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純愛  作者: 木苺(赤蛇堂)
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 私が弓弦さんのことを知るのに多くの時間はかからないだろう。当時の私は高をくくっていたと思います。

 古文の問題集に、こんな短い物語があったのを思い出しました。

 ある貴族の女が、儀礼のために外出した際に、牛車が障害物に乗り上げるというトラブルに巻き込まれました。従者が動かそうとするも、びくともせず困っているところに、たまたま通り掛かった男がそのピンチを救ってくれたのです。女は、名前も告げず助けてくれた男に恋心を抱くのですが、女は牛車の箱の中、簾がかかっていて男の姿は分からなかったのです。ただ、その時に聞いた男の声だけが忘れられず、女の心の中に残り続ける、というお話でした。

 しかし、相手の名前も素性も分からないのに、ただ彼を恋い慕うだけで時間が過ぎていくなど、あまりにも惨めすぎるではありませんか。いま私がいるのは物語や戯曲の中ではないのですから。

 けれども、現実はうまくいくものとは限らないですね。

 ひとむかし前ならば、学生課の職員に名簿を見せてもらうことであっという間に解決できたと思います。けれども、個人情報の管理徹底が叫ばれる昨今ですから、学校側もやすやすと名簿を他人の目に晒すことはありません。

 R大学は、大きな私立大学です。

 今年も一万人強の学生が入学したというのは、ガイダンスの際に配布された冊子に書かれていました。さらには、学部生全体の人数としてはおよそ六万という数字になるようです。この数字だけでも、人探しの難しさを感じずにはいられません。一説によると、四葉のクローバーが見つかる確率は、約一万分の一のなのだそうですから。

 加えて、弓弦さんを探すのに厄介だったのが、別のキャンパスの存在です。

 R大学は、文系学部が集まるキャンパスが都内に二つ、理系学部の集まるキャンパスが横浜に一つあります。私は文学部ですから、もちろん都内のキャンパスに通っているのですが、もし弓弦さんが理系であるなら、私は横浜まで足を運ぶ必要があるのです。

 

 私は東京で新たな学生生活を送りながら、まだ名前すら知らなかった弓弦さんの居場所を探し始めました。

 メーテルリンクの『青い鳥』のお話を思い出して、まずは手近な場所から──自分の通うキャンパスから弓弦さんを探すことにしました。この始まりの時期に最も有効な手段は、様々なサークルを渡り歩くことにほかなりません。

 新年度が始まって間もない時期は、どのサークルも新入生獲得のために躍起になるものです。連日のように新歓コンパが開かれ、翌日の教室では誰かが必ず二日酔いに苦しんでいる。小説やドラマで描かれ続けてきた大学生像ですが、R大学の様子もそれと変わりないようです。

 しかし、サークルをあてにする計画は、結果として頓挫することとなりました。

 私の目的は弓弦さんを探すことであって、サークルに入ることではないのです。けれども、どのサークルに赴いても、連絡先を教えるように言われ、サークルの説明を長々と聞かされ、お酒を飲まされそうになるのです(私がまだ十八歳であるにもかかわらず!)。 

 特に私が失敗を感じたのは、テニスサークルの看板を掲げた、実際は飲み会ばかりが催されているサークルでのことでした。あまりにも執拗に連絡先を聞かれたため、しぶしぶ電話番号を教えてしまったのです。翌日以降、授業中と自宅にいるとにかかわらず、ひっきりなしに電話をかけてきては、次のコンパの予定を伝えたり、サークルの勧誘を行うものですから、私は電話番号をやむなく変えることにしました。

 この一件に懲りた私は、うかつに連絡先を教えないよう気を付けながら、いくつかのサークルを渡り歩きました。ジャズ研究会、投資サークル、ラクロス部、文芸サークル……。

 中には私の話を熱心に聞いてくれて、人探しを手伝おうと申し出てくれる方もいらっしゃったのですが、やはり芳しい成果は得られません。そして十二番目に訪れた聖典研究会で、いよいよ怪しげな新興宗教に捕まりそうになり、私はサークルをあてにすることを諦めました。季節はすっかり桜の季節を終え、五月に入ろうとしていたところでした。


