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純愛  作者: 木苺(赤蛇堂)
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 ずっと憧れで、追いかけ続けたあなたの姿が、私の目の前にありました。

 私は思わず走って駆け寄ろうとしました。

 けれども、そう思った次の瞬間には、気持ちとは裏腹に、私の足は止まってしまったのです。

 私は気付いてしまったのです。語るべき言葉を、何も持ち合わせていないことに。

 今さら何を話せばいいというのでしょう。入学式の一件はもう二ヶ月近く前の話で、弓弦さんが覚えてくださっているか、そのときの私には自信が持てませんでした。

 しかも、弓弦さんはお友達と一緒でした。親しくお友達とお話をされているところに、まったくの部外者の私が水を差すのは気が引けてしまいました。

 私は、目の前にあなたがいるのに何もできない歯がゆさを耐えるほかありませんでした。

 けれども、ここで出会えたことは決して無駄ではありませんでした。ここに来て私はようやく、あなたの名前を知ることができたのです。お友達との会話の中で、あなたが「ゆづる」と呼ばれていたのを、私は聞き逃しませんでした。私は、やっと前に進むことができたと感じました。それと同時に、私はよりいっそう、あなたのことを知りたくなったのです。


 弓弦さん、今の時代はたいへん便利になったと思いませんか。

 私はこれまで、インターネットを使うことも、コンピュータに触れる機会も決して多くありませんでした。大学生になってから、コンピュータの授業やレポートを書くときなど、コンピュータを使わなければならない場面が増えたように思います。

 コンピュータが無いと不便だとおっしゃる方は多いと思いますが、私は特に不便を感じたことはありませんでした。必要な情報は本や新聞を参照すればよく、必要なものもスーパーやコンビニに出掛けて購入すればよかったのですから。

 けれども、インターネットの世界はとても奥深いですね。弓弦さんにこのような話をするというのは釈迦に説法かもしれませんが、インターネットを頻繁に使うようになって知ったことがいくつかあります。


 一つは、個人情報に対する敷居の低さです。

 私はテニスサークルの一件で、見知らぬ相手に連絡先を手渡すことのリスクを痛感しました。以降、日常生活においてむやみに個人情報をさらさないよう、慎重になっていたように思います。

 けれども、インターネットの世界では、まるで競い合うかのように自らの情報を披露していることが分かります。本名や顔写真は当たり前のこと、出身地や居住地、来歴や昨日の晩ご飯のことまで。実に様々な情報が集積され、誰もが閲覧できるようになっていることに気付かされるのです。

 そこで、まず私は思いつく限りのSNSサイトで、R大学に籍を置く「ゆづる」または「ゆずる」という名前の方を検索しました。「ゆづる」や「ゆずる」と綴る漢字は「結弦」や「譲」など候補はいくつかありますが、決して数は多くありません。

 すぐに、ある方のSNSアカウントが見つかりました。ハンドルネームを「アキラ」と名乗る、R大学工学部に所属するという方のアカウントです。

 そのアカウントに、「弓弦の家なう!」というコメントと一緒に、一枚の写真が載せられていました。写真には間違いなく、弓弦さんが写っていました。ふざけてお友達にしなだれかかっているその姿はどこか少し抜けていて、微笑ましく感じます。お友達と一緒に勉強していた一場面だったのでしょう。ローテーブルの上にはノートともに『機械材料学』という教科書が置かれていました。

 この写真から何か分かるものがないかと調べた私がたどり着いたのは「Exif情報」というものでした。

 Exif情報とは、デジカメなどで写真を撮影したときに画像データに付加される情報を指します。例えば撮影に使ったカメラの機種が分かるほか、スマートフォンなどGPS機能を持つ端末で写真を撮影した場合は、撮影した場所の位置情報などもデータとして残るというのです。この情報は比較的簡単に消せるのですが、私が見つけた弓弦さんの写真には、幸いにもこのExif情報が残されていたのです。


 もう一つ、私がインターネットの世界で新しく知ったことは、いつも通うお店では手に入らないような品々を簡単に買い求められることです。特に、スパイ映画やミステリ小説の中でしか目にしたことのないピッキングツールや盗聴器といった品々を容易く手に入れられることに、私は大変驚いたのです。

 今では盗聴器にも様々な種類のものがあるようです。一般的なタイプの盗聴器はアナログ式と呼ばれるもので、VHFやUHFと呼ばれる電波を使います。これだと半径百メートルから二百メートルの範囲ぐらいしか盗聴ができません。

