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いつまで

作者: いえやす

 『いつまで放って置くんだ』


 背後から知らない誰かの声がした。

 自宅の和室で押し入れに向かっているときで完全に油断していた。

 びっくりして声のした方に、ベランダに出てみたが、誰もいない。

 いるはずがない。

 当たり前だ。ここはマンションの11階なのだから。

 良く晴れた4月初めの朝。

 ベランダには心地よい風が吹いていた。

 どこか頭の上の方を、ばさばさと鳥が飛んでいくような羽音が聞こえる。

 カラスだったのだろうか。鳴き声を聞き間違えたのだろうか。


 「どうしたんですか?あなた?朝ご飯できてますよ」


 妻の和子がキッチンから俺を呼んでいた。急がなければ。


 「ああ。今行くよ」


 部屋の中に戻り、開け放たれた押入れを前に考え込んだ。

 パズルのように隙間無く詰めこまれた収納物にうんざりとする。

 果たしていったいどこから切り崩していけばいいものか。


 「どうしたんですか? あなた」


 痺れを切らした和子が俺の様子を見に来た。

 和子の中では一日のスケジュールが決まっている。

 特に忙しい朝は全てが分単位、秒単位で進行している。

 そしてその予定が上手く回らなくなると、とたんに機嫌が悪くなるのだ。

 俺は慌てて弁解した。


 「いやさ、実は昨日カバンが壊れて。

 今日は古いのを使おうと思ったんだけど」


 「もう。あなたったら。

 押し入れの中を勝手に荒らさないでって何度も言ってるでしょう?

 そういうことは昨日の内に言っておいてくださいよ。

 私が探しますから先に朝食食べてて下さい」


 追い払われるように行ったキッチンでは、一人息子の歩が先に朝食を食べていた。


 「おはようございます。お父さん」


 多少ぎこちなく舌足らずな口調ながらしっかりと挨拶をしてくる。

 小学校受験のため、和子が歩に敬語を使うようにしつけているのだが。

 正直、実の息子から丁寧に話しかけられるのは、なにやら気持ちが悪い。

 歩自身は覚えたての言葉を使うのが面白いのか、窮屈そうな感じではないのだが。


 「おはよう。塾はどんな感じだ? 大変じゃないか? 」


 「ううん。楽しいですよ。お父さん」


 嬉しそうに笑う。

 勉強が楽しいなんていったい誰に似たのか。


 「はい。あなた。これでしょ」


 戻ってきた和子が茶革のカバンを差し出した。


 「ああ、ありがとう。よく見つけられたな」


 本気でそう思った。

 押し入れを開けたときのあの物の量。

 あの中からこんな短時間で見つけられるなんて。


 「そりゃそうですよ。

 季節ごと、毎回苦労して収納してるんですから。

 何度もいいますけどあそこを開けるときには一言言ってくださいね。

 ……歩、お代わりは?」


 「大丈夫です」


 「じゃあ、早く歯を磨いてらっしゃい。遅れないようにね」


 「ハーイ」


 「ハイは伸ばさないの」


 すかさず和子が注意する。

 しかしその手は淀み無く動き、俺と歩、二人分の弁当をきっちり作っていた。


 「今日も遅いんですか?」


 「そうだな。とりあえず月中まではこの調子かな?」


 「そう……。

 実は、昨日の夜はあなた遅かったから言わなかったんだけど、お昼に三澤さんから電話があったのよ」


 和子は言いにくそうに切り出した。

 三澤というのは、俺の母の姉にあたる人、俺の叔母だった。

 母といっても、俺が中学の頃に家を出た人で、血の繋がりはあるものの、俺の中ではすでに他人だ。

 そのためか母方の親類である三澤とも折り合いは悪い。

 だいたい平日の昼間に家に電話して、会社勤めの俺がいるはずもないのに。


 「三澤さんが? 何の用だったんだ?」


 「それが、お義母さまから連絡がきてないかって」


 「来てる訳ないだろう」


 「怒らないでよ。

 あちらにもずいぶん長い間連絡が無いんですって」


 「知るか。親父の葬式にも来なかったんだから」


 「そんなこと言って……。

 三澤さん、お義母さまが住んでいたアパートに行ってみたんですってよ。

 そしたらもうずっと前に、引越ししていたって」


 「そうか……。

 最後に会ったのは、そうだなあ、親父がまだ生きていたころだったから、もう七年も前になるかなあ」


 「もうそんなになるかしら?」


 「ああ、親父の家にいた頃で、歩が生まれる前だ。お前もあの時いただろう?」


 「ああ、あのとき。

 あれから連絡ないんですか?」


 「ここに引越ししたことは、一応手紙を出しておいたんだがな」


 「そう。だったら心配ね」


 「別に。もう関係無いよ」


 母は一種の病気だった。

 若いころは美人と評判だった母。

 いつも生々しい騒動が絶えず、結局は家を出ていくことになってしまった。

 それでも亡父は未練があったのだろう。母が出ていった後も後妻をとることをしなかった。

 しかし、俺の方は違っていた。

 ときおり思い出したように息子に会いに来たという名目で、父から金を引き出していく母のことがどうしても好きになれなかった。


 「お母さん、用意できましたよ」


 歩が幼稚園の制服に着替えて、キッチンに入ってきた。


 「歩、お前、いつのまに一人で着替えも準備もできるようになったんだ? 偉いぞ」


 頭をなでてやると歩はうれし恥ずかしそうにうつむいた。

 

