免許を返納する日。
きょうは免許を返納する日。
長年付き添った我が車を警察署まで運転する。
私も車もラストの記念日だから。
などとディーラーに我がままを言って、署まで引き取りに来てもらう手筈だ。
このワンボックスを選んだのは、ひとえに子供ができたから。
か細い体に比べて芯の通った大きな産声と確かな温かさを抱きしめたあの日を思い出す。
幼き頃の突然の発熱、音楽教室、柔道の試合、悪ガキ宅への送迎。
巣立ってしまった息子との日々に心馳せ、ハンドルをぐいと握りしめる。
郵便局を過ぎれば、いよいよ警察署だ。
と、突然視界に赤い車が飛び込んで来た。
助手席側すれすれに猛スピードで追い越され、思わず声が出るほど驚く。
開いた窓には、白肌の肘がちらりとのぞく。
女、か。
その暴走車は、昭和を感じさせる角張ったチープなデザインをしていた。
側面はどこかにぶつけたのだろう。
所どころ塗装がはがれ、銀色の地金が見えていた。
そして、何だか揺ら揺らと揺れて走行している。
こちらが焦点を合わせようとするのを避けるかのように、テールがゆらゆらとブレる。
直線の道路を走っているはずなのに。
ディーラーの担当者との待ち合わせには、まだまだ時間があった。
よし、いっちょあの赤い車を追いかけてみることにしよう。
途端に心が沸き立つ。
ぎらりと自らの眼つきが鋭くなったことに気がついた。
運転手さん、あの車を追いかけてくれ。
ほら今このラジオでやってるニュース、これを追いかけてるんや。
脂の乗り切った記者時代を、ふと思い出して苦笑いした。
家族3人で食べにいったレストランが視界に入る。
イヤイヤ期の息子を抱え店を抜け出した光景が、映画のヒトコマのように映し出された。
続いて交差点に差し掛かった。
何気なしにダッシュボードに置いた携帯を見ると圏外となっている。
信号は黄色のラスト近くを灯している。
赤い車はぐいと加速した。
けれども、変わらず揺ら揺らと揺れながら交差点を突き抜ける。
信号が赤になるべき瞬間に、こちらもアクセルを踏み込んだ。
突如として光の明滅とともに歪む風景。
あれは妻と息子、か。
家族の姿もまた光の中で歪んで見えたが、その存在感に揺らぎはなかった。
奇妙な感覚。
そして、こんな時なのに腹が空いていることに気がついた。
女の泣き声。
言い訳がましく騒ぐ男の子の声。
そして、もう一度だけ聞きたいとわだかまったままの女性の声。
景色が揺れて、ぶれて、滲む。
ぶぶぶぶぶぶぶ。
エンジン音のようで、そうではない規則正しい重低音が響く。
腹が減っている。
大きな影が迫る。
身構えると同時に、腹の底から歓喜が沸き起こる。
空が開く。
遠くて近い銀色の面に茶色の小粒が浮かぶ。
あれは……
情景が巻き戻る。
車窓は目で追えないくらいにめまぐるしく景色が過ぎ去っている。
ここは、いや、これは現実なのだろうか。
赤い車はさらにスピードを上げた。
真っ赤な風船を手にした男の子が歩道に立っていた。
祭りの帰り道、風船と水の入った袋を手に提げた子供。
すまなさそうに男の子は小さな赤が揺れる袋を掲げて顔を上げた。
息子なのか?
俺なのか?
車内に玉ねぎの香りがむわりと広がる。
クーラーなんてまだまだ贅沢品だった。
あれは軽自動車が550CCになった頃の淡路島への家族旅行。
いきなり親父が道を歩く農家の夫婦から玉ねぎ20キロを買い付けたのだ。
トランクに入るはずもない薄茶色の島の逸品は軽自動車の後部座席の足元に鎮座した。
家族4人を載せた真夏の車内は、どこにも逃げ場はなく、玉ねぎで満たされていた。
けれどもなぜ今、そんな思い出がよみがえったのだろう。
赤い車が急停止した。
まとまらない思考の進行を、ばさりと断ち切るように。
そこは川原だった。
いつしかそれほど広くはない川の水辺に設けられた駐車場に停まっていた。
赤い車は確かに存在していたが、当の運転手の姿はなかった。
この場所には覚えがある。
何も分からないまま、けれども、妙な確信に突き動かされて車を降りた。
風が吹いていた。
こぼれ出す春を運ぶ一陣の風が、俺の足元に一枚の新聞紙を運んだ。
それは小さな記事だった。
未来の、いや、まだ起こってはいない事故の記事。
俺の死亡記事、だった。
まさか。
はっと視線を上げると一人の女の背中があった。
あの赤い車よりいくぶん薄ぼけた、朱に近い衣をまとっていた。
そして所どころ朱が剝がれ女の白い地肌が覗いている、その理由を俺は一気に理解した。
すらりと伸ばされた背中に、俺は彼女の笑顔をみた。
朱の衣とともに消えさる姿に、俺は二粒の滴をおくった。
その金魚は、我が家のテレビの横の水槽でずっと家族を見守ってくれていた。
愛情も諍いも反抗も笑顔も。
この川原は彼女の老い傷ついた、最期の背中を見送った場所だった。
気がつけば、俺の車は郵便局の前で停車していた。
歩道の女性が甲高い声で叫んでいる。
郵便トラックの銀色の荷台の腹が目の前に広がり、衝突直前の様相だ。
急ブレーキを踏んだ記憶はないのだが、何とかギリギリで停車している。
俺は慌てて車を降りた。
ゴムの焦げくさい臭いが漂う道路には、二筋の黒い痕が刻まれていた。
そして、俺の両頬に残された二筋の涙の痕も、まだ乾いてはいなかった。