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その日晶湖はいつも使用している化粧水が残り少なくなっていることに気がついた。
特別高い化粧品を使っているわけでも、特殊な化粧品を使っている訳でもないが、扱っているドラックストアが決まっていて、自宅からは少し距離があった。前までは勤め先の病院の近くにあったのでそこで買っていたが、これからはどうしようかと思っていたところ、ちょうど今のクリニックから近いところに、同じ系統のドラックストアがあることがわかったので、今日仕事帰りに行ってみようと思いついた。帰り道とは反対方向だが、ネットのマップで見たところそんなに遠くなさそうであった。
そんなつもりで出勤したので、帰りは朔と方向が同じになった。
「朔さんはどちらから来てるんですか?」
「ええ、その…先のバス停からバスで通っていますのよ」
「そうなんですね」
晶湖は住所を聞いたつもりだったが、よく考えれば言われてもこの辺の住所はわからない。朔もそんなつもりで答えたのだろう。晶湖もそんなに深くは考えない。
バス停へもドラックストアへも、先日事故のあった大通りの交差点を渡らなければならない。交差点の隅には先日事故で亡くなった方への花や缶ジュースなど沢山のお供えが置かれていた。
それを見つめ痛ましく思いながら信号待ちをしていた時だった。
「あ、あ?なんでっ!」
急に声がしたかと思ったら、横から男が赤信号の交差点に飛び出していった。
「や、やめっ!」
「危ない!」
「きゃあぁぁぁぁぁ!」
周りで見ていた人たちが叫ぶ。
物凄い音のクラクションと急ブレーキのスキール音が晶湖の耳を劈いた。
晶湖は、何も出来ず固まったまま、男が空中にはね飛ばされてるのを見ていた。
跳ねられる直前、男は戻ろうとして振り返って。
晶湖と目が合った。
「──ケテ」
まるで何かに引っ張られるように交差点に出ていった男。
助けを求めているようにも見えた。
だが、そう思ったのは一瞬ですぐに晶湖は走り出す。
「大丈夫ですか?!」
男に意識は無く、身体はあらぬ方向を向いていてぐんにゃりと曲がっていた。
晶湖の目には涙が浮かぶ。
顔をくしゃくしゃにしながら、呼吸、心音を確認、すぐに心臓マッサージを始める。
胸部を押す感覚が肋骨が折れている事を教えている。
「誰か救急車を呼んでください!」
必死に叫びながら心臓マッサージを続ける。
誰かが119番と110番とかけているのが遠くで聞こえる。
「AEDはないの!?」
もうどれだけ心臓マッサージを続けていたかわからない。
「変わりますよ!」
誰かがそう言って晶湖の肩をたたいた。
「ありがとうございます」
晶湖はその男と交代して立ち上がる。
思わずふらついて、誰かに支えられた。朔である。
「よく頑張りました。立派でございます」
誰かがビニール袋を持ってきて人工呼吸も行っている。
周りではスマホを掲げて撮影している人がいる。
それらを晶湖はぼーっと視界に捉えていた。
晶湖の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃである。
朔はカバンから手ぬぐいを出すと晶湖の顔を拭いだした。
その瞬間、晶湖は朔に縋り付いて声を殺して泣いた。
──あの手の感触、多分あの人は助からない。
「あの人、助けてって言ってた。まるで何かに引っ張られるように連れて行かれてた。助けてって…」
「一度クリニックに帰りましょう。あなたは出来ることをやりました。救急車も来ましたし、後は任せて私たちは戻りましょう」
朔は優しく晶湖の涙を拭いながら背中を撫でる。そうして喧騒を背後に二人はクリニックに戻っていった。
クリニックに戻ると何故か入口は開いていて、中は電気がついていた。
晃輔が戻ってきていたのである。
いつの間にか朔が連絡をいれたようであった。
二人が自動ドアを入ると、晃輔が何故かバスタオルを持って待っていた。
「お帰り。っていうのも変だね。」
「こう…すけ…せんせい?」
朔に抱きかかえられるように入ってきた晶湖は晃輔を見てまず驚いた。
