音楽室に、彼と行く
ランチタイムが終わり、歯みがきをすると、私は彼に言う。
「音楽室までついて来てくれないかな?」
「音楽室? 今から? どうしたんだ?」
爽やかな香りのする彼の口。
思わず惹かれそうになり、危ない、危ないと自制する。
「あのね、楽譜を取りに来なさいって言われているの」
「楽譜? 何の?」
「えっと、今度の授業で使うらしくて」
私は両手を合わせると、彼に頼みこむ。
「一緒に行ってくれない? あの、先生が嫌いとかじゃなくて、その」
「何だよ。はっきり言えよ」
彼の顔が険しくなったので、喧嘩でもしているのかと、周りがちらちら見てくる。
私は皆に見せないように、腕を振ると、顔を近づけ、正直に告白する。
「音楽室に1人で行くのが嫌なのよ!!」
「何で? 何もないだろう?」
「あるのよ。その…音楽家の顔が怖いというか…」
「音楽家? …ああ、壁に貼られた肖像画か」
「そう!! その通り!! モーツァルトとか、バッハとか、その笑い声とかが聞こえてきそうで、怖いというか…」
「お前、意外と怖がりだもんな」
彼がくっくと笑う。
機嫌を良くしているようだが、私は逆に少し怒り気味だった。
せっかく人が告白したのにと、頰を膨らませる。
「分かったわよ!! 1人で行くわよ!!」
「悪い。笑うところじゃなかったな。分かった、一緒に行ってやる」
彼は席から立ち上がると、私の手を握ってくる。
その途端、私は安堵の息を吐く。
皆の前で恥ずかしいというよりは、彼が一緒に行ってくれるなら安心だとそちらのほうが大きかった。
「よし行くぞ」
彼が私を引っ張る形で歩き出す。
廊下には歯みがきをしている人や、ロッカーに用がある人で賑やかだった。
彼らをすり抜けると、私と彼は早足で廊下を進む。
音楽室は2階にあり、近づくにつれて、人気がなくなっていく。
私はごくりと唾液を飲み込む。
すでに何らかの恐怖を感じ、身体がこわばり始めていた。
大丈夫、大丈夫。彼がいるんだから。
繋ぐ手に力を込めると、彼が振り返って言ってくる。
「安心しろ。何か出て来ても、俺が守るから」
「うん。ありがとう」
ライオンの言葉に、うさぎは安心し、ほっとする。
彼だけ視界にいれるように歩くと、彼が立ち止まった。
どうやら音楽室についたらしい。
「開けるぞ? いいか?」
私は顔を強張らせたが、彼が力強いうなずいてきたので、うなずき返す。
怖がりなのだが、負けず嫌いでもあった。
彼が音楽室のドアを開け、中に入る。
引っ張られる形で、私も後に続く。
ぎゅっと目を瞑っていたが、彼が身体から力をぬくのが分かった。
「何もないぞ。教室よりも、穏やかかもしれない」
「え…」
びっくりして目を開けば、音楽室は彼の言う通り、陽がさしており、爽やかな印象だった。
まるでひだまりのベッドのようだと思い、私は恐る恐る壁を見つめる。
壁に貼られた肖像画を見、どきりとする。
「目が動いた…!! 口も動いた…!!」
「は? …何でもないぞ。よく見てみろ」
彼に言われ、私はゆっくりと肖像画を見る。
唇を噛み締めながら、恐怖と格闘していると、確かに肖像画は何ともなかった。
なーんだ。
私はほっとしたのだが、次の瞬間、悲鳴を上げる。
「キャー!!」
音楽準備室から何かが出で来たのである。
怖くてその場に座り込むと、彼の身体に緊張が走るのが分かった。
しかし、すぐに安堵したような声で言う。
「先生」
「せ、先生…?」
私が思わず顔を上げると、先生はびっくりしたようだった。
「どうした? 悲鳴なんかあげて?」
先生の穏やかな声。
ぽっちゃりした先生で、身体で音楽を表情するような、感受性豊かな人だった。
「よ、良かった…」
私は安堵し、よろよろと立ち上がる。
ここは俺に任せろとばかりに、彼が前に出る。
「先生、楽譜を取りに来たんだけど」
「楽譜? …ああ。ちょっと待ちなさい」
音楽準備室に戻ったので、私はその隙に呼吸を整える。
それからスカートを直すと、先生がやって来た。
「はい、これ。次の時間までにマスターするように」
「ありがとうございます」
私は冷静を繕い、先生から楽譜を受け取る。
先生は時計を確認すると、言ってくる。
「早く行きなさい。準備が始まる」
「はい。ありがとうございました」
「ありがとう、先生」
私と彼は礼を言うと、音楽室を後にする。
「あー、良かった」
相変わらず、廊下は静かで、私の声が響いたが、用件が済んだ後なので、徐々にリラックスしていく。
それが彼にも伝わったらしく、
「大丈夫だっただろう?」
背中をぽんぽんと叩かれる。
私はにこりと笑うと、少し背伸びして、彼の頬にキスをする。
「あの、お礼だから…」
早口で言うと、彼は少し頰を赤くする。
誰もいないからできることだからねと、思いつつ、彼に話しかける。
「急いで教室に戻ろう」
「お、おう。 競争しようぜ」
彼の足が速くなったので、私も駆け出したのだった。




