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穏やかシリーズ

穏やかならぬはるのあいだ

作者: もすこ

 大学四年になる春。単位は去年取りこぼすことなく取れて、今年からはほぼゼミのみでずいぶん余裕のある生活となった。実家暮らしをしていた私はこれを機に一人暮らしをしている。自分でやりくりできるならと、親からも了承を貰い大学の近くにアパートを借りた。

 一年の時から続けている出版社のアルバイトのおかげで就職活動をすることなく内定にこぎつけた。小さいところではあるがすんなりと決まったことで余計なプレッシャーを覚えずにいられる状況に安堵した。

幼いころから文字を書くことに執着していた私は、研究者や小説家を目指し大学に入った。けれども才能とは如実に表れるもので賞に応募をしても結果は惨敗。文学の研究も詰めが甘いと言われる始末で三年になった頃には既に自身の才能に限界を覚え筆を執る機会も格段と減っていた。情熱を失っていく私と相反するように、絵画に情熱を燃やし続けているのが草太だ。彼は依然として油絵にこだわり、ぎりぎりの八年目まで学校にいることを告げた。描かない僕は既に僕じゃないと言って憚らない彼の姿勢は羨ましくもあったが、少しは現実を見てほしいとも思う。

夢だけじゃ金にならないし、ご飯を食べていけない。薄給になるだろう私の給料じゃとても二人で生活はできない。ないない尽くしの私たちに未来はあるのだろうか。社会人になる手前になってこの関係に疑問を持つようになり、私は今までのような付き合いが出来なくなっていた。

 草太と恋人という間柄になってから四年目となる。一人暮らしを始めたばかりの家にはもう彼のスペースが出来ていた。服や歯ブラシ、シャンプー等はもちろんのこと、画集にクロッキー、大量の秀作が描かれた紙かがそこかしこに散らばっていた。

 働かなければ家賃が払えないことや生活の為家庭教師を始めて余裕が少なくなった私は彼の一挙一動に苛立ちを覚えていた。暢気とも思える彼の態度が酷く癇に障る。

 草太の家は金持ちだ。彼の立場は非常に微妙なものだが芸術に理解のある父親は次男でもある彼を好きにさせてくれるらしい。曰く、迷惑をかけない程度なら好きにして良いとのことだ。成城学園前に実家があるのにも関わらず、家族と暮らしたくないといって東松原と代田の間にアパートを借りている。私は彼と両親の間に何があったのか知らない。草太は積極的に話すような性格ではないし、私もまた彼との穏やかな関係に満足していた。私たちの間にあるのは二人だけで良いと本気でそう思っていた。思っていたはずなのに。どんなに望まなくとも変化は訪れる。緩やかな形だとしても確実に関係は変わっていくのだ。笑って傍に居られるけれども未来の見えない関係に焦燥感を覚えていた。情熱を注げる夢よりも安定を優先させた私と草太の間には埋めようのない隔たりがいつの間にか出来てしまっていたのだった。


「会社行って、仕事して今日早く帰って来るよ。聞いてる、草太?」


遅くまで作品を描いていたのだろう。私がスーツを着て出かけるときになっても彼はまだ安らかな眠りの中にいた。私は行ってきますと返事のない彼に告げ、ドアを開け出ていく。カツカツとコンクリートを鳴らす黒のパンプスがやけに空しく響いた。

 おしまい、という言葉が頭に浮かんだのはいつからだっただろう。私たちの関係はまだ厳しさも知らないままごとのようなものだと事も無げに言い放った人物は誰だったのか。最近、忙しいを理由にして草太と会話もしていない。それどころか一緒に住んでいるようなものなのに顔すらまともに合わせていない。

澱のように溜まっていく不安。疲労と慣れないアルバイト、夜遅く帰ってくる草太への苛立ち。いろんな要素が絡み合って負の感情ばかりが心に堆積していく。そう言えば、あれだけ好きだった本もあんまり読んでいない。疲れていたのだと思う。判断を誤ったと思ったときには後の祭り。私の口は決して人に向けてはいけない言葉を放ってしまった。あろうことか一番大切だと思っていた人間に、棘と毒を多分に含んだ口調で。


「おかえりなさい。李子ちゃん。今日もお疲れ様。明日も仕事?」


 アルバイトを終えて帰ってくると三日月色の髪をした草太がビール片手に私を出迎える。


「ただいま」


「ご飯食べてないよね? 簡単に作ったものばかりなんだけど食べる?」


「何で居るの?」


「何でって。今更じゃない? いつも居るじゃない。でも久しぶりだね。いつも帰ってくると李子ちゃん寝てるから。あ、ビール飲む? 今日下高井戸まで自転車で買い出し行ってさ、安かったから買ってきちゃったんだ。発泡酒じゃない、ちゃんとビールだよ。しかも李子ちゃんが好きな銘柄の」


