第1話
世の中無情なもので、社会人三年目半ば二十一歳にして二宮誠一郎は退職を決意した。
理由は、会社の経営不振による勤務していた工場の閉鎖。工業高校を卒業し、学校の斡旋で紹介された工場の設備保全の仕事だった。保全とは、わかりやすい言葉で言えばメンテナンス作業だ。設備の状態をより良い状態に保つことや設備が破損した時などに修繕することが主な仕事。学校で習った知識は現場で役に立つとは限らない、そんな中でも、それなりに楽しく、誠実にやってきた仕事だった。
「はぁ……」
二宮は一人社員寮の自室のベッドで横になり天井を仰ぎながらため息をつく。地方の工業高校から今の工場の寮へと入って行っていたこの仕事。蓄えは多少あるが、寮からも出なければならないというプレッシャーが余計に胃に悪い。
しかし、決まってしまったものは仕方がない。忙しく、時にはきつい職場ではあったが上司はとてもよくしてくれた。その上司もまた退職だ。とはいっても、彼は技術も実績もあるからすぐに次の就職先は見つかるだろう。
では、自分はどうだろう。まだ年は若い。きっとなんとかなる、そう思いたい。しかし、やはり、焦りは強い。地元に戻ったところで、同じような職種にありつけるかといえばその線はかなり薄い。この工業が盛んな地域でも工場が次々と閉鎖するような不景気だ。片田舎に戻ったところで、すでに就職の口は閉ざされていると考えるのが普通だろう。とにかく、今自分がやらなければならないのは、社員寮がある同じような職場探し。条件は難しいかもしれないが、行動するしかない。
朝からやることがないという状態が数日続いていた。最初のうちこそ遊び放題、くつろぎ放題と自由を満喫していた。寮を出ていかないといけないとはいっても、会社の都合で職を失ったことから、会社側としてもある程度の期間は寮をそのまま維持しておくということになった。その間に新居を見つけるなり、他の会社へ行くなり、実家に帰るなりをしてくれという話だ。ゆえに、余裕があった。
自由を満喫すること数日経ち、今に至る。意外にやることがない。
となると、必然的に
「よっしゃ! そろそろ職探しに行くか!」
ということになる。二宮誠一郎は外出の準備をして部屋を飛び出した。
季節は夏が通り過ぎ、秋半ば。年内には寮を出なければいけない。ある程度の貯蓄はあるため、賃貸物件を借りるというのも手なのだが、まだ職歴も浅い身であることから転職先で十分に生活できるような賃金がもらえるかもわからない。できることならやはり社員寮があるか、もしくは、一定額の補助が出るようなところが望ましい。
不安と反対に、期待もあった。
新しい職場で新しい出会いがあるかもしれない。いい上司と巡り合えるだろうか。今までの上司は厳しいところもあったが熱心に仕事を教えてくれ、本当に自分のことを思ってくれている理想のオヤジのみたいな存在だった。
今回の退職後についても「同じような業界ならお前なら絶対やっていける」「もし困ったら俺に相談しろ」と色々と声をかけてくれていた。
といっても、上司は妻子持ちで、退職という状態に追い込まれているのだから、いくらできる上司といえども、今回のことであまり頼りすぎることはできない。感謝の思いを告げつつ、お互いに落ち着いたら飲みにでも行きましょうと言っておいた。
「俺、頑張ります」
そんな思いを胸に、誠一郎は職探しを開始した。
しかし、意外にも思ったようにことは進まなかった。
これは、誠一郎に責任があったわけではない。ある意味当たり前。世の中無情だということ。理由は、不景気。不景気で、真っ先に影響を受ける業界に製造業があげられる。とにかく物が売れない、それは民衆に買う力がないから。その煽りをくらう業界の一つが製造業なのだ。
誠一郎は製造業の中でも上流工程にあたる鉄鋼関係の業界の工場に勤めていた。ゆえに、新しい就職先も同じような業界の工場に入りたいと思っていた。そうすれば、入社した後も、これまで積み上げたノウハウであったり技術であったりを活かせると考えたからだ。つまり、採用試験などもパスしやすい。そう考えてのことだった。
