こっくりさん〉のことを話した。それに佳奈ちゃんと、〝結界〟のことも。
「だから、一目でいいので、伊佐美ちゃんに会わせてください」
伊佐美ちゃんのお母さんは納得したのか、諦めたのか、わたし達を家の中に招き入れてくれた。
「いや、信じちゃいないよ。こっくりさんなんか。でもさ」
もう実害は出てるし、それを防ぐ手立てがあるってんなら、一目見るくらい安いもんさ――。そう言った。
部屋は、荒れていた。
手に付いたものを手当たり次第に「誰か」に投げ付けたように、色々なものが一か所に集まっていた。何かに抵抗した、のだろう。
その当人は、昨日の佳奈ちゃんと同じように、いや、さらに悪い状態に見えた。
顔色に、生気というか、血の気がない。土気色とはこういうのを言うのかという、妙な感想が出るのみだった。
髪の毛は汗で額に張り付いているのに、もう汗は出ていない。
息は苦しそうで、口を開けている。口の中は、カラカラに乾いている。呼吸のたびに肩が上下しているのが辛そうだった。
目の周りも、佳奈ちゃん同様にどす黒い隈が浮いていた。
――これは。
おじーちゃんに電話を――。そう思い、スマホを取り出した瞬間だった。
「ぎぃやあああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫だった。
最初は、それが人の声だとは思えなかった。もしや、こっくりさん、いや、〝物ノ怪〟が出てきたのかと、身体が固まってしまった。
腹の底からの、全身全霊の叫びとでも言えば伝わるだろうか。
ともかく、聞いたことのない大絶叫だった。
声は、伊佐美ちゃんが出していた。
彼女はわたしを見て、目を剥いて――いや、恐れている?
その時、佳奈ちゃんの母親の言葉を思い出した。
――娘がね、あの日の夜に『悠花ちゃんが来てた』って言うのよ――
今朝、電話で最後に言っていた言葉だ。
二人とも、昨日のお見舞いのことと記憶が混ざってるだけだろうと、あまり気にはしてないかったのだけど、これはもしかして――。
「ごめん!」
わたしはすぐに部屋から出ると、震える手でおじーちゃんに電話を掛けた。
背中では伊佐美ちゃんを必死で落ち着かせようとするお母さんの声が聞こえる。
――わたしのふりして友達の命を奪おうとしているヤツが、物ノ怪がいる。
なんでだろう。わたしが教室に、あの場にいたから?
物ノ怪への怒りよりも、悲しみの方が強かった。よりにもよって、わたしの姿をしたモノが、自分のクラスメイトの命を奪おうとするなんて。
悔しくて、目の前の壁がにじんだ。
『……悠花?どうしました』
おじーちゃんの声だ。
いつもの、低くて落ち着いた声だ。わたしは少しだけ、気持ちが立ち直った気がした。
そして、伊佐美ちゃんの状態を報告した。
話を聞き終えたおじーちゃんは
『とりあえず、帰って来なさい。五鈷杵を届けるのも結界の説明も、僕がしますから』
と言ってくれた。
トラを呼んで、おじーちゃんの話を伊佐美ちゃんのお母さんに伝えてもらって、それから家の人に騒がせたことを謝って。
外に出た時には、お昼になっていた。
自転車を押しながら、トラと一緒に帰った。
二人ともずっと、黙ったままで。
駅の高架下を通り、高速道路の高架を抜け、新幹線の高架を越え、そろそろ下小丹の入り口というところで、ようやく落ち着いてきたわたしは、ふと、伊佐美ちゃんの家を出てからずっと、トラが見舞い中、ほとんど何も喋ってないことに気付いた。
また、何かを考えてたのかな。
「ねえ、トラ。どうしたの」
「……永倉と尾藤がさ」
「うん」
「こっくりさんからのタタリを、その、お守り――しじん結界?で、防ぐとするじゃん」
「うん」
「そしたらそのこっくりさんは、どこに行く」
「……うん」
「うん、じゃなくて。――オレンとこだろ?」
「うん……」
「……なぁ、おい悠花ぁ。オレにもお守り、くれよぉ。頼むよぉ」