そう言って、彼は冷蔵庫から銀色の缶を冷蔵庫から取り出す。


「疲れてる? 手、洗ってきなよ。ついでにお風呂も入ってきちゃったら? その間に僕用意しておくからさ」


「ありがた迷惑。草太と違って私働かなくちゃいけないの。来年からはもっと忙しくなる。ちゃらんぽらんで何も考えてないような君と居るとさ、胃がむかむかしてくる。出てってよ。自分の家あるのにわざわざこっち来て何なの? 一緒に居たって癒されるどころか苛々するだけ」


「ごめん。環境変わったのに気遣いできてなかったね。出直してくるよ。明日また来るね」


「来なくていいよ。今の私にとって草太は負担でしかない。何にも考えてなくて私ばっかり焦ってる。暢気な顔見てると引っ張叩きたくなる」


きっと私は限界だったのだと思う。夢を諦めてから徐々に覚え始めた違和感は抉るような言葉へ変わり、傷つけてしまった。言い過ぎたと口を押えても遅い。草太は僅かに目を見張って、それから残骸のような笑みを浮かべごめんねと言ってドアを出て行った。

私は追いかけなかった。涙も出なかった。悲しいのかホッとしているのか解らない。確実に言えることは終わってしまった実感と、喪失感だった。



 桜の花がとっくに散って、若葉が濃い緑色になった頃私は草太に連絡を取ることにした。あの日はまだ冬を色濃く残していた春で、日々に追われている間に3か月も時間が経っていたことに漸く気付いた。

 メールで彼に連絡をすれば時間をさほど置かずに返事が来る。時間はあるという。早速次の日に会おうと約束を取り付けた。今更会って何の話をすれば良いのだろう。別れ話、それとも復縁か。どちらにしろ愉快な話ではない。つい半年くらい前までの気楽な関係が無性に恋しくなった。

 どうして笑いあって傍にいる関係に不満を持っていたのだろう。未来が不安なのであればそのまま口にしてぶつければ良かったのだ。優しい彼のことだ、しっかりと話し合っていれば考えてくれただろう。けれども私は一人で苛々して、言葉にしなくとも理解してほしいという態度を崩さずに彼を傷つけた。

一体どんな顔をして会えばいいのだろう。自分で蒔いた種で、自業自得であるのは解っているが胸に広がる不安はどうしようもなかった。


「久しぶり。ごめんね、大学の近くまで来てもらっちゃって」


「良いよ。上野ならうちの大学からも近い」


「そういえば去年からお茶の水になったんだっけ? ずっと一緒に居たはずなのに見逃してることばかりだなあ」


「草太」


「何?」


三か月振りに会った彼は、いつもと変わらず口元を三日月型にして笑んでいる。変わったことと言えば、明るい髪の色が黒くなったことくらいであろうか。元々定期的に髪型を変える彼をずっと見ていたものだから大きな変化なのに全然気が付かなかった。


「展覧会どうだった? 最後に会ったときそれで忙しかったんだよね。ごめん、気が付いてなくて」


「いや、良いよ。今まで胡坐掻いてたのは僕の方だから。それより李子ちゃん、ちょっと痩せたんじゃない? ご飯食べてる? ちゃんと寝てる? 君は面倒だからって色々無頓着だから心配だよ」


「草太には言われたくないけど。でも、最近は少し余裕が出てきたよ」


「其れならよかった。というかごめん、立ち話もなんだね。どっか移動しようか」


 草太は相も変わらずマイペースで、私の掌を当然のことのように握る。私は数か月ぶりの他人の体温を感じ、そして安堵した。温かくも冷たくもない指先。けれども奇妙な安心感を覚えるそれは四年間ずっとともにあったものだった。


「平日なのに混んでるね」


「アメ横はいつもそうだよ。僕たち美術館ばかり言ってたからこっち側来るの殆ど無かったよね。これからは色々回ろうよ。僕の好きなものと君の好きなもの半分ずつにしよう」


「え?」


「それとも今日は別れ話? 違うよね。李子ちゃんって別れるつもりあるなら開口一番言って即帰りそうだもん。僕もね、自分も悪かったとは思ったんだけど一方的に言われて流石に傷ついたんだ。だからこっちから絶対に折れないぞって思ってたらいつの間にかこんなに時間が経ってた」


「もう、私が連絡して来ないって思わなかったの?」


「僕は自信家なんだよ。君がどんな憎まれ口叩いても、きつい言葉を吐いてもすぐに後悔すること知ってる。それに李子ちゃんは僕のことが好きでしょ。其れなら良いんだ。僕は君のことを頭のてっぺんからつま先までまるっと愛してるから良いんだよ」


恥ずかしげもなくクサイ台詞を放つ彼は、半年前の彼と一緒で、私は嬉しさに思わず笑みをこぼした。ごめんなさい、と小さく呟けば草太も笑う。

根本的な問題は何一つ解決していないのだけれど、もういいやと匙を投げた。ないない尽くしの私たちは、それでも一緒に居ればいい。薄給でもなんでもどうにかこうにかやっていくかと決意した。またぶつかり合っても終わりに手を繋げばいい。言葉にして話を聞いて私たちの関係は続いていくのだ。きっとこの先もずっと。


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