けれども、いくら誠一郎に才能があろうが、経験があろうが、そもそも求人がない。求人がないのなら、どれだけ有能で有望な人材であろうと、無意味。需要がないのだから、そもそも供給する必要がないという状態。この現実に直面するとつらい。どうしようかと職業安定所の人に相談を持ち掛けてみるも、
「んー、そうだねぇ~別の職種探してみるのがいいかもねぇ~」
担当者は無責任なものだ。こちらがいくら必死になっていても結局は他人事。中には真摯に相談にのってくれる人もいるのかもしれないが、今、誠一郎の目の前にいる初老の白髪交じりの男はダメ。
「自分もそう考えたんですけど、やっぱり、これまで何年か働いたノウハウを活かしたいなと思いまして……」
そう言う誠一郎に、担当者の男は、ん~と唸るばかり。
「でもねぇ~ないものはないからねぇ~」
相談というより、単に報告しただけだ。これでは何も変わらない。
かといって、求人がない訳ではない。職業安定所のコンピュータを使って検索をしてみると、自分の年齢が若いこともあってか、数多くの求人情報は出るには出る。
しかし、どれも、いまいちパッと来ない。何より、寮があるところがほとんどない。寮を持つほどの企業となってくると数が限られてくるし、工場といったような大勢の人が働くような環境を持っている会社でないと寮はなかなか持っていないことが多い。不景気の煽りか、そういう企業はどこも求人を出していない。
つまり、いつの間にか誠一郎は追い詰められていたのだ。
選ぶ立場ではない、選ばれる立場にある。それも、選んでくれる人がほとんどいない。
けれども、誠一郎は、すぐに心折れることはなかった。まだ時間はある。諦めることはない。それに、自分には曲がりなりにも二年以上勤めたという経験はあるのだし、自己都合の退職でもない。求人さえ見つかれば何とかなるに違いない。そう自分を奮い立たせた。
求人情報が更新される日には必ず誠一郎は職業安定所に通う。相当熱心に活動をしている。
けれども、世界の理を覆すことはできない。
職員に何度か相談してみるものの、やはり製造業関係は軒並み人員削減を進めているようで、どこも例外ではない。もうしばらくしたら求人も出てくると思うんだけど、とは言われるものの、そのもうしばらくというのがいつかということは当然ながらだれにもわからない。
そうこうしているうちに、退寮期限まで残り三日。面接までどうにかこぎつけた会社の最終面接の結果が今日ようやく返ってきたのだが、結果は、お祈り。この一つを決めてどうにか寮から引っ越しをしようと考えていた誠一郎は絶望に飲まれる。
これはまずい、どうにかしないとまずい。頭を抱えて、しかし、行く先は職業安定所しかない。
いつも以上に必死に求人情報を検索する。もうこれでなければ、職種を変えるしかないだろう。やむを得ない。工業高校卒業というメリットはほとんどなくなってしまうし、これまで培ってきた経験もなくなってしまう。
けれども、背に腹は代えられない。一旦食つなぐ職を見つけておかなければ、どうにもならなくなる。それならば、適当に、食いつなげる職を探すしかない、そういう思いでコンピュータを操作する。検索結果は、一件のみ該当。
『急募。生産ラインの設備保全。社員寮完備。正社員雇用』
タイトルにはそう書いてある。もうこれでいいんじゃないかと思った。いや、これこそが天職だとさえ感じた。何か、強烈な刺激を受けたのである。引き込まれるような、どうしてもこれに応募しなければいけないような、意味不明で強烈な刺激。何故だかは分からないが、頭がそうしろと命令してくる。しかし、冷静になって、さらに内容をしっかり見てみる。
「えっと、なになに……。初心者でも歓迎。週休二日制。場合により休日出勤、残業あり……か」
少し気になるが、工場のラインは大体が止めることのできない作業だ。となれば、その保全をする以上、多少の休日出勤や残業は覚悟しておくのは仕方がないことだ。何より、異様に魅かれる。ここで働く以外に自分が生きる意味はないとさえ思えてくる。