思い悩んだ末の懇願、という感じだった。
「う、うん。おじーちゃんに聞いてみる」
「頼んだぞ、悠花!」
……彼も必死だ。でも、これは、切実だった。
家に帰るトラを見送ると、家の前の坂道でわたしは、空を見上げた。
朝方、透き通るような青色だった空は少しだけ色が濃くなり、今はロールパンのような形の白い雲がいくつか、ぷかり、ぷかり浮かんでいる。
そこから坂道に視線を落とすと、山と山の間にある下小丹の沢と、沢にへばりついたように立ち並ぶ、くすんだ色の家家。
左右を見れば、その両端には深い緑の木木が広がる。それより奥はもう、山だ。
どれもこれも、見慣れた風景のはず――なのに、わたしはどこか異世界に迷い込んだような、居心地の悪さを感じた。
空はこんなに晴れているというのに、
「雲行きが、怪しいなぁ……」
そう、呟いた。
家に帰ると、おじーちゃんが玄関まで出迎えてくれた。けれど、
「弱りましたね」
おじーちゃんは困り顔だ。
結界の素、五鈷杵が足りないらしい。
佳奈ちゃんと伊佐美ちゃんとトラの分で十二本必要なのに、五鈷杵は九本しかないという。
普通こういうものは、きっちり二十本とか入ってるもんじゃないの?と思うんだけど、これをもらえた理由が「今時、木製もないし、半端ものだったから」と言われると「それじゃあ仕方ない……」としか返事のしようもなかった。
「じゃあ、トラの分は?それ一本だけ?」
そう聞くと、さすがにそれはマズイと思ったか、おじーちゃんはまた自室に向かった。
後について行くと、今度は昨日よりも小さな木箱を取り出した。
置くと、ごとり、と鈍い音がした。
「鉄製の独鈷杵も、一本きりですねぇ」
何それ。
「この独鈷杵は金属製でしてね。物ノ怪は一般的に、金属物が苦手と言われています」
これも同じ人からもらったらしい。
昨日のものとは違って、これには鈷、つまり両端の刃の部分を囲む飾りがない。
刃がひとつきりだから〝独〟鈷と言う、そうだ。
これだけでも守りの力はかなり強いらしいんだけど、〝四神結界〟ほどではないんだって。
それと、鈷の数は性能に関係なくて「刃がもろ出しだと危ないから五鈷杵にした」って単純な理由だった。
まあ独鈷杵だと、刺さりそうだもんね。
これも半端のもらい物かと思ったら、これはおじーちゃんの仕事に付き物の障りからおじーちゃんを守るために譲ってくれた、その人の仕事道具だった。
つまり、危ないから五鈷杵にしたのに、その人は独鈷杵を使っているということだ。
その人の考えが、よくわからなかった。
もちろん何か考えがあってのことなのだろうけど。
三人の状況から、〝四神結界〟は危険な状態の二人に渡すことにして、トラには独鈷杵で頑張ってもらうことになった。
「虎二くんは男で体力もあるし、今夜だけなら、これでなんとか耐えられるでしょう」
わりと丼勘定だけど、他の二人のことを考えると、それしかないのかな、と思った。
「今日と明日は、満月ですねぇ」
物ノ怪の〝力〟が最も強くなる日ですが、ヒビの入った五鈷杵の内側にもう一組、新しいものを仕掛ける形にすれば、今日の一晩くらいは――。
と、おじーちゃんが言った。
でも、助けの手がやってくるのはその翌日。月曜日だ。
今日はともかく、明日の晩は……と、わたしが聞くと、
「最後の一晩は、運を天に任せるしかないですね」
「そんなぁ」
泣き言も出る。
――これを、トラに伝えないといけないのかぁ。
わたしは少しだけ考えた後、
「……その、余った木の五鈷杵、私にもちょうだい?」
とおねだりした。
わたしもあの場所にいたから一応、持っておきたいな、と言うと、
「ええ、いいですよ。ないよりはマシ程度ですけど、それで悠花が納得するなら」
と最後の一本を譲ってくれた。
「ありがと、おじーちゃん」
お礼を言った。おじーちゃんはそれには応えず
「……悠太がいればねぇ」
と呟いた。
――?