 しかし、私が見つけた盗聴器はデジタル式というもので、携帯電話やインターネットの通信手段と同じような方法で盗聴を行うのです。半径百メートルどころか、地球の裏側からでも盗聴が可能なのです。

 そして、高性能であるにもかかわらず、外見は市販されている三角タップと何ら変わりがありません。実際にタップにプラグを挿して電気を分配することもできるので、もはや普通の三角タップと並べたところで区別することは難しいでしょう。ピッキングツールも盗聴器も手痛い出費ではありますが、弓弦さんのことを思えば安いものでした。


 私が弓弦さんの姿を横浜キャンパスで見かけてからしばらく経った、ある日のことです。

 私は時間を見つくろうと、いつものように自宅近くの私鉄駅から電車を乗り継ぎ、横浜へと向かいました。

 Exif情報をから得られた住所は、横浜のキャンパスから歩いて五分ほどの場所にあるアパートでした。キャンパスを北へ向かうようにして通り抜けた先、該当の建物は簡単に見つかりました。

 インターネットで調べた情報と違いありません。クリーム色の外壁で、二階建てのアパートです。十五年前に建てられたものだそうですが、つい最近リノベーションをしたこともあり、お洒落で新しい建物のように見えました。そして、一般的なシリンダー錠が使われていることも、インターネットで確認した情報と違いありません。

 弓弦さんが機械工学科の所属であることは既に確証済みです。シラバスで確認したところ、『機械材料学』という教科書を使うのは機械工学科のみであり、今の時間は機械工学科の一年生が必ず履修しなければならない授業があることも織り込み済みでした。

 とは言え、何かひとつでもうまくいかなければ、その場で諦めよう──そう考えていました。弓弦さん本人が不在である可能性が高いとはいえ、お隣さんがいらっしゃるかもしれません。宅配便が来るかもしれません。ピッキングも何度も練習をしましたが、いざ本番になってうまくいくとも限りません。けれども、「弓弦さんのことをもっと知りたい」という動機だけが、私の背中を押していました。

 私はアパートの扉を一つ一つ調べました。最近は表札を出すのも珍しくなりましたから、特定に時間を要するのではないかと考えていました。しかし、弓弦さんの部屋を見つけるのに時間はかかりませんでした。ドアの郵便受けからはみ出ていた郵便物の宛先に「芹沢弓弦 様」と書かれていたからです。二階の一番端の部屋が、弓弦さんのお家なのです。

 周囲を見回してみます。アパートの前の道からは、玄関が死角になっていて私の姿はほとんど見えないことが分かります。お隣さんがいる気配や、訪問の方がいらっしゃる様子もありません。やるなら今しかない、そう思いました。

 私はカバンの中から金属のツールがたくさん入ったプラスチックのケースを取り出します。中からカタカタと小さな金属音が聞こえるのに気付いたとき、私は自分の手が震えているのをはじめて自覚しました。

 シリンダー錠の種類によるものの、慣れた人がピッキングを行うとわずか数秒で解錠が可能だと言います。私も自宅で練習して、数秒とまではいかないものの、一分未満の時間でシリンダー錠を開けられるようになっていました。しかし、これだけ手が震えていると、もしかしたらうまくいかないかもしれません。

 私はなおも周囲に注意を向けつつ、ケースからピッキング用の金具を取り出しました。ベースとなる金具を差し込み、別の細い針金のような金具で内部を探ります。いつものように、と自分の心に語りかけながら、私は金属の凹凸を舐め上げていきました。

 ところが、あと少しで全てのシリンダーを揃え終わるタイミングで、階下からのトラックのエンジン音に気付きました。宅配便でしょうか、トラックのドアを閉め、荷台から荷物を下ろす音も聞こえます。どうかこちらに来ないで。私は祈りました。

 足音はこちらに向かって着実に迫ってきました。金具を持つ手が震えます。あとは錠をひねればいいだけなのに、その一瞬がとても長く感じられました。階段をトン、トンと上ってくる音が聞こえます。私は全てのシリンダーを揃え終えたことを確認すると、勢い良く金具をひねり上げ、ドアノブをつかみました。金属をひっかく音が聞こえます。急いで身を翻し、ドアの隙間に体をねじ込みました。

 私はドアを挟んだ向こう側の音に注意を向けました。どうやら宅配便の方は二つほど隣のお宅に用事があったようです。しかし、住人の方がいらっしゃらなかったのでしょう。二度チャイムを鳴らしたところで帰っていかれました。

