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その男には生まれつき影がなかった。暗闇の中で生きてきたその男に影は必要なかった。
光の有る場所へ出てきて初めて自分に影がないことを知った。
そしてそれがほしいと思った──。
櫻川晶湖が看護師としてクリニックに務めるようになって三か月がたった。
あの事件の後、山崎美咲は看護師として働けるようになるには、少し時間が掛かるということで、病院を辞めることにしたそうだ。そして一緒に色々とあった晶湖もほぼどさくさのように辞めてきたのだという。中堅どころ二人が抜けた病棟の事を考えると、大変そうだが、クリニックにとってはとてもありがたいことだった。
クリニック勤めを勧めたのは例によって高橋壮亮である。
──あそこのクリニックは看護師さんが決まってもなんでかすぐ辞めちゃうんだよねぇ。つい最近もパートさんが辞めてしまって、今看護師さんがいなくなっちゃったんだよ。次を決めていないなら、櫻川さん、手伝ってあげてくれない?僕もたまに土曜日に行くしさ。看護師さんいないと大変なんだよね。櫻川さんなら晃輔のことも朔さんのこともよく知ってるしさ。考えてくれないかな?
看護師がすぐ辞めてしまう一番の理由はなんとなく怖いから。特に夕方近くなると、いても経ってもいられなくなるそうだ。
それで実際晃輔に診てもらった看護師もいたくらいだ。
理由が理由だけに引き止めることもできない。
他にも朔が怖い、という看護師もいた。
仕方がないので、一応募集はかけるが無理には雇わないことにしていたのだ。
そういう理由であったので、晶湖が働きたいと言って来てくれたときは、とてもありがたかった。
そして、何故か朔が一番喜んでいた。
「櫻川さんが来てくださるようになるなんて!なんて素晴らしいことでしょ!」
鼻歌でも歌い出しそうなほど喜んでいる。
朔の思惑など知らない晃輔は自分を褒めてくれた櫻川を気に入ってるからくらいにしか思わなかった。
晃輔も櫻川がクリニックに勤めてくれるのは嬉しい。いや、かなり嬉しい。
実際の働きぶりも十分な戦力だった。形成外科出身なので、物品の扱いは勿論、基本的な看護技術、それに内科は初めてだというが、自身でちゃんと勉強してきていて、患者さんへの説明なども申し分なかった。
オペ室経験はないが、クリニックで行う手術につく内容であれば全く問題もなく、知った顔である壮亮もやりやすそうであった。
「いやぁ、本当にきてくれてありがとう。助かってるよ」
壮亮はオペ後の帰り際、いつものように笑顔で晶湖にお礼を言った。
今日のオペは縫合に少し時間がかかったが、晶湖が機転を利かせて患者の体位を少し変えたりして、縫合しやすいように、調節していた。
「いえいえ、そんなことありません。でも毎日が勉強で学ぶことが多くて、とても楽しく働かせていただいています。」
晶湖も笑顔で答える。
実際、新しいことばかりでやりがいを感じていたし、環境が一掃されて気持ちもとても楽になっている自分がいるのがわかった。
何かあれば相談できる自分を知っていてくれる人が上司にいるのもありがたい。
実際に働いてみて、晃輔も上司としてとても働きやすい医師だということもわかった。
「それに朔さんが入れてくれる珈琲がとっても美味しいですし」
晶湖は自分の頬に両手を当ててほころぶ。
「ははっ、それは俺も同感だ」
壮亮もぷっと吹き出すと声を出して笑った。
「さて、今日はもうオペもないし、残りの患者さんも内科の人みたいだから俺はこれで失礼するよ」
「はい、お疲れ様でした。今日もありがとうございました。」
「こちらこそ。じゃ、後よろしくね」
壮亮はそう言うと晶湖に白衣を渡して処置室を出ていった。休憩室で着替えて、帰るのだろう。今日はこのまま、学会のため京都へ向かうと言っていた。
「相変わらず忙しそうだな」
