やらないことをやろう
「普段やらないことをやろう」
とある事情で落ち込む私に友人はそう言った。
このエッセイを始めようと考えたきっかけは思えばあの一言にあった気がする。
元々文章を書くのは好きだった。恋をしていたと言っていい。
学生時代はひたすらに文筆を握って過ごして居たような気もする。さすがに言い過ぎではあるか。
しかし、気まぐれにもこのエッセイを読んだ方はお察しいただけるのではないだろうか?
悲しいことに好きだからといって才があるというわけではないのである。
才がないことを続けられるほど、私は歳をとっていなかった。
若かった。何でも出来るし、何にも手を着けることができた。
好きだからこそ、才がないということが辛かった。次第に逃げ、そして文筆を折った。
いや、才と呼ぶ物があるとすれば、それはそこで逃げず向き合うことではないかと今は思う。
多かれ少なかれ、全てのことにブレイクスルーは訪れる。それを待てるほど愛せるかを才と呼ぶのだろう。
世の才人たちはこの苦しみの時間を耐え、続けるほど何かを愛していられたのだろう、そう思うとちょっと羨ましく感じる物はある。
今も文筆は、私に何でも書けるが何も書けないのだということを教えてくれる。
それがこの歳になると面白い。
そしてその面白さを伝えたいが故に今日も文筆を握り、できた文章のつまらなさに笑うのである。
これは若い頃になかった感覚だろう。
ああ、私は今普段やらないことをやっている。