お父さんがどうしたのだろう。
よほど不思議そうな顔でもしていたのか、わたしの顔を見たおじーちゃんは一瞬、妙な動きをした後、
「あ、いや、悠花さんも心細いでしょうし」
と付け加えた。
小さい頃は年に数回は顔を出していたお父さんも、ここ何年は年に一回か、それより少ない回数しか見ていない。
よっぽど忙しいんだろうな、とは思うけど……いないのが当たり前みたいになってるので、それほど気にしたことはなかった。
「そんな気ィ回さなくてもいいよ」
わたしはそう言って仏間に寄ると、仏壇のご先祖様に手を合わせた。
後ろの方で、おばーちゃんとおじーちゃんの声が聞こえた。
「……朔哉さん、嘘が下手なんだから」
「……そうでしょうか」
何が、嘘なんだろう。
気にはなったけど、仏間に寄ったのは用事があるからだった。わたしは仏壇に手を合わせると、こっそりとそれを行動に移した。
四神結界はおいじちゃんが、鉄の独鈷杵はわたしがトラに直接届けた。
トラはひとしきり文句を言った後、
「まぁ女子のためだからな、少しくらいなら引き受けても……う~ん、やっぱヤダなぁ」
とボヤいていた。
深夜。
お風呂に入って、晩ご飯を食べて、歯も磨いたし、かんざしも外した。
寝る準備は万端。
でも友達のことを考えると、やっぱり不安も残る。
おじーちゃんは「しばらくは僕らにできることはありません」と言っていた。
わかってる。
それでも一つ、試してみたいことがあった。
用意したのは、例の〝喚び符〟。
正方形に切った紙の、中央上部に鳥居、その下の左右に〈はい〉〈いいえ〉、さらにその下に漢数字を右から〇一二三四五六七八九と、下段には五十音を縦書きで書き入れる。
勉強机代わりのローテーブルには、喚び符の他に、お供え物の油揚げと、お酒は手に入らなかったので、お水を用意した。
鳥居の門の間に十円玉を置く。
仏間からこっそり持ってきたロウソクを四本、テーブルの東西南北に乗せ火を点ける。
(さすがに燭台までは失敬できなかった)
最後に、北側の窓を開ける。隣の部屋(お父さんの寝室)の窓が北側になるので、そこを開け、さらにわたしとお父さんの部屋の襖(東側になる)を開いて、霊の通り道を作っておく。
一応の準備は出来た。おじーちゃんは、見立てが大事だと言っていた。
IMOKINほどの本格さはないけれど、体裁だけは整えたつもりだ。
これで〈こっくりさん〉を、喚ぶ。
とはいえ、心配なこともあった。
おじーちゃんとおばーちゃんにバレたら、大変なことになるだろうな、と。
それに、うまく喚べるかもわからない。
喚べなければバレることもないだろうけど、そうすると誰かが犠牲になりかねない。
だから、是非とも喚ばなければならない。
ただ、喚べてもそれが〝いい物ノ怪〟とは限らないし、機嫌を損ねれば障られるかもしれない。
もしかしたら話の通じない物ノ怪かもしれず、最悪、食べられるかも……。
たとえそうなっても、みんなを助けてもらうことだけは約束してもらえないかな。
考えはどんどん悪い方向に転がっていき、それにつれて心の中がどんよりとしてくる。
――いや、こんなこと考えてる場合じゃない。
今日やらないと、トラの、みんなの命が、危ない。
