子猫ちゃんと名前
委員の人が見えなくなったところで、書記の人がくるりと私に向き直り、生徒会館の玄関扉を開けてくれた。
「お先にどうぞ?子猫ちゃん。」
「……ありがとうございます。」
鳥肌がたつので、子猫ちゃん呼びをやめていただきたいんですが…。
書記の人…四十万谷先輩は、女子を子猫ちゃん呼びしても失笑されない、副会長や会長と並んで見劣りしないくらいの美形だ。副会長や会長とはまた方向性が違うし、アイドルのような扱いを受けるあの二人に対し、四十万谷先輩は派手だけど、もっと身近で親しみやすい存在だ。
はっきり言ってチャラいのだ。
整った華やかな容姿は常に飄々とした笑みを浮かべ、ピアスや着崩した制服が、良くも悪くもルーズそうな本人の空気にすごくはまっている。軽薄な雰囲気を裏切らない女好きで、複数の女子を文字通り侍らせているのを見たことがある。
これで料理が上手いといわれると、どうしても女の子を落とすための手段のように感じてしまう。
単純に本人の趣味なのかもしれないけれど。
苦手なタイプだ。副会長は怖いが四十万谷先輩は苦手だ。
お礼だけ言ってさっさと別れてしまおう。
「……あの…さっきは助けていただいてありがとうございました。あの場で生徒会に用事があるといっても信じてもらえないと思って…。」
「おやすい御用だよ~。子猫ちゃんの名前はなんて言うの?ここに用事があるなら俺が案内したげるよ?」
それではここで失礼しますという前に、名前を尋ねられてしまった。
案内なんて必要ないし、出来れば名前も言いたくないんだけど…。
失礼にならないように上手く断るための言葉を探していたら、階段の方からペンネがやってきた。
「ペンネ!」
私が呼びかけると、ペンネはにゃおんと鳴いて、まっすぐ私の足元までやってきた。
書記の人!子猫ちゃんとは彼のことですよ!
ユキヒョウらしいですけど…。
ペンネが大きくしゃがんで、私の胸元までジャンプしたので慌てて抱きとめた。
すごい跳躍力だ。でもネコ科の動物は助走なしでも、平気でとんでもない高さをジャンプするらしいしね。
私に抱きとめられたペンネをみて、ちょっとびっくりした顔で書記の人がつぶやいた。
「あれ?斎の使い魔?本当に生徒会に用事があったの?」
「……え?信じてないのに助けて下さったんですか?」
「うん。女の子が困ってたら、たいてい助けるよ~?」
にっこり言われて愕然とした。
私が変な勘違いをした生徒会のファンだったりしたら、どうするつもりだったのだろう…?
まぁ生徒会の方が強いのでどうとでもなるだろうけど、それでも迷惑を被るだろうに…。
私がトチ狂ったファンかもしれないと思われていたと思うと悲しいが、今回は助けてもらったのだし、余計なことは言わないでおこう。
私は助かったけれど、状況的にはあの委員の人が全面的に正しかったのだから。
「…そうですか。案内はこの子にお願いするので大丈夫です。…お気遣いありがとうございます。」
「おやすい御用だよ~。で、子猫ちゃんの名前は?」
子猫ちゃんやめてほしい。あと、そんなに覗き込んでこないでほしい。
段々私との距離が近くなってきている。
そんなにペンネに興味があるのだろうか?
「この子はペンネです。」
一瞬きょとんとした書記の人は、すぐに朗らかな笑顔でさらに距離を詰めてきた。
こんなにも下心のようなものが垣間見えるのに、いやらしさのない笑顔なんて珍しい。
「あはは、面白いなぁ!僕が興味があるのは君だよ、可愛い子猫ちゃん。」
視線が完全に私の方を向いていた。
近いので離れてほしい。副会長でだいぶ耐性がついてきたけど、至近距離の美形の迫力は竦んでしまうのだ。この人も肉食獣系の雰囲気がするし。
そして私が出会った生徒会の人みんな、対人関係が物理的に近いんですけど、どうなってるんですか?