晶湖は受け取った白衣をクリーニングの籠に放り込むと、そのまま第1診察室に向かう。オペ介助が終われば、後は診察介助だ。晃輔は基本ひとりで診察することが多かったので、特に不自由はないが、やはり介助がいるといないとでは診察の進み具合が違う。そう晃輔が言ってくれたのが、晶湖は嬉しかった。
「…血圧は138の78…うんいいですね。胸の音を聞かせてください…。…。…。後ろ向いて…。…。…。うん問題ないですね。お薬このままで良さそうですね。また1ヶ月分出しておきますので、来月またきてくだいね」
カルテに書き込みながら話はするが、最後は必ず顔を上げて患者に「お大事にしてください」と言うのがルーティン。お見送りは必ず患者さんの顔を見て送り出したい、というのが晃輔なりのこだわりである。
「今の方で最後ですかね」
晶湖は診察室のドアを少し開けて、受付の方を覗き込む。朔からハンドサインでゼロの文字が帰ってきた。どうやら今日はこれで終わりのようだ。
「晃輔先生、今日はこれでおしまいです」
いつのまにか名前呼びが普通になっていたが晶湖も晃輔も全く意識していなかった。ちなみ壮亮は高橋先生のままである。
「はーい、お疲れ様でした」
いいながら晃輔は、一つ伸びをした。座りっぱなしはやっぱり疲れるのだろう。
「お疲れ様でした」
晶湖はそういうと早速、ベッドや椅子等をアルコールで消毒し始める。締めの作業の開始である。
使った機材は専用パックに入れてオートクレーブにかけ、床はフロワワイパーで拭いていく。
使った消毒液用の容器は洗って乾かしておく。
今日は土曜日なので、全部洗って白衣もクリーニングに出す日である。
「それじゃ、後は頼むね」
晃輔は白衣を脱ぐとクリーニングに出す籠に白衣を入れてジャケットを羽織った。先に帰るのである。掃除は朔と晶湖の役目だ。
「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。お気をつけてお帰りくださいませ」
二人はそれぞれ作業を続けながら晃輔を見送った。
自動ドアの電源を切って、鍵をかける。その後、エレベーターで一階に降りて入口の鍵をかければおしまいである。
「では、失礼します。お疲れ様でした」
「はい、今週もお疲れ様でした。来週もよろしくお願いいたしますね」
二人はいつも入口で反対方向へ別れる。
駅までは徒歩5分程度、大通りは反対方向で晶湖は通らない。そして晶湖はいつも通り駅の方へ向かう。
「危ない!」
「きゃあぁぁぁぁ!」
その時大通りの方で大きなブレーキ音と悲鳴が聞こえた。
「なに?事故?」
晶湖は振りかって大通りの方を見つめるも勿論何も見えない。
その間にも大通りの方は何だか騒がしくなっていく。
──事故だったら、行くべき?
一瞬躊躇したが、晶湖は事故だったら看護師としてもしかしてできることがあるかもしれないと、いま来た道を戻る形で大通りに向かって小走りになった、そのとき。
「行くのはおやめください」
びくりと止まる。
ちょうどクリニックの前を通り過ぎようとしたところで、朔に声をかけられた。
「事故ですか?」
朔だったことに安堵しながら状況を聞いてみる。方向的に朔が向かった方だったので、知っていると思ったのだ。
「ええ、ですが…」
朔は静かに首を振った。
「見たのですか?」
晶湖は尚更もしかしたらまだ、という気が逸る。
「あれは…残念ながら即死でしょう」
朔ははっきりと言った。
「あなたなら今の悲鳴を聞いて見に行ってしまうのではないかと思って戻ってきたのですよ。看護師のあなたに言うのは失礼なのかもしれませんが、あれは若い女性が見て気持ちの良いものではありませぬ」
晶湖は思わず両手で口を抑える。
「気になるかもしれませんが、今日のところはお帰りなさい。駅まで私が送って差し上げましょう」
朔は有無を言わせぬ言い方で晶湖の肩を抱くと、騒ぎのする大通りに背を向けて歩き出した。
男は影を奪うことを覚えた。
しかし、影を奪ったとてその男のものにはならない。
──これも合わない、これもだめか。
合わなければ、いらない。そしてまた別の影を奪う。
奪われた影は奪われた人ところに戻る。
──もし影が違うところに戻ったら?
