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私はただ、弓弦さんにもう一度、会いたかったのです。
私たちがはじめて出逢ったのは、入学式へと向かう最寄駅でのことでした。
大学進学とともに上京した当時の私にとって、東京はまるで迷路そのものでした。
今まで経験したことの無かった満員電車。無理矢理に身体を押し込め、目的地へと向かいます。人と人とに押しつぶされ、心まで不安に押しつぶされそうになった私は、永遠にも感じられるその時間をただ耐えるよりほかありませんでした。
電車から吐き出されるように駅にたどり着いたものの、そこからさらに人の波に飲まれた私は、会場までの道のりを完全に見失ってしまったのです。
入学式の開始時刻は刻一刻と迫っていました。
このままでは入学式に遅刻してしまう。それどころか、式に出席することすら叶わないかもしれない。焦りや悲しみが混ざり合った私の心がざわつくのを感じました。強い耳鳴りが襲い、冷静に物事を考えられなくなるほど頭が混乱していくのが分かりました。ああ、またいつもの〈嵐〉が来てしまった、と。
いつの頃からか、強いショックを感じたり、パニックに陥ったりすると、決まって強い耳鳴りや何も考えられなくなるほどのひどい頭痛に見舞われてしまうのです。私はこれを〈嵐〉と呼んでいました。
ひとりぼっちの東京で、人の流れのとどまることのない駅の片隅で、私はうずくまって頭の中の〈嵐〉をやり過ごすほかありませんでした。
「大丈夫?」
背中を丸めた私の頭上から、声が降り注ぐのが分かります。
「君もR大学の新入生だろう? 会場まで一緒に行こうか」
手を差し伸べてくださった弓弦さんの姿は、今でも私の目蓋の裏に焼き付いて離れません。
少し茶色がかった猫っ毛の髪。瞳は澄み切り、表情には凛々しさがにじみ出ていました。
きっとスーツは下ろし立てだったのでしょう。スーツを着ているというより「スーツに着られている」という言葉がしっくりくるような、そんなぎこちなさを感じました。
けれども、私にとって貴方は〈嵐〉の中、手を差し伸べてくれた王子様にほかなりません。
私は思いました。ああ、これが一目惚れなのだ、と。
小学校から高校まで女子校に通っていた私には、まっとうな恋愛の経験がありませんでした。これが、私の初恋だったのです。
弓弦さんの手を取り、私は導かれるようにして入学式の会場へと向かいました。
入学式の式場で、弓弦さんはほかのお友達と一緒に合流されたので、私はまた一人になりました。
入学式が始まって祝辞が読まれる間も、管弦楽が校歌を演奏する間も、私はずっと弓弦さんのことばかり考えていました。
それどころか、式を終えて家に帰る道すがら、家に着いてすることもなくぼうっとしている間、ずっと弓弦さんの顔が頭から離れなかったのです。
けれども、私は弓弦さんとほとんど言葉を交わさなかったことに気付きました。東京から遠く離れた地で育ち、人生の多くを女だけの世界で生きてきた私には、初対面のあなたとお話するだけの心構えができていませんでした。きっと、弓弦さんも気を遣ってくださり、あまり私に声を掛けなかったのだ、とも思います。
私は、弓弦さんのことを何も知らないのだと気付かされたのです。学部も、連絡先も、その当時は名前すらも、私には分かっていなかったのです。私の手元には、あなたが私と同じ大学の、同じ新入生だという情報しかなかったのです。
こうして、私の大学生活はあなたを知るところから始まったのです。
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どうしてこんなことになってしまったのだろう。弓弦は考える。
少なくとも、彼が高校生のときに思い描いていた大学生のイメージは、もっと明るいものだった。サークル、飲み会、アルバイト、そして少しの勉強──というのは高望みすぎるかもしれないが、少なくとも「人生の夏休み」を謳歌できるものだと思っていたのだ。
しかし、現実はいつも厳しい。弓弦は、そう思い知らされる。
ぎりぎりの点数で工学部に入学した弓弦を真っ先に襲ったのは、途方もない数式の山だった。計算ミスは日常茶飯事、公式や定理を覚えるにも一苦労の弓弦にとって、黒板に並ぶ複雑な呪文を解きあかすのは至難の技だった。
さらに弓弦に追い討ちをかけたのは「出会いの少なさ」だった。
弓弦が所属する機械工学科は、男女比がおよそ百対一という、あたかも男子校と見間違うような学科であった。さらには、工学部自体にほとんど女子学生が所属しておらず、キャンパスを見渡しても、その圧倒的な男子学生の多さは明白だった。