 「やだ。そんな子供じゃあないわよねえ? 歩。

 ……じゃあ、あなた。戸締まりお願いしますね」


 和子は両手にゴミ袋を抱えて玄関に向かった。

 マンションの隣りの公園前が、幼稚園の送迎バスの待ち合わせ場所になっている。


 「ああ、いってらっしゃい。歩も、気を付けてな」


 「いってきます。お父さん」


 いつもの通りの朝、いつもと変わらぬ幸福な朝だった。





 マンションを出るとき、入口で管理人さんと会ってしまった。

 悪い人ではないが、話好きな初老の女性で急いでいる朝には会いたくない人だ。


 「おはようございます」


 「おはようございます。宮沢さん。すっかり温かくなりましたね」


 管理人さんは掃除の手を止めて挨拶を返してきた。

 

 「そういえば、宮沢さんとこの奥さんとおぼっちゃん、北野医院でしたかしら?」


 早速話題を振ってこられた。無視する訳にもいかない。


 「そうですよ」


 「あそこの院長さん。昨日お亡くなりになったんですよ」

 

 「そうなんですか……。

 そう言えば、あの近くにお住まいでしたよね?」


 「告別式もあるってことですよ」


 出席しろということなのだろうか。面倒なことだ。


 「実はウチは途中で病院を変えたんです。

 息子が産まれてすぐ。

 駅前に新しい病院が出きたでしょう?

 そっちに移ったんですよ」


 「あら、余計なこと言っちゃいましたかねえ。

 あそこの先生、ホントに良い人だったんですけどねえ」


 「いえ、先生が良くなかったって訳じゃなくて……。

 まあ、ちょっと心配になったっていうのがあるんですけど……」


 俺が言葉を濁すと察したように管理人さんが続けた。


 「もしかして、ちょうどあの火事の頃でした?」


 「そうなんです。

 そういうことで、あの病院にはあまりいい印象が無いんですよね」


 「ごめんなさいね。変なこと思い出させて。

 でもかばう訳じゃないですけど、あそこの先生はホントに良い先生でしたよ。

 あたしも子供もずっとお世話になってて。

 でもやっぱり古い病院でしたからねえ。

 その気になれば変な人でも誰でも入ってこれたかしらねえ。

 あの時まで何もなかったのが不思議なくらいで。

 今時はマンションだってそうでしょう?

 セキュリティのしっかりしたところでないと、安心して住めないじゃないですか。ここみたいに。

 そういえば、あのときの犯人もまだ捕まってないみたいですよねえ。

 でも、ホントに嫌な世の中になったもんですよ。

 病院に放火だなんて。その隙に赤ちゃんを誘拐だなんて。

 あたしが若いときには考えられなかったですよ。ホントに」



 その夜久しぶりに母の夢を見た。

 昼間、母と火事という2つのキーワードを聞いたせいだ。

 北野医院での火事と俺の母、この2つは俺の中まだつながっている。

 和子には内緒にしていたが、父の死後、俺は一度だけ母と会っていた。

 あれはちょうど歩が生まれた日。

 予定日より早い出産で、俺は単身赴任先だった。

 連絡を受け、一旦マンションに戻り病院に行こうとしていた時、突然母がやって来た。


 「……なにしに来たはないでしょう?

 お焼香に来たのよ。お父さんの」


 父が亡くなったのは半年以上も前だ。

 葬式にも来なかったくせに。いまさら。

 父の葬式から続く、引越し、出産、それに単身赴任のせいで、当時の負担はかなり大きく、俺には余裕が無かった。

 母は相変わらず派手な下品な装いで、この平和な新築マンションとはまったくそぐわない。

 俺は濃い化粧の匂いが真新しい清潔な玄関に染み込んでいくような気がして耐えられなかった。

 この女が自分の母親だなんて。


 「なんて言っていいのかわからないんだけど……」


 こちらの機嫌を伺うようにへらへら笑っていながら母は言った。

 その様子を見て俺は、母がまた金をせびりに来たのだと直感した。

 亡くなった父の代わりにこの俺から。

 内心かっとなったが、まさか殴りつける訳にも行かない。

 怒りを押さえ、しかたなくいくばくかの現金を用意して、玄関先で封筒を押し付けた。


 「これで用はすんだろ? 早く帰れよ」


 「そんなつもりじゃ……。

 あんた、子供できたんだって?」


 「……だれから聞いたんだよ?」


 「なによ。おめでとうくらい言わせてよ。いつ頃生まれるの?」


 「……」


 今朝生まれたばかりだと言えなかった。言いたくなかった。


 「教えてくれないの?

 でも、病院は北野さんのところなんでしょう?

 あそこの近くで見たのよ。和子さんを」


 どきっとした。

 弱みを握られたような。大切に隠していたものを探られたような。

 俺はきっと嫌な顔をしていたと思う。

 それを見て母の目が細まった。

 年のせいか薄くなってきた光彩に、ねっとりとした光が宿るのが見える。

 俺が密かに恐れていた目だった。


 「あたしはあんたの母親なのよ! 生まれてくる子はあたしの孫なのに!」


 母のいきなりの大声に、俺はうろたえ反射的に怒鳴っていた。


 「うるさい。もうあんたには関係ない!

