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梅雨が明けて、本格的な夏の季節になりましたね。弓弦さんは夏バテされていませんでしょうか。風邪などはひいてないでしょうか。私は大学からの帰り道、あなたのことに想いを馳せます。
弓弦さんのお部屋に忍び込み、盗聴器を仕掛けてからおよそ一ヶ月が経とうとしていました。私はいよいよ、最低限の食事と睡眠、大学の講義の時間以外を、弓弦さんのために費やす生活を送るようになっていました。
あれから私は、弓弦さんのことをもっと深く知ることができたと思います。
あの日、私に手を差し伸べてくれた弓弦さんは優しさに満ちあふれ、その表情には凛々しさが漂っていましたが、実は子どもっぽい一面も持っているということ。
バラエティ番組やお笑い番組が好きだということ。
部屋で独りのときについつい言葉を発したり、テレビに向かって突っ込みを入れてしまうところなんて、私にそっくりで親近感がわきました。
また、お友達もよく遊びにいらっしゃること。弓弦さんは勉強が苦手で、お友達にレポートや課題を手伝ってもらっている場面を何度か耳にしました。とても微笑ましいです。数学や科学はあまり得意ではありませんが、私はフランス語に自信があるので、きっとお力になれるに違いないと考えていました。弓弦さんのお手伝いができれば、会話の中に混ざることができれば──ずっと、そう思っていました。
その日も、自宅に着いた私は、早速スマートフォンから盗聴器にアクセスします。スピーカーからは、すぐに横浜の弓弦さんのお部屋の音が聞こえてきました。今はまだ五限の時間帯で、教養科目の講義に出席している時間帯のはずですから、当然誰もいません。
そう思っていた矢先、スピーカーから声が聞こえてきました。
「なあ、聞いてるのか?」
私はハッと息を呑みました。紛れもなく、弓弦さんの声です。
そして弓弦さんは、私に話しかけてきたのです。弓弦さんのことを聞いているのか、と。
「一度会ってみたいな」
弓弦さんは、さらに言葉を続けます。金曜日の夜十時、弓弦さんの家で。
私はとても嬉しくなりました。弓弦さんにちゃんとした形で会える。時間はかかってしまいましたが、ようやく入学式以来の夢が叶おうとしているのです。
盗聴器を仕掛けたことを許してくれるか、そんなことはもう、どうでも良くなりました。私はもう一度弓弦さんに会いたい。ただ、会って話がしたかったのです。
私は、約束の時間が来るのを今か今かと待ち続けていました。
そして、金曜日。
朝から何も手がつかなかった私は、大学の授業も休み、自宅で出掛ける為の準備をしていました。
どんな服を着ていこう。確かお友達との会話の中で、清純派の女優さんがお好きだという話をお聞きしました。ならばと、白を基調にしたワンピースを選びます。
どんな話をしようか。私は頭の中で弓弦さんとの会話をシミュレーションします。大学のお勉強のこと、お笑い番組のこと、入学式の日のこと。いろいろ考えましたが、まずは入学式の際のお礼を述べるところから始めよう、そう思いました。
横浜に着くには少し早い時間に家を出た私は、もう通い慣れてしまった経路で弓弦さんの元へ向かいます。腕時計の秒針がこんなにも遅く感じられることは今まであったでしょうか。私の胸は高鳴ります。
横浜キャンパスの最寄り駅に着くと、少し強い北風が吹いていました。弓弦さんの家に向かうには、駅からキャンパスを通り抜けるのが一番の近道です。夏の季節にしては少し冷たい風にわずかな肌寒さを感じながら、私は既に歩き慣れてしまったキャンパスを足早に歩いていきます。
キャンパスの正門の付近にはサークル棟があり、軽音楽サークルやアカペラサークルが練習している様子が聞こえてきましたが、キャンパスを進むにつれて人の声も少なくなっていきます。工学部の建物には灯りこそついているものの、すれ違う人はおらず、何かの機械が動く重低音と煙を吐き出すノイズだけがこだましていました。