お説教よりも、あるかもわからない障りよりも、ここで黙って見過ごして、後悔する方がずっとイヤだ。だから――
口には出さず、心の中で強く念じる。
――こっくりさん、こっくりさん 北の窓からお入りください
十円玉に、指は置かない。
なぜって、本物なら、強い力を持つこっくりさんなら、指なんか置かなくても勝手に動くはずだから。
それくらいのこっくりさんじゃないと、友達に悪さをしているこっくりさんには勝てないと思うから。
ロウソクの火は、開けた窓から襖を通じて吹き込む風で、小刻みに震えている。
――こっくりさん、こっくりさん 北の窓からお入りください
時間を少しおいては、何度も、何度も呼びかける。
しばらくは何も起こらないまま、時間だけが過ぎていく。
五分ほども唱えていただろうか。
どこからともなく、びゅおお、びゅおおと、風の唸るような音が聞こえてきた。
それと合わせるように、胸元から、弱々しいけど噴き上げるような風が吹き付ける。
送風機なんか、ミニタイプのものも含めて、置いた記憶はないのだけれど。
ロウソクの火は風音に反して、先ほどと変わらず小刻みに揺れていた。
本物の風ではないのだろうか。
いわゆる心霊現象?
わからないけど、唸る風の音はその間にも大きくなっている。
――こっくりさん、こっくりさん 北の窓から――
風はもう、かなりの強さだ。
音が重なって、すでにどちらの風の音なのかもわからない。
わたしの周りを時計回りに渦巻く風も吹いてきた。
なのに、ロウソクにはなんの変化もない。
――わたしの周りだけ?
寝間着がばたばたと音を立てる。
なのに、部屋の中は何事もないかのようにいつもどおりだ。
――こっくりさん、こっくりさん
心の中で口上を唱えるたびに、風がつよく、強くなっていく。
わたしの周りだけ、台風の日に外に出たときのような強風が吹き荒れている。
いい物ノ怪が来るといいな――。
わたしは少しだけ、そう思った。
――こっくりさん
【ごうっ】
と、ひときわ強い風が吹き。
そうして、
わたしの髪の毛が
大きく浮き上がった。
【ドンッ】
「ひゃあっ」
わたしの左側、襖側の腕に何かがぶつかった感触。
そして、何かが入り込んだかのように【キュワヮ~ン】と、小気味よい金属音を立てて回転する十円玉。
――本当に、喚んじゃった?喚べちゃった?
「あの……こっくりさん、ですか?」
おそるおそる、質問してみる。
十円玉は、もったいぶったようにゆっくりと、〈いいえ〉に移動した。
もちろん十円玉には触れてもいない。
「では、誰ですか」
十円玉は先ほどよりもゆっくりと喚び符の上を移動し、〈きつね〉と答えた。
こっくりさんじゃないけど、きつね?
どういうことなのかよくわからないけど、どうやら本物のこっくりさんのようだった。
「……助けてほしいことがあります。聞いてくれますか」
十円玉は〈いいえ〉に向かった。
「え?」
困る。助けてくれないと。
焦るわたしを気にも留めず、十円玉は質問もしていないのに動き出した。ゆっくり、ゆっくりと。
〈ち
か
ら
を
〉
……止まった。
――力、を?
「力が、欲しい、の?」
〈はい〉
ええ??