 帰ってくれ。早く帰ってくれ」


 「……」


 初めてだった。母に対して大きな声を出すのは。

 母も驚いて口を開けたまま黙った。

 そしてなにも言わず萎れたように玄関を出ていく母の背中を見ながら、俺は後悔した。

 なんでもっと上手くやらなかったのだろう。

 それは母がかわいそうだからという思いで無かった。

 母はこのマンションのことも、和子が北野医院に通院していることも知っている。

 その気になれば俺がいないときいつでも会いに来れるのだ。

 わざわざ心配の種を作るような真似をしてしまったような気がした。

 それから一週間して北野医院で火事があった。

 和子と歩は退院した後で、単身赴任先に戻っていた俺はそれを聞いたとき母の目を思い出した。

 あの時母が見せた目。

 幼いころ俺の恐怖の対象だった目。

 自分の思い通りに行かないとヒステリックに叫びだすときの母の目。

 父との喧嘩の中で、台所から包丁を持ち出したときの母の目。

 ある一点を超えるとなにをしでかすかわからなかった母。

 もしかしてあの火事は……。

 あの母ならやりかねない。

 そう思えてならなかった。

 それを裏付けるかのように、あの日以後母とは連絡が取れていない。

 その後俺はときどき悪夢に悩まされるようになった。

 誰もいない深夜の病院。

 火を見つめる母。

 泣き叫ぶ赤ん坊たち。

 赤く燃え上がる炎。

 嫌な悪夢だった。


 

 


 バタバタバタ……。


 まただ。

 今朝もまたあの声が聞こえた。

 急いでベランダに出て辺りを見まわしたがななにも見えない。

 そしてやはり遠くなっていく羽音だけが残っていた。

 ……こんなに視界がいいのに。気のせいなのだろうか。

 あの声。

 男とも女ともつかない。年寄りのような、若いような。

 でももし、本当に鳥が喋っているんだとしたらインコかオウムの類なのだろうか。

 俺は、どこからか逃げ出したカラフルな鳥がベランダにいる光景を想像してみた。

 違う。なにか違う感じがする。

 いつも窓に背を向けているので実際に鳥の姿は見ていない。

 でもそんな小さな鳥ではないような気がする。

 もっとずっと大きな、羽を広げると俺が飲み込まれそうなくらいの大きな黒い羽の鳥……。

 ばかな、そんな鳥、いる訳が無い。


 「どうしたの、あなた?

 この間から、ベランダに出てばかりいて」


 和子が心配そうに声をかけてきた。


 「いや、なんだか、カラスでもいたような気がして」


 「カラス?嫌だ。この辺りにはいないって聞いていたのに。

 これからは気を付けなくちゃ。

 あなたも窓に開けっ放しにしないようにして下さいね」


 「そうだな。

 ……ああ、そういえば北野病院の先生、亡くなったらしいぞ」


 「管理人さんが言ってたわね。いい先生だったけどね」


 「そうか? あまり覚えていないなあ。

 年寄りの先生で、大丈夫かこの人と思ったくらいだ」


 「腕は確かだったわね。ここら辺りでは評判だったし。

 あんな事さえなければねえ」


 「あの火事のときは一人で大変だったな。偉い騒ぎだったんだろ?」


 「私だって退院したばかりでずっと家にいたから。

 全然気が付かなかったのよ。

 このマンションからは遠いじゃない。あの病院は。

 翌朝テレビで見て初めて知ったのよね」


 「まあ、お前と歩が退院した後だったっていうのは運がよかったな。

 でも、まだ見つかってないんだろ。連れ去られた赤ん坊。

 もし死んでるなら死体だけでも出てきた方が、諦めも付くのになあ」


 「酷いこと言うわね。

 何年立ってもやっぱり生きているって信じたいものじゃない?