 ゴールデンウィークを過ぎたころ、私は授業の合間を縫ってはキャンパス内を彷徨い歩き、毎日のように弓弦さんを探しました。学生食堂や図書館はもちろんのこと、他学部の授業にも忍び込んでは、聴講するふりをして弓弦さんのことを探していました。おかげで、文学部のはずなのに経済学者のケインズのことに少しだけ詳しくなれました。

 しかし、一向に弓弦さんを見つけることはできませんでした。とうとう、通い慣れたキャンパスを抜け出して、都内の別のキャンパスや横浜にも足を運ぶようになりました。そうして、ようやく弓弦さんを見つけることができたのは五月も終わり、入梅が近づいてきたときのことでした。


 すっかり横浜の地理にも慣れ、キャンパスのどこに何があるか頭に染み付いてしまった頃のことです。私はいつものように学生食堂で食事をしながら周囲に弓弦さんがいないか確認し、それから図書館に足を運んで書架と書架の間をくまなく探しました。もちろん、授業にも潜り込みます。この時期になると私はいよいよ文学部の講義をサボタージュし、弓弦さんを探すために時間を費やすようになっていました。

 一号棟で行われていた理学部の有機化学の講義に忍び込み、周囲を見渡して弓弦さんが見当たらなかったのを確認した私はそそくさと抜け出し、工学部が位置するキャンパスの北側へと向かいました。もちろん、ここも何度か足を運んでいるので位置関係は把握できています。当時の私は、在学しているどの学生よりもR大学のキャンパスに詳しいという自信すら持っていたほどです。

 壁にパイプが迷路のように張り巡らされた実験棟や、怪しげな煙をもくもくと出し続けている研究棟を横目に、私はペイブメントを歩いていました。すると向こう側から賑やかな声を上げながら歩いてくる人たちがやってきました。

 そして、そこにあなたがいたのです。


 ** 


 六月も半ばを過ぎた頃、梅雨入りした横浜は蒸し暑い日が続いていた。

 大学からの帰り道、弓弦はひとつクシャミをした。

「誰かに噂されてるのかもね」弓弦の隣で、遙がにやりと笑う。

「晃あたりが噂をしてたりとかな」

 デイバッグを背負い、大学の生協の袋を両手に提げた弓弦が笑みを返した。

 キャンパスにほど近い弓弦の家の周辺には、スーパーや商店が無かった。往復して十分のところにコンビニがあるほかには買い物をする場所が無いため、大学の生協で買いだめするのが弓弦の習慣となっていた。特に、日用品の類はコンビニで買うよりも安いと弓弦は豪語する。

