食後の歯磨きは重要
「食べるってことは、生きてるってことなんだよ」
僕にとっての昔むかし、僕の「恋人」はそう言った。彼女の好物のオムライスを平らげた後で。
僕はむぐむぐと口を動かし口内のビー玉を皿に吐き出した後に、こう言った。
「やっばりわからない」
「これもダメかあ、あなた、なになら食べれるんだろうね」
「確証は無いけど、たぶん食べなくても生きていけるよ」
「えー、それはやだ。私がやだ。一緒に食べたい。私の恋人になったならお願い聞いて」
「……わかった。じゃあ、次食べる」
「はい、どうぞ召し上がれ」
皿の上には天然石が盛られている。濁った淡い色の歪なものが、沢山。脳の奥底が微弱な電気信号を放ち、僕の口を動かした。
「似てる」
「え!なんか思い出せそう?」
「……いや。でもとりあえず、いただきます」
それについては首を振った。彼女はひとつため息をついたが僕の言葉に口角を釣り上げた。
「いただきます」
彼女はこの言葉が好きだ。この言葉の意味、それに付随する行動、音、そして何より、彼女は食べるということに神聖さを見出しているようだと、僕は分析してみたことがある。
天然石は当然のように固く、冷たかった。けれどもその冷たさの奥の、地層の記憶のようなものに僕は懐かしさを覚える。空気の薄さ、果てしない黒、足元のざりざりとした質感。ぼんやりとしたそれらを思いながらコロコロと口内で石を転がす。ビー玉ではこうはいかなかった。もっと純粋な自然のもの、というのが大事なのかもしれない。もしかしたらと思い歯に力を込める。
バキッ、ガリガリ。
「……!どう?食べれそう?」
「やっぱり無理だ」
「そっかあ……ほかに食べてみたいな〜ってやつ、浮かんだりしない?」
「うーん」
「なにか!なにかあると思うの!」
「うーーーん」
「だめか。早く一緒に食べてみたいんだけどなあ」
初めて目覚めた時は、満腹という感覚が体を満たしていて。記憶も何も無く、その感覚だけを持って歩いていたところを彼女に拾われ、そして何故か恋人という名の契約をさせられ、この家に連れてこられた。「ご飯いる?って聞いたら、さっき食べたからいいって、言ってたんだよ」と後日聞かされた。それ以来彼女は僕があの日食べられた何かを探している。あれ以外は飲み込んでも吐いてしまう。水すらなくともこの体は動いた。まあ、少なくとも僕は人間ではない。
「はい、そしたら歯磨きしようね」
「……ひつよ」「う!必要!石でもなんでも口に入れたんだから。一緒に同じものは食べられないけどさ、せめてこれくらい一緒にしたいよ。恋人だもん」
そういうわけで、僕は今日も恋人と並んで歯を磨く。必要性は感じなくとも、僕は次くらいにはこの行為を断らなくてもいいかと思い始めていた。
隣で歯ブラシを咥えた彼女が、鏡に映る同じポーズの僕を見て笑った。
その瞬間。脳。心臓。手のひら。胃。鼻。体のあらゆる所にひとつの信号が飛んだ。出会った日には知らなかった。違う、忘れていた。昼下がりのマンションの一室は、まだオムライスの卵の焼けた香りがする。卵は僕の食べ物ではない。彼女から僕は目が離せなくなっていた。胃が収縮して、僕の頭はひとつの感情で満たされる。
「僕は病気かもしれない」
「……」
「こんなのおかしい。ぼくはきっと病気だ」
違うと言って。僕の恋人。
「……うん、そうだね。病気。病気だよ。かもしれないなんて言わないで。それがあなたの本当の……やっと、思い出せるよね」
彼女が僕の頬に触れた時、唾液とはこういう時に出るのだと思い出した。いや、僕たちの種族からすれば唾液とは言い難いのだが。そんなことはもういい。彼女から肯定されたひとつの感情が、僕の喉を飛び出した。
「食べたい」
「いいよ」
バキッ。グチャ。
彼女の腕を口内に収めた。
膨張し曲がりくねり溶けた僕の本当の身体で、口で。美味しい。美味しい。このマンションの外に住む食べ物よりも。何よりも。彼女は力なく僕の体に倒れ込み、けれどもまだ生きている。
「最初から、知ってた?」
「うん。だってあなた人の指を口の端から出して歩いてた」
「僕のことなんで恋人にしたの」
「一目惚れ」
僕の口元にまだ動く指を当てた彼女はけらけら笑った。笑って、橋がひび割れた鏡を指さした。小さな部屋とふたつのコップとふたつの歯ブラシ。僕たちの全て。
「約束」
「なに」
人間で言う心臓の器官が高鳴っていた。滴る血液の味の美味しさに、僕と彼女はやっと同じ気持ちになれたのだと知る。
「食べたあとはちゃんと、歯磨きしてね」
「うん」