 あの人達の気持ちを考えると」


 「知ってる人だったのか?」


 「そりゃあ、同じ時期に同じ病院で子供を生んだんだから少しは話もしたわよ。

 確か、ご夫婦とも弁護士さんで」


 「そうなんだ。親が金持ちだっていうのを知ってて誘拐したのかもなあ。

 それにしちゃ身の代金の要求も無いみたいだし……。

 歩も大きくなったとはいってもまだまだ保護が必要な年なんだからなあ。

 気を付けないといけないなあ」


 「いまさら遅いわよ」


 仕事にかこつけて、歩の教育も安全もすっかり和子に押し付けてしまっている。

 愉快でない不妊治療を経て、結婚7年目にしてようやく授かった待望の男の子。

 和子の計画では本来なら2年目で、二十代の内に子供を一人作っておくはずだった。

 だから妊娠がわかったときは本当に二人して涙を流して喜んだ。

 それから出産までだって平坦な道のりではなかった。

 流産しかかったこともあったし。

 医者からは生まれてくる子に障害が残るかもしれないと脅され、本気で悩んだ。

 でも、和子は生むことを主張し、歩は立派に育ってくれている。

 父の死後、このマンションの購入を望んだのも和子だ。

 妊娠中だったにも関わらず有名な私立小学校に入学するため、その沿線に引っ越した。

 俺は落ち着いてからの方がいいのではと何度も和子に注意したのだが、生んでしまったら当分そんな時間は無くなるからと、予定日を目の前にして引っ越しをしたのだった。

 この家の主人として情けない気もするが、和子の計画に間違いは無いみたいだった。

 このマンションの購入も。歩の教育にしても。





 「カラスですかあ?」


 管理人さんは信じられないようだった。


 「見たんですか?」


 「いや、見た訳じゃないんですよ。

 ベランダに大きな鳥がいたような気がして。

 カラスかなあと思って」


 「そうですか……。

 でもこの辺りにはカラスは出ないはずなんですよねえ。

 カラスは高い木や鉄塔に巣を作ってそこを中心に二百メートルくらいの縄張りから動かないんですよ。

 ここはほら、近くに森も鉄塔もないでしょう?

 カラスは来ないはずなんですけどねえ」


 「ずいぶんお詳しいんですね」


 決して侮っていた訳ではないが、この初老の女性の以外な一面に驚いた。


 「いえね、全部主人の受け売りなんですけどね」


 「ご主人さんの?」


 「ええ、主人は長年保健所に勤務してましてね。

 今は引退して、カラスとか鳩とか、ああいった街暮らしの鳥のことを趣味で研究してるんです。

 ホントになにが楽しいのか、

 毎朝夜が明ける前からいそいそ出かけていってますけど」


 「はあ、そうなんですか。

 でもうらやましい。お好きなことに熱中できるなんて」


 「まあ、これまでずっとまじめに働いてきてもらったし。

 なんでも好きにさせてあげたいとは思ってるんですけどねえ。

 でも家の中までカラスの死骸なんかもちこまれちゃあ、ホントにたまったものじゃあないですよ」


 管理人さんは眉を顰めてはいたが、それでも口元は笑っていた。





 何日経った日の夕方、マンションの入口で声をかけられた。

 夕方の光の加減か、丁寧に化粧をして上品な着物を着た婦人が誰なのか、最初はわからなかった。


 「いやだあ。わかりません? あたしですよ」


 「ああ、管理人さんでしたか。すいません気が付きませんで」


 慌てて頭さげる。

 管理人さんの隣りには、仕立ての良いスーツを着た同じくらいの年齢の男性がいた。


 「こちら主人です。こちら宮沢さん」


 「いつも家内がお世話になっております」


 見たところずいぶん知的な感じのする人だった。


 「いえ、こちらこそ、お世話になってます」


 「今日はこの先にある知り会いの夕食に招かれてましてね。

 それで……あ! ちょっと待ってて。あなた。

 井上さんがいる。部屋の灯りが点いてるわ。

 2日前から荷物あずかっててなかなか渡せてなかったのよ。

 ちょっと行って荷物だけ渡してくるから。

 ホントにちょっと待ってて、お願い」


 ご主人の返事も聞かず、言うが早いか、管理人室の鍵を開けて着物姿のまま荷物を取り出すと、管理人さんは一目散にエレベーターに乗って行った。

 後には管理人さんのご主人と俺が二人残されたが、じゃあ、と言って立ち去るのも具合が悪く、俺は井上に成り代わり彼に頭を下げた。


 「すみません。時間外にお仕事をさせてしまって」


 「いえいえ、あれの好きにさせて下さい。

 家内は人の世話を焼くのが好きなんです。

 子供たちももう皆独立してしまって、世話を焼く相手が欲しいもんだから、ここで働かせてもらってるんですよ」


 管理人さんはすぐには戻ってきそうになかった。


 「そういえば、奥さんから聞いたんですが、ご主人さんはカラスの研究をなさってらっしゃるんですか?」


 「研究なんていう立派なものじゃなくて、単にじっくり観察しているだけなんです。

 現役の時はそりゃあアイツらに泣かされたもんですけど、よくよく見てみると、意外と可愛いところもあるんですよ」


 「自分の好きな事だけに時間を使えるなんて本当にうらやましいですねえ。

 ……あ、それで一つお伺いしたいことが有るんですが」


 「なんでしょう?私にわかることでしたら」


 「カラスは喋りますか?」


 「はっ?喋る?カラスが?人間の言葉をですか?」


 馬鹿なことを聞いてしまっただろうか。

 沈黙つぶしの会話のネタにしてもとっぴすぎるし。


 「すいません。変なことを言ってしまいましたね」


 「ああ、いいえ。そんなことは無いですよ。

 カラスは声帯も発達してますから、聞き間違えることもあると思いますよ。

 ああ、そういえば家内が言ってましたね。カラスを見られた住人の方がいらっしゃったって」


 「はい、私です。

 でも見た訳じゃないんです。大きな羽音と、それと、人の声のようなもの聞きまして」


 「ほう、なんと言ってましたか、アイツらは?」


 「ええっと、『いつまで、放っておくんだ』とか……」


 それまでにこやかだった彼の顔からすうっと色が覚めるように笑顔がなくなった。


 「今なんとおっしゃいました?」


 なにかまずいことを言ってしまったのだろうか?