男は自分に合う影を探しているうちに新しい遊びを覚えた──。
「最近、交通事故、それも死亡事故が多いみたいだねぇ。どれも歩行者の飛び出しだそうだ」
晃輔はネットの記事を呼びながら珈琲をすすった。月曜日の朝診察が始まる前のひと時。
「どれもこの辺に住所近いなぁ…朔さん…は大丈夫だろうけど、櫻川さん、気をつけてね」
「そんな、赤信号で渡ろうなんて思いませんよ」
テーブルを拭きながら晶湖は心外だとばかりに答える。
「いや、もちろんそれは考えてないけど、巻き込まれないとも限らないからね」
「それはそうですけど…でも、朔さんは大丈夫ってどういう意味ですか!ねぇ朔さん」
晶湖が朔に話を振ると朔は顎に手を当てて考え込むようにしていたが、晶湖が思ったよりも真面目な答えが返ってきた。
「そう…ですね、櫻川さん、気をつけていただいた方がよいかもしれません」
「えー、朔さんまでそんな事言うんですか。」
晶湖は不満そうである。
しかし、朔は晃輔に目で何かを訴えるようにすると、後で、とばかりに頭を下げた。
しかし、朔が晃輔に説明するよりも先にそれはやってきた。
時刻は夕方、五時半過ぎ、そろそろ患者も途絶えようというころ。
「あのぅ…ここ心療内科ですよね?」
「はい、診察ですか?」
ちょうど待合室に出ていた晶湖が対応する。
「…はい、あの、変な相談かもしれないんですけど…」
患者と思われる男は、なんと言っていいのかわからないという風だ。
「勿論、かまいませんよ。こちらは初めてですか?」
晶湖はなるべく優しく聞こえるように話す。
「初めてです。」
「では、受付でマイナンバーカードを出してください。そちらからご案内いたします」
晶湖は努めて笑顔で答えた。
「こんばんは、こちらは初めてでございますか?ではマイナンバーカードの登録をお願いいたします。終わりましたら、こちらに記入をお願いいたします。第2診察室で呼ばれますのでしばらくお待ちください」
朔は努めて事務的に伝える。テキパキとカルテを作り、記入された問診票と一緒に第2診察室へ運ぶ。
「佐藤修一さん、第2診察室にお入りください」
晃輔は横開きの扉を開けて患者を招き入れる。
患者は始終落ち着かなそうにしており、名前を呼ばれてビクッとしていた。
「こんにちは、今日はどうされましたか」
晃輔はいつものように声をかける。しかし、佐藤は周りをきょろきょろと見渡し落ち着かなそうにしている。
その様子をみて晃輔は、別の話を振った。
「佐藤さん、珈琲はお好きですか?」
「へ?あ、はい。よく飲みます」
「そうですか。では、よろしければどうぞ」
その言葉と同時に裏から朔がいつもの白いカップに珈琲を注いで持ってきた。勿論ミルクと砂糖もついている。
「まずは少し落ち着いてから、お話をお聞きしましょうか」
晃輔はなるべく落ち着いて聞こえるように低い声で話しかける。
佐藤はその言葉に従うように珈琲を一口、口に運んだ。
ほぅっと息をつく。やっと落ち着いたとばかりに。
「実は、あの…」
佐藤はようやく話し始めた。
──身体が突然勝手に動くんです。
佐藤の話によると、普段は何もないが、突然、身体が勝手に動くのだという。突然腕が勝手に動いたかと思えば、近くにあったカップを吹き飛ばしてしまったり、階段を歩いていると突然、頭から落ちそうになったり、赤信号で止まっている時に急に走り出してしまったこともあったという。その時は車が上手く避けてくれたそうだが、車からは走り去り際に怒鳴られたとのことだった。
「それが、ですね⋯あの⋯そんな事あるわけないんですが⋯影が⋯影が先にというか勝手に動いている気がするんです」
そういうと佐藤は自分でも馬鹿な事を言っているとばかりに下を向いた。
だが晃輔は、昨今のこの近辺での起きている人身事故について思い当たった。
「なるほど…。そういう事か」
「な、なんですか?」
「いえ、失礼。なるほど、影が勝手に動いていることによって、身体が自分の意図しない形で動いてしまっているんですね」
「そ、そうなんです。勿論誰も信じてくれません。自分でもおかしなこと言ってるって思います。でもそうとしか思えないんです。」
佐藤は必死に訴える。
「それは、いつからですか?」
「…多分一週間くらい前からだと思います⋯」