それからぐちゃぐちゃの顔をしている事に気が付き、朔から借りていた手ぬぐいでバッと顔を隠した。
「晃輔坊ちゃま、すぐにあっちを向きなさい。若いお嬢様の泣き顔をジロジロ見るものではありません」
「おっと、それは失礼した」
晃輔はすぐに後ろをむいた。そして見ないようにしながらタオルを差し出すと、
「とりあえず、手と顔を洗っておいで」
と優しく言った。
「はい、ありがとうございます」
晶湖はそのままトイレに向かった。
「では私は珈琲をいれましょうかね」
「ありがとう、お願いするよ。それとお願いだから坊ちゃまはやめてね」
晃輔は無理と知っていながらが一応抗議している。
──いい加減諦めればいいのに。
晶湖は後ろから聞こえるそんな会話を聞きながら少しだけ心が軽くなった。
トイレの鏡でみる自分の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃだ。
いつも大してて化粧しているわけでもないが、それでも酷い。
晶湖は思いっきりバシャバシャと水音を立てて顔を洗った。
晃輔が用意してくれていたバスタオルで顔を拭く。
僅かなファンデーションも残らないくらい洗ってやった。
──そういえば、どうしてバスタオルなのかしら。
晃輔らしいと少し笑いながら、ふかふかの大きな真っ白なタオルで顔を拭くとスッキリして更に気持ちが軽くなった。
拭き終わったので、タオルは必要ないが、ノーメイクは流石に恥ずかしい。
晶湖はバスタオルで半分顔を隠すようにして戻っていった。
待合室に戻ると二人はいなくて、休憩室の方から珈琲のいい香りがした。
休憩室に入ると、朔が三人分の珈琲をちょうど入れていたころだった。
朔が笑顔で呼んでくれる。
「櫻川さん、どうぞ。ちょうど珈琲が入りましたよ」
「ありがとうございます」
晶湖は晃輔の前の席に座る。
ノーメイクでなんとなく隠すためにバスタオルを首からかけて頬のあたりを覆っていると、晃輔が声をかけた。
「タオルは置いてくればよかったのに」
「そうなんですけどっ。メイク落ちちゃって恥ずかしいから…」
晶湖はそう言ってタオルで顔を隠す。
それを見て晃輔は意外そうに
「櫻川さんは綺麗だからメイク無くても全然大丈夫でしょ」
そう言って珈琲をすすった。
晶湖は顔がカッと熱くなって赤くなった。
「そ、そんなことないです」
「そうかなぁ」
──こういうところは兄弟なのね。
朔は黙って見て見ぬふりをした。
しばらく三人は無言で珈琲を口に運んだ。
──やっぱり美味しい。安心する。
晶湖は初めて朔の入れた珈琲を飲んだ時のことを思いだした。
いつも入れてもらってる珈琲も勿論美味しいけれど、こういう時の朔さんの珈琲はどうして安心するんだろう。
晶湖は両手で珈琲の温かさを堪能しながらそんな事を思った。
「櫻川さんもそろそろ専用のマグカップを用意した方がよいかしらね」
晶湖の両手で持っているコーヒーカップを見ながら朔が思い出したように言った。
確かに、晃輔も朔も壮亮すら自分専用のマグカップで飲んでいる。
晶湖だけはまだお客様用のコーヒーカップである。
「ホントですか?嬉しい!持ってきていいですか?」
「ええ。気に入ったのがあるのでしたら、お持ちになってもよいし、特に無ければこちらで用意しますよ」
「ええ!?そしたら、あの、面倒じゃなければ朔さんが用意してくださったマグカップで飲みたいです」
晶湖はやや興奮ぎみに、でも少し照れくさそうにお願いする。
「承知いたしました。私の方で選ばせていただきますね」
朔はニッコリと微笑んで答えた。
──嬉しい。自分専用のマグカップ。
晶湖はまた少しこのクリニックの一員に近づいた気がした。
それから三人で珈琲をもう一杯ずつおかわりして帰ることにした。
「櫻川さん、おいで。今日は送っていくよ」
帰り際晃輔が車のキーを指で回しながら晶湖を誘った。
「そんな、大丈夫です。」
驚いて晶湖は遠慮した。
「遠慮しないで、送っていただきなさい」
朔は簡単に言う。
「そうだよ。今日は遅くなっちゃったしね」
晃輔も元々送っていくつもりだったようだ。
「でも。」