 「いえ、あの、多分、聞き間違いなんで……」


 「いつまで、と、その鳥は言ってんですか?」


 「え、ええ、そう聞こえたんです」


 「そうですか……」


 彼はなにかを考える顔になった。

 どうしたんだろうと不安に思っていると、エントランスの自動扉が開き管理人さんが戻ってきた。


 「あなた、お待たせしました。

 ああ、宮沢さん、主人の相手させてしまってホントにすいませんでした。

 さあ、いきましょう。

 どうしたんですか?あなた?」


 彼は我に返ったように自分の妻を見た。


 「ああ、そうだな。いや、失礼しました、宮沢さん」


 お互い軽く礼をした。そのままオートロックの操作をしようと俺は二人に背を向けた。

 その背中にもう一度彼が声をかけてきた。


 「失礼ですが、宮沢さん。ご両親は?」


 「両親ですか?父はもう亡くなっています」


 「お母様は?」


 「母は、……母は、もともといません」


 「ああ、すいません。とんだことをお聞きしてしまいました。

 失礼な質問続きで申しわけないですが、お父様のご供養はもうお済みで?」


 「もちろんです」


 「そうですか。そうですよねえ

 ……いや、本当に失礼しました。

 立ち入ったことをお聞きして、申し訳ないです」


 「いえ、父の供養がどうかしましたか?」


 「ちょっと馬鹿なことを思い出してしまいまして。

 いや、なんでもないんです。忘れて下さい。今のことは。それでは」


 謎めいた言葉を残して、彼は去っていった。





 それからもあの鳥はたびたびやってきた。

 正体を見極めようと窓を見ているときはなぜか絶対にやってこない。

 どんなに急いで振り返っても影すらみえない。

 いつも残るばさばさという羽音。そしてあの声。

 あの鳥の目的はいったいなんなんだろうか。

 声をかけてくるばかりでそれ以上はなにもしようとしてこない。

 なぜ、俺の前だけにしか現れないのか。

 和子はまったく気づいていない様子だった。

 そしてその点が、このことを俺が他人に相談することをためらう理由でもあった。

 もしかしたら、あの声は俺だけにしか聞こえていないのかもしれない。

 いや、実際はまったく声なんか聞こえないのかもしれない。

 俺の耳が、頭がおかしくなっているのかもしれない。

 そう思いはじめると恐くて誰にもずっと相談出来なかった。

 いろいろ悩んだ末に、そうだ隠しカメラを仕掛けてみようと思いついた。

 結婚前に使っていたビデオカメラを押し入れから見つけ出し、操作の仕方を思い出しながら、空きのテープを物色している最中。

 思わぬ画像に再会した。

 ……こんな所に残っていたなんて。

 俺はカメラに付いている小さな画面に見入った。

 画面の中では、生まれたばかりの歩が和子に抱かれている。

 本当に生まれてすぐの時で、病院のベッドで撮影したものだ。

 この時期の、生まれた頃の歩のビデオテープはもう無いものと思っていた。

 あれほど用心深い和子のほとんど唯一の失敗。

 撮影器材の鞄をマンションの玄関先にうっかり置き忘れていたところ、ちょっと目を離した隙に、全部持って行かれてしまったという。

 器材自体は新しいものを買うことが出来るが、既に撮っていたテープも持っていかれた。あれを盗られたのが痛かった。

 ……こんな所に残っていたなんて。

 あの時、そういえば一回だけ間違えて古いカメラを持っていったことがあった。

 自分でもすっかりそのことを忘れていたが。

 カメラの中に残っていた画像はほんの5分くらいのものだったが、本当にうれしくなるような映像だった。

 夢中になって何度も再生していると、ふと背後に人の気配を感じた。


 「どうしたの、これ?」


 和子が立っていた。

 和子は、荷物を出しっぱなしにしていた押し入れを見て青い顔をしていた。


 「ああ、和子。見ろよ、こんなところに残ってたぞ。

 少しだけだけど、ほら、お前も見てみろよ」


 喜んでくれると思い、笑いながら言った。

 しかし和子は青い顔のまま叫んだ。


 「そんなこと聞いてない。これはどこから出したの?」


 「えっ? ああ、押し入れから……」


 「……あなたって人はいつもそう。

 あれほど勝手に触らないでって言ってるのに、どうしてわかってくれないの?」


 なぜか和子は涙を流し始めた。


 「おい、おい、どうしたんだ、泣くことないじゃないか、悪かったよ。もう勝手に押し入れ開けたりしないから。

 でもほら見ろよ。歩が」


 「都合の悪いときだけ歩のことを持ち出さないで!

 歩、歩って、あの子のことなんにもわかってない癖に!