R大学は日本でも屈指の総合大学である。
R大学の擁する学部を見ても、弓弦の所属する工学部をはじめとした理系学部はもちろんのこと、文学部や法学部といった文系学部も充実していることが分かる。工学部で出会いがなくても、他にも学部はある、と弓弦は考えたのだ。
しかし、弓弦の甘い考えはあっさりと打ち砕かれた。
工学部の位置するキャンパスは、文系学部が位置するキャンパスとは遠く離れていたのだ。さらには、文系学部の学生が工学部のキャンパスにわざわざ足を運ぶことなど無いという事実を、弓弦はまざまざと突きつけられたのだ。
結果として、数式とむさ苦しい空気に囲まれたまま、桜の季節が過ぎていった。
いま、頭を抱える弓弦の目の前には、『機械材料学』と書かれた分厚い教科書とノート、それからパソコンが広がっている。
ノートにはミミズがのたくったような字が並べられており、書いた本人すらも全く解読できていない。パソコンはワープロソフトこそ立ち上げているものの、まだ一文字足りとも入力されておらず完全な白紙の状態である。
「でも、工学部に入ると決めてた時点で、ある程度の覚悟はできてただろう?」
ローテーブルの隣側で、遙が薄ら笑いを浮かべた。
遙は弓弦の高校時代からの友人で、大学も同じ学科に所属している。高校生の頃は学年でも五本の指に入るほどの学力を持ち、その中性的なベビーフェイスで一部の女子たちからの視線をほしいままにしていた。
「そりゃ、楽ではないことは分かっていたけれど、あらためて遙に言われるとなんかムカつく」
「はははっ。確かになんでも余裕にこなしちゃう遙に言われると腹立つよな」
向かい側で大きな笑い声を上げたのは、同じ機械工学科の晃だ。大学に入ってから、弓弦たちと知り合った。
晃が言うように、遙は大学でも相変わらず優秀な成績を修めている。大学の数学や物理が追いつかない弓弦は、遙に教えを乞うことによってテストやレポート課題をどうにかくぐり抜けていた。今の弓弦があるのは、遙のおかげと言っても過言ではない。
「そもそも、教授が喋るのが早くて、板書が早いからノートもろくに取れないんだよな」
弓弦は愚痴をこぼした。
「ああ、確かにねえ」晃が同意を示す。
機械材料学の講義は機械工学科の中でも難関であると言われていた。その最たる理由が、担当講師の板書と解説の早さだ。あらゆる定理や数式が教授の口からなめらかに漏れ出ては消えていき、黒板の上は様々な数式や記号やグラフが踊っては消えていく。かつてこの難関をくぐり抜けた者たちも「板書を制する者が機械工学科を制する」という格言を残していたほどだ。
「でも、俺はデジカメ使ってるから、板書はそんなに苦労しないかな」
遙はカバンの中から小さなケースを取り出した。中には銀色に光るコンパクトデジタルカメラが入っている。
「えっ、お前いつの間に」
「弓弦は講義中ほとんど眠ってるから知らないんだよ。結構みんな写真撮ってるよ」
晃はスマートフォンを取り出すと、撮影した写真を見せた。スーツ姿で講壇に立つ教授の背後には、様々な数式やグラフが並んでいる。
「なんだよそれ。オレにも送ってくれよ」弓弦が不満げな表情で言う。
「学食一週間分で手を打とう」すかさず晃が提案する。
「はあ? なんでお前に学食をおごらなきゃならんわけ?」
「お前、何でもタダで手に入ると思うなよ」
「まあまあ。今度から弓弦も講義中は寝ずに板書の写真を撮ればいいじゃないか。あと、俺はボイスレコーダーも使ってる」
弓弦と晃の間をとりなすように、遙が言った。
「なるほどなあ」
弓弦は大学の購買フロアにボイスレコーダーのサンプルがいくつか置かれていたのを思い出す。すぐに出せる金額ではないとは言え、今後のことを考えると先行投資としては価値があるのではないか、などと弓弦は考えていた。
「それよりも弓弦は早くレポートを書きなよ。締め切りは明日だろう?」
「何を書けばいいか分からないんですう。遙先生、助けてくださいよう」弓弦がおどけたように言い、遙にしなだれかかる。
「ははっ。お前それ、すごいアホ面だな」
晃は手にしていたスマートフォンで弓弦たちの姿を捉えた。
「アホ面とはなんだっ。こっちは必死なんだぞ!」
「弓弦、邪魔。重い」
遙は弓弦をぴしゃりとはねのけた。
「まあ、弓弦。お前は出会いが足りないとか、楽しみが足りないとか言うけどさ、こういう何気ない一瞬も、後で振り返れば貴重な青春の一ページになったりするもんだぜ」
「なんだそれ」
「高校の担任が言ってた」晃はにべもなく言った。