掃除夫と白ねずみ
ちょっち暗めの話です。
延々と続く長い廊下が、すこしずつ綺麗になっていく。
掃除夫のイツキは、仕事の手を休め、息をついた。
(……ほんと広いよな、この薬学研究所)
なんとなく誇らしい気分になって、イツキはひたいの汗をぬぐう。
自分には、薬について、なんの知識も権利もない。十八歳の青年がになうのは、誰にでもできる廊下の掃除、それだけだ。それでも『人の命を救う』場で働けるのが嬉しくて、イツキは一人ではにかんだ。
と、目の前の研究室から、幾人かの話し声が聞こえてきた。
『まいったな、まだ熟しきっていないのか。こいつは成育が遅いなあ』
『これではとうてい使えんな、世話係はどこにいるんだ?』
『それがあいにく昨日から、急な病で休んでまして……』
何の話だ?
不思議に思った掃除夫が、扉の前で首をかしげる。と、ふいに目の前の戸が開いて、中の人間が顔を出した。
イツキと目が合ったとたんに、先頭にいた壮年の男が、嬉しげに顔を輝かせた。
「ああ、ちょうどいい! なあ君、今日から十日ほど、この子を預かってくれないか?」
男は言いざま、部屋の中から白い子供をひき出した。イツキは思わず目をみはった。
白い肌、白い髪、水晶のように澄んだ瞳。目の前にいる女の子は、さながら雪に人格を与えたようだった。
見た目は六つくらいの少女は、イツキを見上げ、声もなく柔らかに笑ってみせた。
「……この子、名前は」
「名前? 名なんてないよ。じゃあ、君、今日から十日間、この子の遊び相手になってくれ。のどが渇いた様子を見せたら、そのつど水を与えてくれ。じゃ、よろしく」
男はそれだけ言い終えると、とりまきを連れて去って行った。取り残された掃除夫は、あっけにとられて少女と顔を見合わせた。
「……なんだってんだ、一体」
イツキは、ぼやきながらも少女を連れて、上司に報告しにいった。上司はイツキの話を聞くと、ひどくおざなりにうなずいた。
「ああ、それじゃあ言われたとおり、その子の面倒をみておくれ。なあに、仕事なら大丈夫、君の代わりはいくらもいるさ」
ひどくあっさり受け流され、イツキは黙って頭を下げた。少女を連れての帰り道、ぼんやり淡く考えた。
(この子は一体何のために、研究所にいたんだろう?)
しばしぼんやり考えた後、イツキは思考をあきらめた。自分の頭が、深くものを考えられる上等な代物でないことは、自分が何より知っている。
「……そうだ、そんなことよりも、君に名前をつけようか。そうだな、君は肌も、髪も、瞳もぜんぶ白いから……『おから』っていう名前でどう?」
『豆腐のしぼりかす』という意味の名を与えられ、少女は黙って笑ってみせた。
イツキが何かにおから、という名をつけるのは、これが初めてのことではない。イツキが昔、評判のよくない孤児院に暮らしていた時も、おからという子を飼っていた。
その時のおからは、院に巣くったねずみの子だった。突然変異なのだろう、白く美しい姿をしていた。イツキがもらった残飯の残飯をえさとして、イツキによくなついていた。いつの間にかいなくなったが、猫にでも食われてしまったろうか。
そこまで考えて、(げんが悪いかな)とイツキは思い直したが、他に名を思いつけなかった。
「よろしく、おから」
あらためて名を呼んでみると、少女は静かに小首をかしげて、嬉しそうにはにかんだ。
おからとの蜜月が始まった。少女は可愛く、あどけなく、一言も言葉を発さぬままに、目に見えて美しく育っていった。十日目の朝を迎えた時、少女は十歳くらいの姿に成長していた。
(この子は、一体何なんだろう?)
考えかけた青年は、ふたたび思考をあきらめた。考えてみても、分からない。それよりおからと別れなければならないことが、イツキにとってはもっとずっと深刻だった。
手をつないで研究所へと向かう途中、おからは何も知らぬげに、甘く柔らかく笑っていた。
研究所についておからを見せると、壮年の男は嬉しそうに手を広げた。
「おお、ずいぶん育ったな! ありがとう君、これなら十分使えるよ。後でちゃんとお礼はする、助かったよ、ありがとう」
男はおからの手を引いて、部屋の奥へと連れてゆく。ふいにイツキが声を上げ、男とおからを引きとめた。
「あのっ! ……この子を、これからどうするんです?」
男はなんでもない事のように、歌う口ぶりで言葉を返した。
「ああ。さばくんだ」
「……『さばく』?」
「ああ。さばいて、刻んで、蒸留水で煮るんだよ。そうしたらその上ずみが、薬のもとになるんだよ」
言葉を失った掃除夫に、壮年の男のとりまきたちが、呆れたように口を開く。
「信じられんな。お前まさか、ここにつとめてて『淡雪草』を知らんのか?」
「あのね、万病に効く薬になる、人型の植物があるでしょう? あれが淡雪草なのよ、淡雪草が、この子なの、分かる?」
知っている。淡雪草の事ならば、どこかで聞いた覚えはある。けれど、『知っている』事と、『分かる』事とは別なのだ。
「……分かりません。この子は、生きてるんですよ? こんなに元気に、生きて、笑ってるんですよ? それを今から殺すんですか!?」
「馬鹿だな、お前、この子はただの植物だ!」
「植物だって何だって、この子はちゃんと生きてます!!」
十八の掃除夫の激情に、研究者たちが息をのむ。イツキはおからの手をとって、自分の胸に抱きよせた。
ぼくは馬鹿だ。この人たちからしてみれば、ほとんど虫けらみたいなものだ。けれど、馬鹿だから分かる事もある。
「……研究のためなら、何をしてもいいんですか? 人の命を救うためなら、その万倍の殺しをしてもいいんですか!?」
壮年の男が、深く長く息をついた。あわれむような、さげすむような目をしながら、疲れた口調で吐き捨てた。
「もういい。その子を連れて、ここから出て行け。もう二度とここへは戻ってくるな」
イツキは黙って頭を下げて、おからの手を引いて背を向けた。壮年の男の吐き出すようなつぶやきが、耳の奥底へ焼きついた。
「なあに、代わりはいくらでもいるさ」
青年は、穏やかに沈んだ気持ちを引きずって、おからの手を引いて家路をたどる。
分かっているのだ。さっきの自分の行動は、何の解決にもならないと。
(きっと今も、今この時も、おからのような小さい子が、刻まれて薬にされている)
でも、今は、手の中のぬくもりが愛しくて。それが全てで、それでいい。
「ゆっくり、ゆっくり、変えていこう。君と二人で、ここから声を上げていこう。『間違ってる』って。『おかしい』って。変えていけるよ、ね? おから」
甘えた希望を口にして、イツキがおからの頭を撫でる。
あたたかな雪の花のように、おからがふんわり、笑ってみせた。 (了)