路上仏
ある休日、男は家族とともに断捨離を行っていた。
お高いもの、お安いもの、上品なもの、下品なもの、色々出てくる。
全部捨てるのはどうかと思って妻にそう告げると、
「もったいないと思う心を捨てるのが大事なの!」
とにべもない。
男にとって若いころの思い出の品もあるのが、ゴミと断じられ捨てられてしまう。
結婚当時から比べ見る影もない妻をため息とともに眺めながら、この妻も生意気で男の言うことなどちっとも聞かない息子も捨ててしまいたいと思った。
そこで天啓としかいいようがないものが、男を落雷のように打ち据える。
もったいないと思う自分自身を捨ててしまえばいいんじゃないか。
ものや家族を捨てるのではない。自分で自分を捨ててしまえばいい。
煙草を吸おうしたが指が震えて、落としてしまう。煙草がフローリングの床を転がる。妻がずんぐりした指でそれをつまみ上げて、男に突きつける。
「もう、散らかさないでよね!」
「あ、ああ」
ちょっと煙草を買ってくるよ、小さくそう言い残して男は家族の前から姿を消した。
街で風狂の体で襤褸をまとって痩せ細った男が見受けられるようになった。垢染みて髭も剃らず、皮膚病にでもかかったのか頬の一部は赤く爛れている。
家も家族も仕事も全て捨ててみたら、そこには狂おしいほどの圧倒的な自由があった。無限に思える可能性にむせるほどだった。
男はホームレスに哀れみの目を向ける。
家を、家族を、仕事を捨てるということは新しい可能性であるのだ。それを前の生活に固執してその可能性に気づきもせずせこせこ生きているだけの者たち。
風吹かば吹け。
雨降れば触れ。
やりようは幾らでもある。
それを段ボールで家などつくってなんとせせこましい。家を捨てて新しい可能性が生まれたというのに、家のイミテーションをつくってしがみついてなんになると言うのか。
男は大笑して歩いていくと、犬の糞を踏んだ。男はそれを拾い上げ、ためらわず口に運ぶ。くっちゃくっちゃとゆっくり租借して、糞の苦味をとっくりと味わう。
その様を見ていた通行人が唖然したり、慌てて目をそらしたりしているが男は気にしない。
托鉢である。
僧は菜食主義ではない。本来なら托鉢で得られたものしか食べてはいけない。それも明らかに僧のために調理されたものは受け取っていけない。
代わりに、托鉢で得たものは米であろうが肉であろうが、有り難くいただく。
だから、男は犬の糞であっても有り難くいただく。
己の尿で乾きを癒し、己の糞で餓えを満たす。
もちろんそれで無事でいられる訳もなく下痢をするが、その下痢便すら食らう。
道に落ちているものはなんでも食う。
汚れていても腐っていても、食う。
何度か警察の世話にもなった。
最初は家族だった妻が泣きながら身柄引き受けにきて、元に戻ってくれと懇願された。
それも数回だった。
会社を首になり、離婚が成立してからは誰も男に関わろうとしない。
警察も男を保護しようとしない。
誰も身柄引き受けにこないのは明らかだから、下手に保護すると面倒なことになる。だから男がなにか犯罪をそれも説諭で済むような軽犯罪ではなく、刑務所にぶちこんでおける犯罪を犯すまでは無視している。
対して男はかけらの惨めさも感じていなかった。
家、家族、仕事を断捨離しただけでこれだけ爽快なのだから、命も断捨離したらどれだけ愉快だろうと考えている。
しかし、その方法がわからない。
安直に自殺するのは違うだろうと、ぎらぎらした目で思っている。
彷徨する男は地蔵を見つける。学校を囲むフェンスの端に無造作に置かれた地蔵は真新しく、地蔵にしてはやけに顔の彫りが深い。
なぜかシュークリームがお供えしてあった。
男の顔が厭らしい笑みの形に歪む。
雨で濡れそれが乾いたせいでかちかちになって青い黴でまだらになったシュークリームを口に運ぶ。
やけに赤い舌が延びて、口の回りのクリームを舐めとっていく。
男は自分の尿で地蔵を洗い清めながら、般若心経を唱える。
知っているのはそれしかなかった。
それにしてもなぜみなあんなでたらめなお経を唱えているのだろう。
正しくはこうだと言うのに。
「薩菩自在観 蜜波多若般深多時行」
男の狂った読経は続いていく。
「即是空色 是即色空」
「おい、お前!」
学校の教師らしいジャージ姿の中年男が男に声をかけた。
男は答えない。狂った読経に没入してしまっている。
「その気味の悪いのをやめろ、やめるんだ!」
中年男が勤める学校では、その生徒が何人も亡くなる惨事があった。そのせいで不審者には過敏になっていた。
それだけではなくて、いますぐこれを止めさせないと大変なことになる。
なにかとても忌まわしい大変なことになる。
その考えが中年教師の頭に降ってくる。
気がついたら、男を殴り倒していた。
男は枯れ木のように倒れ動かなくなった。それでも口からは
「空…即……」
読経が漏れ続けていた。
中年教師は殴り倒してから正気に戻って怖くなったのか、周囲をきょろきょろ見渡して誰にも見られていないことを確認して足早に去っていった。
暗くなってから、男はよろよろと立ち上がる。
新月で空に月の姿はなく。ひたすらに暗黒であった。
頭を強く打ったせいなのか、腹が減った、それしか考えられない。
覚束ない足取りでさ迷う男は、ゴミ捨て場に不法投棄されているガスレンジを見つける。
レンジから五徳を取り、逆さにして頭に被る。
その瞬間、男の体が落雷を受けたように激しく痙攣して、右手は天を、左手は地を指す。
天上天下唯我独尊。
右手が指し示すのは、黒に丸で表される大暗黒神。
左手が指し示すのは餓鬼道の辺獄。
餓えて辛いだの苦しいだの感じるからいけないのだ、それを突き抜けてただ餓え一色に満たされればそこに仏性が生じ、餓鬼仏となる。
逆さに被った五徳は頭と融合して角になり、下腹は飢餓に教われた子どものように膨らみ、その顔はただ餓えに満たされて。
男はにたっと厭らしく笑った。
その後、男の姿を見たものはいない。