大学のキャンパスを抜ければ、弓弦さんのお家まで遠くはありません。少し前までは私にとって全くゆかりも無かったはずの道なのに、今となってはどこに何があるのかはっきりと頭に刻み込まれてしまっているのです。あらためて考えると、とても不思議なことだと思いました。
キャンパスの北側はいちおう住宅地となっているようですが、ところどころに空地があり、一帯がまばらな空間となっています。盗聴器を仕掛ける際に訪れた昼間はそのような印象を抱かなかったのですが、暗闇の中では、その灯りの乏しさや人の少なさに気が付きました。
けれども、私の頭の中は弓弦さんに会うことでいっぱいでした。お化粧は崩れていないか、ワンピースがほつれていないか、どんな話をしようか。考えはとどまることを知らず、何かを気にしてしまえばきりがありません。そう思っているうちに、弓弦さんのアパートに着きました。
階段を上がるトン、トンという足音が、やたらと大きく聞こえます。それと同時に、私は頭の中に少しずつ波が押し寄せるのを感じました。まるで遠くでサイレンが鳴っているかのような耳鳴り。私は〈嵐〉の予兆を感じているのです。階段を一段一段あがるたびに波が押し寄せ、サイレンが近付いてくるのです。どうしてこんな大切なときに。どうかおさまって。私は祈ります。
二階の一番奥が、弓弦さんのお部屋です。腕時計の針が闇の中で微かに発光しています。午後九時五十八分。
私は鳴り止まない耳鳴りと、頭の痛みに耐えながら、扉の前でひとつ、深呼吸をしました。扉を一枚隔てた向こう側には、弓弦さんがいる。心臓が高鳴るのが分かり、思わず私は胸に手を当てます。ワンピースの上からでも、自分の鼓動が確認できそうなくらいです。
私は最後にもうひとつ、深呼吸をしました。自分の意識が〈嵐〉に飲み込まれそうになるのをどうにかこらえながら、私は震える手で呼び鈴のボタンを押したのです。
**
「遙はいいよな」
「何が?」
「頭が良くて、イケメンで、車も運転できて」
遙がハンドルを握る隣で、弓弦がつぶやく。
窓の外は深い闇に包まれ、街灯の光が規則正しく現れては過ぎ去っていった。
「弓弦だって、すぐに免許取れるよ」
「頭と顔はフォローしてくれないのかよ」
ふふっ、と遙が笑う。
「なのに、車の助手席に乗せるのが野郎なんだもんな。お前ならちょっと頑張れば女の子の一人や二人くらい引っかかってくれるだろうに。今度ドライブするときは助手席は女子にしとけよ」
弓弦は屈託の無い笑みを浮かべて言った。
**
──そう、オンナのコの一人や二人、ね。
屈託の無い笑みを浮かべる弓弦の隣で、俺は思う。
肝心なところで鈍感な弓弦は、きっと俺の心の中など気付いていないのだろう。でも、俺はそれでも良かった。弓弦さえそばにいてくれれば。
〝彼女〟の存在に気付いたきっかけは、俺が弓弦の部屋に仕掛けていたはずの盗聴器が耳慣れない声を拾ってきたことだった。
最初は、弓弦が女を部屋に連れ込んだのかと思った。いくら奥手な弓弦とはいえ、ありえない話ではなかった。けれども、スマートフォンのスピーカーからは弓弦の声は一切聞こえず、〝彼女〟の「弓弦さん、弓弦さん」という恋い焦がれるような声しか聞こえてこなかった。そこで俺は、一つの仮説にたどり着く。誰かが弓弦の部屋に忍び込み、盗聴器を取り替えてしまったのではないか。そして俺が仕掛けた盗聴器は、そいつの部屋のコンセントに挿さっているのではないか。
その確証を得たのは、六月半ばのある日だった。弓弦が、両手がふさがっているからと俺に鍵を開けさせたとき、俺は鍵穴のところに金属で引っかいたような傷跡があるのを見つけた。おそらく、〝彼女〟はピッキングによって弓弦の部屋に忍び込んだのだ。