──一週間、よく今まで生きていたな
「それは、とてもお辛いと思います。不意に勝手に動いてしまう事への恐怖心もありますでしょうし、それを警戒しているのもとてもお疲れになっているでしょう」
「はい、こうなってからは夜も眠れなくて⋯寝ている間に勝手に動いていたらと考えたら怖くて」
やっと話を聞いてもらえてほっとしたのか佐藤の目に涙が浮かぶ。
「そうですね…夜眠れないのも辛いですね。では⋯そうですね、まず、気持ちがお疲れになっているのは確かです。ですので、少し気持ちが落ち着くお薬を出します。一日三回食後で飲んでください。それとは別に漢方薬でこちらは寝る前に一回。それから、夜なのですが、眠る時に完全に部屋を真っ暗にして眠ることは可能ですか?」
「え?…ええと…どうでしょう可能だとは思いますが…」
佐藤はそれが何か?という顔を浮かべる
「影が勝手に動く、というのですから、完全に真っ暗にしてご自分の影が出来ないようにすれば多分勝手には動けないのではないかと思ったものですから。もしくはですね、ご自分の影が何かに完全に隠れてしまうようにするというのもよいかもしれません」
晃輔は思いつきのようなものであったが、なんとなくそれが正解なような気がした。
「なるほど、確かに。そうかもしれません、言われてみれば、何かに自分の影が隠れているときは動いたりしていなかった気がします!先生ありがとうございます!」
「いえいえ。どうしましょうか。眠るお薬は少しお出ししますか?」
「えーと、いえ、まずは影を隠して試してみます。それでも眠れなかったら、また相談させていただきます」
佐藤は少し考える素振りをしたが、やめておくことにした。
「承知しました。では、今日は気持ちを落ち着かせるお薬をお出ししますので、まずそれを飲んでみて、そうですね、2週間後にまたきてください。それまでに、何かあったらまたすぐいらしてください」
「わかりました。ありがとうございました。」
佐藤は少し気持ちが晴れたのか表情は入ってきたときとは随分違っていた。
「それから、こちらも変な事を言うようですが、もしも、影が勝手に動いたら自分で自分の影を踏んで抑えてみてください」
佐藤は一瞬ぽかんとしか顔をしたが、意味がわかると嬉しそうな顔した。
「わかりました!やってみます。先生、ありがとうございます。真面目に来てくれて」
佐藤はそう言うと残っていた珈琲を一気に飲み干し、診察室を出ていった。
「晃輔先生、今みたいな症状もあるんですか?」
後ろでずっとついていた晶湖が晃輔に尋ねる。
「ん?うーん⋯ないこともないだろうけれど⋯さて…これは朔さんの出番かなぁ」
「朔さんの?」
実のところ晶湖は朔という存在が何であるかいまいちわかっていない。
あの時見た朔が夢だったのか、本当だったのかすらわからないし、本人に改めて確かめるのも恥ずかしい。
実はもうひとつ晶湖は聞けないでいることがある。それは診察案内の看板に『心療内科』の文字が無くなっていることである。
驚いて、朔に聞いたところ、朔は嬉しそうにそれはよかったと何故か喜んでくれたが、もしまた見えるようなことがあればすぐに相談してね、とだけ言われ、何故無くなったのかは結局聞けずに今に至っている。
晃輔に聞いてみようかと思ったが、それも何だか憚られ、聞けなかった。
──まだ何だか聞いちゃいけない気がする。
それはまだ晶湖がこのクリニックの完全に一員になれていないようなほんの小さな寂しさのトゲである。
特に内緒にされている訳ではない、もちろんいじめられているわけでもない、ハブられているわけでもない、寧ろ良くしてもらっているくらいだ。
だけど、まだ、見えない一枚の壁がある。とても薄い、普段は気が付かない、薄い膜のような壁が。
──でも、ここに勤めてまだ三か月だもん。もっと慣れて、仲良くなったら絶対自分から聞いてやるんだから。
仲良くなったら。これが何を指しているのかを今の晶湖にはまだわからなかった。
男は影を勝手に動かせることを知った。
それを見て慌てふためく姿を見るのが愉快だった。
しかし、対策するものも出てきた。
それはとても不愉快だった。
だから考えた。
──複数の影をくっつけたらどうだろう。
もっと愉快無ことになるに違いない、と──。