 私がどれだけ苦労してるか知らない癖に!」


 「……そんな言い方はないだろう」


 俺の方もむっときて黙り込んだ。

 和子は肩を震わせていつまでも泣いていた。さっぱり訳がわからなかった。





 「宮沢さん、こんばんは」


 「ああ、これは、どうもこんばんは」


 視線を上げると見た顔があった。

 管理人さんのご主人だ。

 そういえば管理人さんの名字はなんというのだろうか。

 何と呼びかけたらいいのかわからない。


 「どうしたんですか?こんな所で」


 俺は帰宅途中マンション隣りの公園のベンチに座っていた。

 気が付くともうすっかり辺りは暗くなっている。


 「もうこんな時間でしたか。

 ちょっと考え事をしていまして」


 「どうかされたんですか?」


 彼は隣りに座ってきた。

 なんでもありませんとそう言おうと思ったが思い直した。


 「あの、実は少し悩んでいまして。

 よかったら話を聞いてもらえませんか?」


 「私でご相談に乗れますか? 」


 「実は些細なことから妻とケンカしてしまいましてね。

 ちょっと悩んでいたんです。妻の気持ちが分からなくて」


 俺は昨夜の顛末を話して聞かせた。


 「それで、私には妻の気持ちがどうしても理解できないんです。

 普通は無くなった写真が見つかったらよろこんでくれるものでしょう?」


 「うーん。そうですねえ。

 もしかしたら奥さんは毎日の家事で疲れてらっしゃるのかもしれないですねえ。

 でも、あまり深刻に考えることはないと思います。

 まあ、言ってはなんですが、良くあることでしょう。

 とにかくあなたの方は悩まずに笑って謝っておけば大丈夫だと思いますよ。

 笑っていれば深刻なことも小さなことになりますからねえ」


 「そんなものでしょうか?

 だといいんですけど。

 ……まったく管理人さんのご夫婦がうらやましいですよ。

 お互いのことをよく理解してらっしゃって」


 「……そう思いますか? 」


 「どういう意味ですか? 」


 「本当にうらやましいですか? わたしたち夫婦が」


 「……はい。だってとても仲の良いご夫婦で」


 「仲はいいですよ。それに先程おっしゃられていたように。

 お互いのことをよく理解しているというのも間違ってはいません。ただ……」


 「ただ? 」


 「宮沢さんは、なぜ私が退職しても家にあまりいなかったり、家内は管理人で外に働きに出ていると思いますか? 」


 「……? 」


 「いつも一緒にいないことで、お互いの嫌なところを出来るだけ見ないようにしているんですよ。

 たぶん私たち夫婦はお互いのことを理解しすぎているのかもしれませんね。

 理解しているからこそお互いの弱点も良く知っているし、お互いの行動も生活もわかっている。

 だからどうすればお互いの嫌な部分を見なくて済むかもわかっているんです。

 実は私たち夫婦は家ではほとんど会話は無いんですよ」


 「そんな」


 あのおしゃべりな人が。


 「本当です。でもだからといって仲が悪いという訳ではないんですよ。

 どんなに良く見えても、悪く見えても家族というのは端で見ている分には本当のところはなにもわかりません。

 どんな家族であれ、良いところもあれば悪いところもある。みんなそうなんですよ。

 夫婦を長く続けていくには、そういう良い部分も悪い部分も同じように受け止める、清濁併せ呑むということが必要なんだと思いますよ。私は。

 訳のわからないことも、理不尽なことでも、その理由や原因を全部追求する必要はないんです。

 家族の間では。ただそういうことだと受け止めればいいんだと思います。

 ……ああ、すみません。えらそうに説教なんかしてしまいました」


「いえ、本当にありがとうございます。だいぶ気持ちが楽になってきました。

 ……そういえば、先日、両親の供養っていうのはなにか意味があったんでしょうか? 」


 とたんにそれまで流暢だった彼の言葉が止んだ。


 「あの鳥のこととなにか関係があったのかなあ、と思って」


 「まだ、来るんですか? その鳥は」


 「いえ、もう来ません。やはり気のせいだったんでしょう。多分」


 俺は嘘を付いた。本当のことをいうと彼がそれ以上喋ってくれない気がした。


 「そうですか。そうでしょうね。

 いえ、あなたの話を聞いて思い出したのは、カラスのことではないんです」


 「では、なんだったんですか?」


 「……いつまで」


 「いつまで?」


 「そう、以津真天、です。ああ、こんな字を書きます。

 鳥じゃありません。妖怪なんです。

 なんのことはない。私はあなたに馬鹿な話をしてしまったんですよ。

 もう忘れて下さい」


 「妖怪、ですか?」


 「そうです。なんでも血の繋がった人が亡くなった後いつまでも供養されないでいると、『いつまで放っておくんだ』と、残された親族のところに言いにくる鳥のような妖怪だそうです」