弓弦がコーヒーを買いに行くからと家を出たとき、俺はテレビの後ろ側のコンセントを確認した。案の定、そこには俺が仕掛けたのとは別の三角タップが挿さっていた。俺は予め大学の購買で買っておいた三角タップを代わりに差し込み、〝彼女〟の仕掛けた盗聴器を持ち帰ることにしたのだ。
〝彼女〟の正体を知るのに、そこまで時間はかからなかった。弓弦に似て〝彼女〟は独り言が多かった。同じR大学の一年生で、文学部に所属していることもすぐに分かった。俺は〝彼女〟にあらかじめ録音しておいた弓弦の部屋の音を聞かせることで、盗聴器を持ち帰ったことを悟られないようにした。
そんな折、俺は弓弦から合鍵をもらった。
「弓弦。こういうのは、もっと大事な人に渡すもんだよ」
「別にいいだろ。お前、よくうちに来るし。何かと便利だろ?」
弓弦はさも当然であるかのように言ってのけた。弓弦の部屋の合鍵を渡されるということが、俺にとってどのような意味を持つのか、全く察する気配もなく。
けれども、もしかしたらこれは〝彼女〟を罠に嵌めるチャンスかもしれない。そう考えた俺は、〝彼女〟をおびき出すためにあらためて弓弦の声を録音することにした。弓弦との会話のときは、いつも講義中に使っているボイスレコーダーを隠し持つようにしていた。
そして、手頃な声の素材が集まると、それを〝彼女〟に盗聴がバレていることを気付かせるように並べた。フランス語の授業が休講となり、時間を潰すために人のいない食堂で話したやり取り。彼女をおびき出すための「なあ、聞いてるのか?」と「一度会ってみたいな」というセリフは、この時に録音したものを使った。
〝彼女〟がこれに乗ってくれるかどうかが問題だったが、弓弦と会えると勘違いした〝彼女〟は、金曜日の夜、呼び鈴を押した。あらかじめ適当な理由をつけて弓弦を別の場所へ行かせていた俺は、〝彼女〟の首をその場で絞め上げた。
〝彼女〟の白く細い首筋に、ロープが飲み込まれていく。小さな身体が、必死に抵抗を試みる。俺はそこまで図体が大きいわけでも、力があるわけでもなかったが、やはり男と女の差がある。〝彼女〟は、俺の手の中で呼吸を止めた。
そして、今〝彼女〟はトランクの中、スーツケースに収められ、永遠の眠りについている。スーツケースは弓弦が眠りにつくのを見計らって、どこか遠くの海に投げ捨てるつもりだ。
弓弦。
弓弦は、きっと俺の気持ちには気付いてくれない。
俺には振り向いてくれない。
でも、それでも良かった。
今までどおりの関係が、これからも続いてくれるだけで、俺は良かった。
ただ、もし弓弦が俺の気持ちに応えてくれるなら。一度でも振り向いてくれるなら。
俺は、弓弦に──
**
「──か」
遠くから声が聞こえてくる。
「遙」
その声に、遙ははっと我に返る。
「遙、どうした? 体調でも悪いのか?」
「ああ、うん。ごめん、ちょっと考え事。ちょっとだけ休憩してもいい?」
遙は減速して、車を路肩に停めた。
窓の外には、暗闇に染まる海が静かな波音を立てていた。遠くの港の光が、波間に反射して星のように輝いていた。
「遙」
二人きりの車内に、弓弦の澄んだ声が響いた。
「オレさ、遙が俺と同じ大学を受けるって聞いたとき、すげえ嬉しかったんだよな。また一緒に遙と過ごせるんだと思って。だから、なんとか受かるようにって必死で頑張ったんだ」
遙を見つめる弓弦の目には、優しさと凛々しさが漂っている。
「オレ、たとえ遙にどんなことがあったとしても、ずっと遙の味方で居続けるよ。頭も良くないし、遙ほどイケメンでもないし、頼りないけどさ、それでもお前のことだけは絶対に裏切れないんだ。だからさ──」
耳が痛いほどの静寂。遙は、思わず膝の上で拳を握りしめる。
「だからさ、辛いことがあったら言えよ」
「弓弦」
遙の顔が歪んだ。
「そういうのはさ、オンナのコのために、とっておかなきゃダメだろ──」
こらえきれずに零れた涙が、遙の拳に落ちた。
(了)