 ホッと胸をなでおろしました。現実はいつも厳しいものです。

 しかし、今こうして私は弓弦さんのお部屋に入ることができました。

 思えば、私が男の人のお部屋に入るのは、初めてのことでした。父親の書斎にも入ったことがなかったのです。先ほどの間一髪のピッキングも相まって、私の胸は早鐘を打っていました。

 とてもさっぱりした部屋だというのが、第一印象でした。玄関で靴を脱ぎ、ワンルームの居室へと向かいます。中央にはSNSの写真で見たのと同じローテーブルがあり、壁際のベッドには寝起きのままの布団が敷かれています。反対側の壁にはテレビや本棚があり、本棚には数学や工学の教科書が収められているとともに漫画本もたくさん仕舞われていました。

 本当であればもっと弓弦さんのお部屋を見ていたかったのですが、私は不法侵入の身ですから、早く用事を済ませなければなりません。あらためて気を引き締め、カバンの中から小さな三角タップを取り出しました。

 私は再度、部屋を見回します。すると、テレビやレコーダーが繋がれているコンセントのところに、同じような三角タップがあることに気付きました。これは僥倖というものです。私はその三角タップを回収すると、持参した三角タップ型の盗聴器を差し込みました。

 念のため、スマートフォンから盗聴器にアクセスをしてみます。スマートフォンのスピーカーから、私がいる部屋の音が重なって聞こえてくるのが分かりました。多少のノイズは混じっているとはいえ、聞き取りに問題はありません。感度良好です。

 目的を果たした私は、外に気を配りながら玄関のドアを開けます。幸いにも、外には誰かが来る気配はありませんでした。あらためてピッキングツールを取り出し、ロックをかけます。今度はスムーズに作業が進みました。

 

 その日の夜、私は再び盗聴器にアクセスしました。スマートフォンのスピーカーからは、少しのノイズとともに、テレビの音が聞こえてきました。弓弦さんの笑い声も聞こえてきました。

 同じ時間を共有したくなった私は、部屋のテレビの電源を入れ、急いでチャンネルをザッピングしました。テレビ番組の正体はすぐに分かりました。バラエティ番組だったようです。

 今、私は弓弦さんと一緒にテレビを見ている。そう思うと、番組の内容も頭に入ってこなくなるくらい、私の胸は喜びでいっぱいでした。


 **


 弓弦と遙は、大学の食堂で持て余した時間を潰そうとしていた。

 一限目のフランス語の授業に出席するべく講義室へと向かったのだが、始業時刻になっても講師どころか学生も一向に姿を見せる気配が無い。もしやと思った二人は、あわてて工学部の掲示板に向かった。そこには案の定、今日のフランス語の授業は講師の都合により休講となる旨が書かれていた。二人して休講の情報を見落としていたのだ。かくして、次の授業までの時間を潰さなければならなくなった二人は、ひとまず食堂へ向かうことにしたのだ。

 朝早い時間帯であったこともあり、いつもは混み合う食堂も珍しく人が少なかった。弓弦たちがいるのとは反対側の壁際に、頭を悩ませながらノートパソコンに向かっているメガネの学生と、さらに離れたところにスマートフォンを弄っている長い髪の男子学生がいる以外には誰もおらず、がらんどうの空間が広がっていた。

 遙の向かい側には、頭を抱えた弓弦が座っていた。

「この程度のことでいちいち落ち込んでいたら、身が持たないと思うよ」

 遙は至って冷静に言葉をかける。手元にはクリームソーダの缶が握られていた。

「休講は大学生にとっての天国なんだぞ。それをみすみすドブに捨てたんだから、平気でいられるわけがないだろ」

 弓弦の声のトーンは低く、まさに青菜に塩の状態である。

「まあ、運が悪かったとしか言えないよね。大体の人は中国語かドイツ語に流れて、俺ら以外の履修生は他学科だったからなあ」

「はあ」

 弓弦はもう一つため息をついた。

 いつもは活気あふれる食堂も、人が少ないとなれば途端に静寂が増してくる。

「そういえば、最近晃を見かけないけど、何か知ってる?」

 このままだと永遠にため息を続けかねない弓弦を見かねた遙は、やむなく話題を逸らせることにした。

「ん、なんだっけ。オレが聞いてるのは、休学してもう一回受験し直すって話だけどな」

「えっ、そんな話聞いてないよ」

「ああ、そうか。遙はSNSやってないもんな」

 弓弦は自分のスマートフォンを取り出すと、アプリを起動して遙に見せた。ディスプレイには、晃の顔写真が載ったアイコンと、「もう一度自分と向き合うために受験し直します」というコメントが表示されていた。