晶湖を送って行くと晃輔のマンションへは遠回りになる。
「僕に送られるのは嫌かな?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「じゃあ、決まりね。車取ってくるからここで待ってて」
そう言って晃輔は駐車場へ向かった。
晶湖がいいのかな?と申し訳ない気持ちでいるとそれを察したように朔が言った。
「こんな日くらいは送っていただきなさいな」
朔が優しく背中を撫でる。
「はい⋯。」
ものの五分もしないうちに晃輔を乗せたランドローバーが戻ってきた。
助手席を開けて
「はい、どうぞ。」
晃輔が促す。
「しつれいします。」
晶湖が乗り込む。
「あれ?朔さんは」
朔は助手席の外側で手を振っていた。
晶湖は慌てて、窓を開ける。
「朔は用事を思い出しました」
「そんな。こんな時間なのに?」
「はい、今日中じゃないといけないのです」
朔はきっぱりといい切った。
「ですので、晃輔坊ちゃま。櫻川さんをしっかりと送って差し上げてくださいませ」
「それはわかっているけれど⋯?」
晃輔は朔をじっと見つめた。
それに対し、朔は軽く目配せをした。
「わかった。朔さん、気をつけてね」
「ふふ、誰にものを言っているのですか」
朔は本当におかしそうに指先で口元を抑えて笑ってみせた。
不安そうな晶湖に朔はニッコリと笑う。
「大丈夫ですよ。晃輔坊ちゃまが櫻川さんに何かしようなどというようなことがございましたら、朔が死ぬより恐ろしい目に合わせて差し上げます」
「そんなことしないよ!恐ろしいこと言わないでよ!」
晃輔が本気で怖がっているのをみて思わず晶湖は笑ってしまった。
「はい、わかりました」
「何がわかりましたなの?!」
ひとり理不尽な脅迫に動揺する晃輔に、余計にくすくす笑ってしまう晶湖であった。
「じゃあ、朔さん。お気をつけて」
晶湖は朔に挨拶する。
「はい、また明日。よろしくお願いいたします」
朔もまた挨拶を返した。
晶湖を乗せて晃輔はランドローバーをゆっくりと発進させた。
晶湖はしばらく朔に手を振っていたが、角を曲がったと同時に前を向いた。
それと同時に朔も消えたが、勿論晶湖はそれを見ることはなかった。
夜はまだ寒く、車のヒーターの音の中、ナビゲーションの案内音声だけが車内に響く。
「今日は大変だったね」
晃輔が声をかけた。
「⋯あの方⋯ダメかもしれません」
「そっか⋯」
「あの人、助けを求めてたかもしれないのに」
「助けを求めていた?」
「はい、最後、そう見えたんです」
最後に目が合った事を思い出して、胸がぎゅっと痛む。何も出来なかった。
晃輔は何かを考えるようにハンドルに腕をかけた。
晶湖は下を向いていたのでそれには気がつかない。
晃輔はそっと腕を伸ばして晶湖の頭を撫でた。
「よく⋯すぐに駆けつけたね。なかなかできることじゃないよ」
「そう⋯ですか…?」
「そうだよ。知識としてあったって、我々医者だって躊躇するときもあるよ。だから」
晃輔はそこで一旦言葉をきって、赤信号で止まったタイミングで晶湖に顔を向けた。
「頑張ったね」
晶湖の目に涙が浮かぶ。
収まっていた涙がまた溢れ出した。
晶湖は慌ててカバンからハンカチを取り出す。
「はっ!思い出させちゃった?!ごめんね。あ。てか、もしかして頭撫でるのってセクハラ?!」
急にワタワタしだす晃輔。
それをみて晶湖は涙をハンカチで抑えながらくすくす笑い出した。
「セクハラはされた方がセクハラと思わなければセクハラではありません」
「あーよかった。そうだよねぇ」
何がそうなのかわからないが、晶湖は少し意地悪してみたくなった。
「でもセクハラじゃないとも言ってません」
「えー!うそ!ごめん、ごめんなさい!朔さんには言わないで!」
「嘘です」
晶湖は口元を押さえてくすくす笑いっぱなしだった。
──本当は嬉しかった。
これは内緒にしておこうと晶湖は思った。
男は誰かが自分を探していることに気がついた。
自分よりずっと強い何かに──。
──でも大丈夫。そう簡単には自分はみつからない。
暗闇の中でどうやって自分をみつけられるというのだろう──。