力が欲しいのは、こちらの方だ。
「わたしの命だか魂だか知らないけど、それを寄越せってこと?」
〈はい〉
わたしに、友達に悪さをする物ノ怪をなんとかする力はない。
それができるのは今のところ、この〈こっくりさん〉しかいないだろう。
また次が来てくれるかもわからないし、もっと悪い〈こっくりさん〉が来るかもしれない。
選択の余地は少ない。
力を分けたら、力を貸してくれるかな。
……話を聞かれて終わり、とかだったら、どうしよう。
でも言うとおりにしないと話が進まないっぽいし。
けど、命の危険が出るほど吸われるのは勘弁願いたい。だから、
「少しでいいなら……少し、なんだよね?」
:
:
:
〈はい〉
ずいぶんと長い、間があった。少し――いや、だいぶ不安になる。
「んんん~~~」
わたしは悩んだ。たっぷり三分間は悩んだ。
これだけ力の弱い(とはいえ、指も触れずに十円玉を動かすんだから大したものなのだろうけど)物ノ怪に、友達の危機を救えるだけの力があるのだろうか、と。
それに、力を取られてそのまま逃げられちゃったら、取られ損になってしまう。
でも、わたしにできることは少ない。。
次の物ノ怪が来てくれるとも限らないし、この物ノ怪よりも乱暴者だったりすれば、わたしはなす術もなく、障りによって今後の人生を狂わすことになるだろう。
――それに。
わたしは、覚悟を決めた。
「わかった。じゃあ、はい」
〈ここから吸え〉と言わんばかりに、右手の人差し指を十円玉の前に差し出す。
差し出してから、まるでテレビで見た、血糖値測定を待つ患者のようだな、と思った。
覚悟を決めて指を差し出し、三十秒ほど経過した。
が、何も起こらない。
――ここまで思わせぶりな会話をして、何もなかったじゃ済まなっ……!
唐突に、痛みが走った。
「いったぁーーーーい!」
予測、できなかった。
まさか指先ではなく、右の首筋に歯を突き立てられるとは。
しかも本気で噛んでる。
これは間違いなく小動物の、本気噛みだ。
わたしは一瞬でそれらのことを考え、すぐに左手で右肩を払い除け――払い除けたかったけど、せっかく来てくれた物ノ怪に、無礼を働くわけにもいかない。
ざっくり三十秒ほど待ってみた。
でも、痛みが引くことはなかった。やはり、ずっと噛み付かれたままだ。
これは、さすがに行動を起こしてもいいだろう。
そう考えて、左手で右の首筋あたりを強く払った。
「ぎゃん!」
犬や猫――小動物特有の悲鳴が、室内に響き渡った。
声の先には、ふわふわの真っ白い体毛に覆われた動物がいた。
見た目は細身の犬のようにも見える……けど、サイズがまるで別物だ。
でかい。
八畳あるわたしの部屋の半分くらいは、その白い犬のような動物が、腹を見せるポーズで寝っ転がって占拠していた。だから、顔は見えない。
もっさりと太い尻尾が、ゆらゆらと揺れていた。
わたしの目の前にも、後ろ脚あたりのふんわりとした白い毛が、風もないのに波打っている。
ロウソクの火が燃え移らないかと心配になったものの、そこだけ、映画とかでよく見る二重写しみたいになってて、この動物がこの世のものではないことがわかった。
「な、何?」
思わず声が出た。
いくらなんでも、これほどのサイズのこっくりさんを喚び出すとは思ってなかった。
とっさに、首から下がるお守りを握った。今は亡きお母さんが作ってくれた、妙に丸くて軽い匂い袋のような外見のお守りだ。
驚き、動揺、焦り、不安――そんなものがごちゃまぜになった、もやもやとした感情がわたしの中で渦巻いていたのは、それでも時間にすれば五秒ほどだった。
こっくりさんが顔を上げたまま、こちらに向け喋ったのだ。
「おお、少しだけのつもりであったが、これほどまで戻るとは」
その声は、やや高いものの、落ち着いた感じの、若い男の人のようだった。
それにしても、これほどまで戻るとは、とは?
――まさか、吸われすぎた?
と思ったのも束の間、そうではないらしく、
其方の〝力〟、見た目に反し凄まじいな――と、どうやらわたしの何かの力が、こっくりさんの想定を超えていたらしかった。
その〝力〟がなんなのかは、わからないけど。
こっくりさんは身体を捻り、むくりと起き上がった。
それは――