誠一郎は本能に従うことにした。求人票を印刷し、職員に相談してみると、全く話し合いもなしに、どうぞどうぞと紹介状をもらった。
それからのことは──
──実のところ、誠一郎には記憶がない。
自分の足で行ったような気もするし、いつの間にかついていた気もする。気を失っていた、というよりは、泥酔状態に近いような感覚だったことはわずかに記憶に残っている。どこをどう行ったのか、どのようにしてそこにたどり着いたのか、全く見当がつかない。
しかし、誠一郎は、今、およそ西洋の城と思われるような建物の中に居た。はっと意識が戻ったかのような感覚に襲われ、あたりをきょろきょろ見渡す。ロビーだろうか、豪華なシャンデリアが頭上にあり、それに相応しい広さの大広間。ヨーロッパにでも来てしまったのだろうか。就職先はヨーロッパだっただろうか。ヨーロッパは何語だろう。ヨーロッパ語? 馬鹿なことを考えつつも、状況が全く飲みこめない。あたふたとしていると、後ろからぽんぽんと肩を叩かれる。
「あっ、召喚──ちが、えーっと、そうそう求人票見てうちに来てくれた子だよね?」
振り向いた先には、人形──? 違う、動いている。背丈は低く、百五十センチあるかどうか、透き通るような白い肌にそれを上回る白さ、輝きを持つ銀髪の少女がいた。その容姿から思わず見惚れて動けなくなってしまいそうだ。
「はい。えっと、こちらの方ですか……?」
とりあえず返答する。確かに、自分は求人票を見て、その後の記憶は定かではないが、その会社に応募したくて来たはずだ。それを聞くと、目の前の少女はにっこりと微笑む。
少女は、この華麗な場にはおよそ相応しくない、そして、彼女自身の妖艶さや儚げな顔とも全く一致しない服装をしていた。それは、作業着。誠一郎が職を失う前に着ていたような、地味でだぼだぼでだけど機能性は抜群で作業のしやすさにかけては右に出るものはない、作業着という服。
「そうそう~。私はカティ・キッティラ。カティが名前、キッティラが苗字ね。よろしく、えっと──」
「初めまして、二宮誠一郎です。お世話になります、よろしくお願いします」
社会人の本能的に、あいさつを返す。本能的に返したが、言葉が通じていることに少し驚く。日本の方なのだろうか。
しかし、目の前の少女は、まるでビスクドールのように透き通った美しさ。せっかく綺麗で汚れの一切ない長い銀髪がポニーテールにまとめられ作業服の内側に入れられていることは、この会社にとってとんでもない損失であるというように思えるほど、日本人離れした外見だ。とても日本人とは思えない。いや、人かさえあやしい。
まじまじとカティを見下ろす誠一郎のその視線を気にも留めず、カティは続ける。
「二宮誠一郎。せいちゃんね! よろしく~」
すべてを許してくれそうな満面の笑みは、外見と全く正反対の、陽気、という印象を与える。
誠一郎は、はい、と返答しつつも、いやまてよ、と思った。おかしい。流されて挨拶まで終えてしまったが、なんだか、おかしくないだろうか。この建物といい、目の前の少女といい。一体自分はどこの世界に紛れ込んでしまったというのだろう。きっと、この目の前の少女はその答えを知っている。本能的にそう感じた。自分に対して、さも当たり前のように対応をしてきていることがその動かぬ証拠だろう。
「あ、あの、キッティラさん──」
発音しにくい。
「ん? あ、ああ~。うん、職場はあっち。今案内するからついてきて。仕事内容とか今後のスケジュールはそこで話すから」
ううん、どうにも、とりあえず移動した方がいいのだろうか。流れに逆らえないあたり、日本人らしいと言えよう。仕方なく、とりあえず、案内されるがままに、誠一郎はその後ろについていく。
ポニーテールに隠れる透き通った白いうなじを眼下に、てくてくと歩くカティの後ろを、カルガモの子供のようについていく誠一郎。
その様子は、まさに新入社員そのものといっていい。