 またあの夢を見そうだった。あの赤い悪夢を。

 管理人さんのご主人の話を聞いて最初に思ったのは、母のことだった。

 行方のわからない母。

 もしかしたら、母はどこかで亡くなっているのかもしれない。

 それをあの鳥が伝えに来てくれているのかもしれない。

 ……馬鹿馬鹿しい。なにを真に受けているんだ。妖怪だぞ。妖怪。

 でも、もしあの話が本当なら、母は既に死んでいて、しかもその死体が見つかっていないことになる。

 母が事故や病気で死ぬことがあってもおかしくはないが、それだったら死体は発見されているはず。

 どこかで死んでまだ発見されていないというのは、つまり事故なんかではなく、例えば、どこか誰もいないところで覚悟の上で、自殺をしたとか……。

 いったい何を考えているんだ、俺は。

 しかし消そうと思っても頭の中に鮮やかな妄想が浮かんでくる。妄想が繋がっていく。

 真っ赤に燃え盛る火。

 その火の中、赤ん坊をしっかり抱えて走る女。

 赤く照らし出される女の顔は、母だ。

 そして自殺してまだ見つかっていない母の死体。その足元に赤ん坊の死体。

 母が俺の子だと信じて盗んだ赤ん坊の死体。

 ……そんなこと、ある訳が無い。





 ここ最近家の中の歯車はあまり上手く回っていない。

 夕食の時も、いつもは歩を中心に会話が転がっていくのだが。

 いかんせん、和子は押し入れの一件をまだ根に持っているようだった。

 俺は俺で、母のことに囚われていた。

 テレビの声だけが流れる食卓に、歩もさすがになにかを感じたらしい。

 食後一緒に風呂に入ったとき、おそるおそる俺に尋ねてきた。


 「ねえ、お父さんとお母さんはケンカしてるの?」


 その切羽詰ったような声を聞いて、俺は自分を取り戻した。

 歩は歩なりに何かを感じ取って、自分に出来る範囲で家族をなんとかしようとしている。

 それなのに、まったく俺は何をやっているんだろうか。

 俺は自分が歩くらいの年だったときのことを思い出した。

 すでに家族はめちゃくちゃだったが、俺はそれを馬鹿な母や無力な父のせいにして、自分からはなにもしてこなかった。

 家族に背を向けたのは自分も同じなのに。

 そしてまた俺は同じことをしようとしてるのではないか。


 「ごめんな、お父さんが片づけが下手で、お母さん怒っちゃたんだよ。

 でも大丈夫。すぐ仲直りするから」


 それを聞いた歩は安心して全身でホッと息をした。

 本当に良い子だ。

 まだ6歳だというのに家族のことを心配したり、受験勉強を文句も言わずにこなしている。

 俺には出来過ぎた息子だ。

 俺にはこの子を守る義務がある。この家族を守る義務が。

 母が例え火事や誘拐の犯人であったとしても、俺はこの家族を守っていかなければ行けないのだ。

 どんな理不尽なことでも、訳のわからないことでも。

 俺は全てを受け入れ、この家族を守っていかなければ。

 そう覚悟を固めていた。





 母から突然電話があったのは、4月最後の日曜日の午後だった。


 「どうしてこれまで連絡しなかったんだよ」


 電話を取ったのは俺だった。

 和子はリビングで歩の勉強を見ている。


 「ごめんね。突然電話して」


 母の声はこんなだっただろうか。

 こんなに落ち着いて喋る人だっただろうか。


 「もう、7年も経つからいいかなと思って電話してみたんだけど」


 「心配したんだぞ。引越ししたんなら連絡先くらい教えろよ」


 俺は内心ほっとしていた。

 同時にここ最近思いつめていたことが、急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 もしかしたら、和子ではなく俺の方こそ疲れているのかもしれない。


 「実はね。今だから言うけど。お父さんが亡くなる前、約束させられたのよ。あんたに内緒でね」


 初耳だった。


 「お父さん、あんたのこと心配しててね、『俺が死んだらお前に金を融通してやる奴はいなくなるだろうけど、あいつにだけは迷惑をかけてくれるな。あいつには子供もできるんだからって』って。

 もうあんたに会わないことを約束させられたのよ。

 ……あたしもびっくりした。

 あの人がそんなこと考えていたなんて、思っても見なかった。

 だけどそれも仕方ないね。

父さんが亡くなった後、それでも一度だけあんたに会いにいったわね。

 覚えてる?

 まさかそこまで嫌われてはいないだろう期待してたんだけど、甘かったわね。

 お父さんの言ったとおりだった。

 これまで嫌な思いさせてゴメンね。

 でも安心して、もうあんたに迷惑かけるようなことは決してしないから」


 母は自分が今いる場所を告げた。

 病院だった。俺も名前を聞いたことのある病院だ。

 たしか末期癌患者の終末医療で有名なホスピスとして。


 「あんたにはもう連絡しないつもりだったんだけど、看護婦さんにどうしてもって連絡先を聞かれてねえ。

 もし、あたしが死んだら連絡がいくかも知れないけど、そういうことだから」


 「……見舞いにいくよ」


 なんと答えたらいいか迷っている内に、自然にそう言っていた。


 「いいわよ。大丈夫だから」


 母は笑っていた。乾いた笑いだった。


 「どうしてだよ。それに孫の顔だってまだ見ていないだろう?」


 「……見たわよ」


 「え?」


 「……神様っているのかもね。

 あたしが前住んでいたアパートの近くで、ほら北野さんのところで、火事があったでしょう?