「……中原です。」
「中原…なにちゃん?」
「……中原と呼んでください。」
名前…言いたくない……。
覚えられたくないし。
「可愛い子猫ちゃんには、名前聞くようにしてるんだ。」
じゃあ可愛くないので名字でいいです、と言ってみたいが言える度胸はない。どうせ、さらにめんどくさいことになる気がする。
「…美耶子です。」
「美耶子ちゃんね。可愛い名前だね、美耶子ちゃん?」
親戚でもないのに初対面で異性の名前呼びかぁ……。今、不快感が表情に出てないといいなぁ…。
「…申し訳ありません。名字で呼んでいただけますか?」
「なんで?可愛い名前じゃんか、美耶子って。コンプレックスでもあるの?」
興味深そうな顔で尋ねてくる。
「…いえ。……親しくもない相手から、いきなり名前で呼ばれるの嫌いなだけです。」
「仲良くなるためにまずは名前呼びから入らない?」
「入りません。呼ぶのはいいですが、呼ばれるのは嫌です。どうぞ、名前以外でお好きに呼んでください。」
私の、一切含みのない本音だ。
親しくもない人に、許可もとらずに名前呼びされて、それを許容するほど私は寛容ではないのだ。
むしろ私は自分の名前は大切にしてる。だから仲良くなった人にしか、名前で呼んでほしくない。
これは私の勝手な価値観なので、親しみを求める人からしたら、感じが悪く感じるかもしれないとわかっているのだけれど、譲りたくないところなのだ。
私と書記の人の間に流れる、一種の緊張をはらんだ空気を打ち破るように、階段の方からよく通る声が降ってきた。
「何をしている、美耶子。」
心臓が飛び出るかと思った。
副会長が、階段から下りてくるところだった。
ペンネは私の腕からするりとぬけだして、さっさと副会長の足元に駆け寄った。
逃げたね、ペンネさん!
絶対、副会長の視線に耐えきれなかったからだ!一人だけ上手く副会長の視界から外れたな!!
ずるいよ子猫ちゃん…。ちゃっかりしてるペンネもとっても可愛いですね、くっ…!
副会長は、書記の人と私を睥睨しながら、不機嫌な口調で言い放った。
「なぜ、お前が美耶子と一緒にいるんだ。遅いからペンネを迎えにやったのに、戻ってこないから、わざわざ俺が来たんだぞ。」
「あれ?この子の用事って斎なの?」
「あ、遅くなってすみませんでした!」
不機嫌な副会長に対し、マイペースな書記の人と、とりあえず謝罪から入る私がとても対照的だ。
「子猫ちゃんが遅れたのは俺のせいだから、責めないであげて。」
マイペースなまま、私のフォローをしてくれた。
私が嫌がったからか、ちゃんと名前ではなく子猫ちゃんと呼んでくれた。
多分、大勢の女の子とひとくくりの呼称だろうし、「その他ちゃん」と意訳しておこう。
「…いえ、私の方こそ御迷惑をおかけしてすみませんでした。改めてありがとうございました。」
書記の人にきちんとお礼を言って頭を下げる。
勝手に苦手と決めつけて申し訳なかったな…。ちょっとマイペースすぎるだけで、女の子が本気で嫌がることはしない人なんだ。
「気にしないで。可愛い子猫ちゃんと仲良くなるのは俺の趣味だからね。これはさっきのお詫び、じゃあね~!」
書記の人が、ぱっと目の前に手のひらを出してきたので、そこに注目する。
ぐっと握りこんだ拳から、淡い魔法発動の光が一瞬漏れたかと思うと、ぱっと手を開いたときには、灰色の花が一輪ふわりと浮いていた。まるで手品のようだ。
それをぽとりと私に落とし、さりげなくさっき受け取った委員会の書類を、副会長に押し付けて去って行った。
すごい…。一瞬で副会長に書類丸投げした…!!
副会長がさらに不機嫌になった顔で、書類をぱらぱらめくりつつ階段を上って行ってしまったので、慌てて追いかける。
前を歩く副会長の背中を見つめながら、さきほどの出来事を考える。
副会長に、名前を呼ばれた。
書記の人に名前を呼ばれた時、顔に出ないか心配したぐらい、はっきりと不快感を感じた。
じゃあ副会長に呼ばれた時は…?
…さほど、嫌じゃなかった…。
むしろ、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
学園で私を美耶子と呼ぶのは、親友の由紀だけだ。他の友達からはみんな中ちゃんとか中っちなど、名字で呼ばれている。
お昼を一緒に食べたり、たまに遊びに行くメンバーになら美耶子と呼ばれてもいい気がする。
つまり私の中で、その友達と同じぐらいのポジションに副会長がいるってことかな。
そもそもなぜ副会長は、いきなり名前で呼んできたんだろう…?
昨日までは副会長からは、お前か中原と呼ばれていたはずだ。
しかも書記の人に名前呼びしてほしくないと言った直後だった。
ん?その場にはペンネもいた。そしてペンネは副会長とリンクしている。
つまり副会長は、私と書記の人のやり取りを聞いていたはずでは…?
ということは私が嫌がると思って呼んだの?
「―――ら…、中原!」
「え?ふぉっ!?は、はい!」
考え事に集中しすぎて、足を止めてしまっていたようだ。
副会長の声にハッと前を見ると、思っていたより副会長との距離が開いていた。
慌てて小走りで追いつく。
「すみません。考え事をしていました。」
「……さっさと歩け。また誰かに捕まると面倒だ。」
その通りなので、さっさと勉強室に向かった。
私は手の中の花を、落とさないようにそっと握りなおし、今度は遅れないように副会長についていった。
けれど、私の中ではまださっきの出来事がぐるぐると回り続けていた。