「元々、経済とか法律とか、他に勉強したいことがあるとは言ってたんだよ。割と早い段階から仮面浪人を考えてて、こっそり再受験のための勉強をしてたのかもしれないな。オレが最後に会って話をしたときには、休学する素振りも見せなかったけど」

 弓弦は思い出したように言った。

「みんな──」

 遙はうつむきながら言う。長い前髪が揺れた。

「みんな、自分勝手だよね。自分の都合で手のひら返して敵意を向けてきたり、かと思うと別れの言葉も無いままいなくなってしまったり。みんな、自分勝手だ」

「遙──?」

 弓弦は言葉を見失い、食堂には沈黙が流れた。


「そういえばさ」

 幾許かの時間のあと、静寂を打ち破ったのは、ほかならぬ遙の声だった。うつむいたまま、言葉をつなげていく。

「この前、弓弦はさ──彼女が欲しいって言ってたじゃん」

「……ああ、夏休みの話の」

「今までさ、一回もチャンスが無かったなんてことはないと思うんだけど。何か思い当たることは無かったの。大学生になってから」

 遙は顔を上げ、少し意地悪な面持ちをたたえて弓弦に尋ねた。

「うーん……。一回だけ、思い当たることならあったかな」

「へえ」

「入学式の日にさ、駅でうずくまってる女の子がいたんだよ。スーツ着てたし、同じ入学生かなと思って声をかけてみたら、案の定で。それで道案内をしたことがあったな」

「それで?」

「それだけ」

「相手がどんな人だったとか、気にならなかったの?」

 遙は呆れた表情で頬杖をつき、言葉を返す。

「いや、彼女、すごく気分悪そうだったし、そんな時に根掘り葉掘り訊くのも悪いかと思ったんだよな。弱ってるところにつけ込むのとか、あんまり好きじゃないし」

「弓弦のそういう優しいところ、今でも変わんないな」

 遙は自分にしか聞こえない声で呟いた。

「ん、何か言ったか?」

「いや。そういえば今まで弓弦のタイプってちゃんと聞いたことが無かったけれど、どんなコが好みなわけ?」

「そうだな……。たとえば、俺のことを守ってくれる人とか、かな」

「えっ、フツーは逆でしょ。弓弦が守るんじゃないの」

 遙はさらに呆れたような顔をする。

「いや。確かにそうなんだけどさ」

 弓弦は真剣な表情で語りはじめた。

「俺さ、正直バカだし、運動もできるわけじゃないし、それから──面白い話ができるとかでもないし、全然ダメなんだよな。だから、俺が誰かを守るっていうのは、正直あんまり想像がつかない」

 静かな食堂に、弓弦の声だけがこだまする。

「だからさ、自分でもおかしなことを言ってることは分かってるんだけど、俺のことを守ってくれるって言ってくれたら、嬉しいなあって。その代わり、俺だってその子のことを守らなければいけないときが来たら、全力で守りたいって思う。俺は絶対に裏切らないし、望むことは全部応えてあげたいって思う。なんて言うんだっけかな、こういうの……」

 すると、弓弦は遙がどこか上の空な様子であることに気がついた。

「なあ、聞いてるのか?」

「──ん、ああ。聞いてるよ」

 そこで遙は何かを思いついたように、弓弦に尋ねた。

「じゃあさ、もし仮に、弓弦のことが好きで好きでどうしようもないっていうオンナのコがいるとしたら、弓弦はどう思う?」

「どう思うって言われても。そんな子がいるとは思えないな」

 弓弦は腕組みをして、悩ましげな顔をする。

「でも、もし本当にいるとするなら、一度会ってみたいな」

「会ってみたい?」

「オレのどこに惚れる要素があるのかっていうのを聞いてみたい」

「もし──そのコが危険な考えを持っているとしても?」

「危険な考え?」

 弓弦は怪訝な表情をする。

「よく分からないな。けれども、なんとなくだけど」

 屈託のない笑顔で、弓弦は続けた。

「本当に危ない目に遭いそうな時は、遙がオレのことを守ってくれそうな気がするんだ」

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