 野次馬で見に行っていたら、ちょうど和子さんと会ったのよ。

 赤ちゃんをしっかり大事そうに抱えてね。

 あたしはそのときすっぴんだったから和子さんは気が付かなかったみたいだけど。

 しばらく赤ちゃんの隣りで並んで火事を見たわ。

 ……名前はなんてつけたの、あの子?」


 「歩だよ。息子だ」


 「そう、良い名前ね」


 母はそれ以上なにも言わずに電話を切った。




 電話が終わった後、俺は混乱していた。どうしていいかわからず。

 母が、あの母が死のうとしている。

 そんな自分を和子や歩に見られたくなくて和室に隠れた。

 その時、背後で羽音が聞こえた。ばさばさと。

 こんな時にと、舌打ちが出る。

 どうせ声だけの幻。


 『いつまで、放っておくんだ』


 こんな言葉になんの意味もない。

 だって、母は生きていたんだから。今は生きているんだから。

 しかし、この日はそれだけでは終わらなかった。


 『……おとうさん』


 もう一言、消えるような小さな声で付け加えられた。

 もしかしたらこれまでにもその言葉は続けられていたのかもしれない。

 俺が聞き取れていなかっただけで。

 振り返ったがいつものようになんの影も無く、ただ遠くに飛び去って行く羽音がかすかに聞こえるだけだった。


 バサバサバサ……。


 おとうさん。

 そう。確かにあの鳥はそう言った。俺のことをお父さんと。

 なぜ、あの鳥は俺のことをお父さんと呼んだのか。

 俺のことをそう呼べるのは歩一人のはずなのに。

 不意に赤い妄想がまた湧き上がってきた。

 なにを考えている。俺は、いったいなにを考えようとしているんだ。

 さっきの母の話の中で感じた違和感。

 火事を見ている二人の女。

 一人は母で。もう一人は和子。赤ん坊をしっかり抱えた和子。

 ……和子は、北野医院で火事があったとき、わざわざ見に行っていた。

 生まれたばかりの赤ん坊を連れて。あんな遠くまで。

 家にいて知らなかったと言ってたはずなのに。

 赤い妄想がどんどん繋がっていく。

 真っ赤に燃え盛る火。

 赤ん坊をしっかり抱えた女。

 照らし出される女の顔は母ではなく、和子の顔になっていた。

 急に目の前の現実感が無くなり、足元がふらついた。

 立っていられなくって、押し入れの前に座り込んだ。身体が思うように動かなかった。

 でも反対に、頭の中ではぐるぐるといろんな言葉が回り出している。

 ものすごい勢いで。ぐるぐると。


 『お父さん』、『血の繋がった肉親』、『死んで供養されていない』

 『開けてはいけない押し入れ』、『誘拐された赤ん坊』

 『弁護士の両親』、『お父さん』

 『いつまで』、『いつまで放っておくんだ』

 『押入れの近くにいるときだけ来る鳥』、『俺にだけ見える鳥』

 『無くなった映像』、『出てきた映像』

 『青ざめる和子』、『歩』


 ああ、歩が授かったとき、どれだけ喜んだことだろう。

 和子も俺もは嬉し涙が止まらなかった。

 そして将来障害が出てくるかもしれないと医者に言われたときのあの絶望。

 でも、生むと和子は言ってくれた。

 全ては和子の計画どおりに。


 『計画』、『和子の計画』


 キッチンで歩を抱きながらあやす和子は本当に今も幸せそうで。

 ああ、なにを考えているんだ。歩はもう小学校に行くんじゃないか。


 『いつまで放っておくんだ。おとうさん』


 ……なあ、和子。

 お前は歩を愛しているよな。

 俺達二人の子供を愛しているよな。

 例えその子に将来なにかの障害が起こる可能性が高かったとしても、愛してくれるよな。

 なあ。

 他の優秀な親の子どもと取り替えたりなんて、していないよな。

 なあ。

 俺達の本当の子を殺して押し入れのどこかに隠しているなんてことはないよな。

 なあ。

 どんな家族にも秘密はありますよ、と最近だれかに言われたことを思い出す。

 だけど。だけど。

 リビングから和子と歩が、和子とあの子が楽しそうに話しているのが聞こえる。

 俺は一人押し入れの前にしゃがみこんでいる。

 父は死んだ。母も死のうとしている。そして俺の息子は。

 ……疲れているんだ。きっと。

 だからこんなとんでもないことを思い付くんだ。そうに決まっている。

 窓から見える春の空は雲ひとつ無い青空で、和室には暖かな日差しが溢れていた。

 でも寒い。なぜか寒い。何でこんなに寒いんだろう。

 手がぶるぶると震えている。どうしようもない。

 その震える手を押さえて、俺は押し入れを開けようとした。

 でも、どうしても開けられなかった。

 どうしても、開けられなかった。





 年明けに亡くなった母のことで受験の時期はいろいろ忙しかったが、歩は頑張って第一志望の小学校に見事合格してくれた。

 和子も一生懸命家事に教育に頑張ってくれている。

 俺は相変わらず仕事が忙しい。

 そして今日も鳥は鳴いている。

 俺の背中で鳥は鳴き続けている。

 いつまでも。いつまでも。


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― 新着の感想 ―
[良い点] とても面白かったです。元ネタの妖怪を知ってたおかげでオチは早い段階で推測する事が出来たのですが、まさか開けないという選択をするとは思わず、意外であると同時に思わず納得してしまいました。作者…
[一言] いったん,調和的終局に向かうと見せて,くるりと話がひっくりかえるストーリー展開を楽しませていただきました.しかも,仰々しい破局には至らず,たぶんこのまま,あいまいな状況がいつまでも続くだろう…
[一言] 拝読させて頂きました。話の流れが巧妙で……すばらしいです。 「いつまで」の話は知っていましたが、それがこんなすごい話になるとは……羨ましい技術です。 鳥は、いつまで鳴き続けるんでしょうかね……
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