「もう一回訊くけど、それ、本当に大丈夫? 俺の分まで持ってもらっちゃって」遙は、弓弦の両手にぶら下がるビニール袋を指差した。

「大丈夫も何も、もう家じゃねえか。それに言っただろ。今日の試験のお礼だって」

 弓弦は全く問題ないと言うように、アパートの階段を軽やかに上っていく。しかし、玄関の前で弓弦はふと立ち止まった。

「あ、悪い。鍵だけ開けてもらってもいいか。一番小さいポケットのところ」

「ん、分かった」

 遙は弓弦が背負っていたデイバッグのポケットを開け、キーホルダーが付いた鍵を取り出した。

 遙は鍵を鍵穴に差そうとしたところで、ふと一瞬動きを止めた。

「どうした? ああ、鍵穴がよく見えなかったか」

「大丈夫。それよりも、なんで同じ鍵が二つ付いてるの?」

「いや、二つ貰ったから」

「片方はスペアでしょ。失くしちゃったら意味無いじゃないか」

 遙は冷静に指摘した。


「つい最近まで寒い寒い言ってたのに、今じゃあ冷房の時期なんだもんな」

 部屋に入った弓弦は、いそいそとエアコンを入れる。

「しかし、なんつうか、大学生活ってあっという間だなあ。受験勉強でヒーヒー言ってたのが昨日のことみたいだ」

「そうだね。弓弦はかなり苦労してたしね」

「おう、なんで受かったのか今でも分かんねえ。ところでなんか飲むか」

「運も実力のうちなんだよ。アイスコーヒーある?」

 遙は、自分たちが高校生だった頃に想いを馳せた。

 一年前。弓弦と遙は高校生だった。

 高校生という時間は不思議なものだと遙は思った。

 遙と弓弦がいたのは地元の公立高校で、その地域ではいちおう進学校として名前が通っている学校だった。

 入学したての頃は、まだ楽しかったのだと遙は振り返る。体育祭や文化祭に全力で取り組んで、学校が終わればカラオケやゲームセンターで遊び明かす。毎日がお祭り騒ぎのようで、楽しい時間だけがあっという間に過ぎ去っていった。

 しかし、受験を目前に控えた三年生。気が付くと、周囲の人間は手のひらを返したようにピリピリとした空気を醸しはじめた。それまで一緒にバカ騒ぎをしていたはずの友人たちすらも、遙に敵意を向けることすらあったのだ。なかなか偏差値が上がらない彼らの苛立ちが、学力に対する悩みのなさそうな遙へと差し向けられたのだ。

 そんな中にあって、最後まで変わらず接してくれたのが、弓弦だった。

 勉強で分からないところがあるからと遙に尋ねては、問題が解決すると屈託の無い笑顔で「ありがとう」と言ってくれる。周囲の影響でささくれ立った遙の心を潤してくれたのが、弓弦にほかならなかった。

「遙、悪い。コーヒー買い忘れた」

 弓弦はビニール袋の中をあさりながら言う。

「別にいいよ。なんでも大丈夫だから」

「いや、せっかくだからちょっとひとっ走りしてくるわ」

 弓弦は床に投げ出していた財布を勢いよく拾う。

「だから別にいいって言って……」

 遙の声が届く前に、弓弦は玄関から姿を消していた。


 およそ十分後、弓弦が息を切らせながら帰ってきた。手にはコンビニの小さなビニール袋が提げられている。

「だから、別に無ければ無いでよかったのに」

「まあ、良いじゃねえか。オレもちょうどコーヒー、飲みたかったんだよ」

 ローテーブルの上に、二つのグラスが並ぶ。

 氷の入ったグラスは、外気に触れて汗をかいていた。

「そういえば、遙はもう免許って取ったんだよな?」

 弓弦はコーヒーを一口すすって尋ねた。

「うん。四月から教習所に通い始めて、だいたい二ヶ月くらいかかったけれど、どうかした?」

「いいなあ。オレも本当は免許取りたいんだけどさ、大学通いながら免許取れるほど要領よくないし、夏休みは実家の手伝いで時間がなさそうなんだ」

 弓弦の実家は家業を営んでいる。高校生の頃から、夏になると毎日のように手伝いをさせられていた苦労話を、遙はよく聞いていた。

「まあ、短期集中とか合宿とかならすぐに取れるし、焦る話じゃないと思うよ」

「いやそうなんだけどさ」

 弓弦は崩していた姿勢を正す。

「もうすぐ夏休みだろう?」

「そうだね。あと二ヶ月弱だ」

「大学生の夏休みと言ったら、何だ?」

「何って……、実家に帰るとか、バイトとか?」

「だーっ! お前、何言ってんだよ。夏休みつったら海にナンパしに行くもんだろうが!」

 弓弦はオーバーにのけぞりながら叫んだ。

「ああ、そういう」

「そう! で、ここは横浜なんだぞ。湘南や江の島が近いんだぞ。そうすると!」

「……クルマってわけ」

 遙は呆れたように言った。

「ナンパするのに電車で行くんじゃ、カッコがつかないだろう」

「つまり、そのために免許が必要だと」

「そういうことだ」

「でもさ、免許を取ったところで、いまの弓弦にうまくナンパができるとは思えないんだけど」

「お前いつも正論しか言わないよな」

 弓弦は肩を落とした。

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