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本気で人を好きになったことがないあなたへ

作者: 村崎羯諦

国民婚姻管理特別措置法(抄)


国は、一定年齢以上の独身国民に対し、婚姻を義務付ける。当該婚姻の相手は、国が指定する。

「本気で人を好きになったことがないあなたには、わからないわよ!」


 叫びにも似たその言葉と共に、妻はその場で泣き崩れた。


 数分前までは、落ち着いた声で話していた。『離婚』という言葉も、あくまで選択肢の一つでしかなかったし、少なくとも私はこのままの関係を続けられる希望を抱いていた。


「……どうして、そんなことを言うんだ?」


 気づけばそう問い返していた。私自身の声が、驚きと困惑でかすれていた。


 妻は顔を上げる。自分でも制御できなかったというように、震える指先で口元を押さえた。先ほどまではかろうじて均衡が保たれていただけ。彼女の表情を見て、私はそのことにようやく気がついた。


「ごめんなさい……今のは、言うつもりじゃなかったの」


 妻は息を整えながら言葉を続ける。


「あなたとはうまくやってきた。そう思ってる。でも……」


 続きは聞こえなかった。妻は目を伏せ、そのまま黙り込んでしまう。痛々しい沈黙の中、妻の叫びだけが耳の奥に残り続けた。





 離婚という言葉が急に現れたように感じたのは、

私たちの結婚生活に、目立った不協和がなかったからだ。


 そもそも私たちが結婚したのは、国から届いた通知がきっかけだった。


《国民婚姻管理特別措置法に基づき、あなたの婚姻適応者を通知します。婚姻後、希望者には結婚適応支援手術(脳神経感情最適化)を受ける権利が付与されます》


 事務的で、どこにも人間の気配のない文章。そこに印字された名前が、後に妻となる彼女のものだった。


 結婚後、私たちは互いに結婚適応支援手術と呼ばれている脳の手術を受けた。脳の手術といっても大げさなものではなく、局所的な神経調整だけ。ただ、その手術によって「日常生活の中で、自ずと相手への好意が育ちやすくなる」のだと医者は説明してくれた。


 確かに、術後の生活は驚くほど滑らかだった。


 夕食後、妻が皿を洗い終え、濡れた手を布巾で押さえながら振り返る。


「今日の煮物、ちょっと味濃かったかもしれない。大丈夫だった?」

「すごく美味しかったよ。君が作るものは全部好きだ」


 自分で言いながら、少し大げさな気もした。でも、その言葉は自然に口をついて出ていたし、妻は素直に頬をゆるめた。それから妻は私のネクタイに目を留め、指先で軽く触れた。


「これ私がプレゼントしたやつだよね。すごく似合ってる」

「私もそう思うよ。プレゼントしてくれてありがとう」


 褒め合う言葉が、互いから滞りなく返ってくる。たとえそれが手術によって補正された反応だとしても、そこに嘘はなかった。私たちは実際に満足していたし、日々を穏やかに共有していた。


 休日にはスーパーへ行き、同じカゴを押しながら食材を選んだ。妻は選ぶたびに私の顔を見て確認し、私も自然に「それがいいと思うよ」と返した。

どちらが先に言うかは毎回違うが、反応の中身はほとんど同じだった。


 妻はよく笑い、私も笑った。感情の針は常に一定方向へ傾き、その安定が、私には心地よかった。いや、そう感じていたのは私だけではない。妻もきっと同じように感じていたはずだった。


 だからこそ、私には理解できなかった。


 この穏やかで心地よい毎日よりも大事ものがあるということを。





「結婚する前から……好きだった人がいるの。」


 絞り出すような声だった。それでも言葉自体は明瞭で、迷いは感じられなかった。


「手術を受けたら、忘れられると思ってた。国の説明でも、そう言われたし……実際、あなたのことは好きになった」


 そこで妻は、一度こちらを見た。その視線には、嘘はなかった。


「一緒にいると落ち着くし、安心する。あなたが優しいことも、ちゃんと分かってる。」


 その言葉に、胸の奥がかすかに温まった。それでも、続きがあることは分かっていた。


「でも、消えなかったの。」


 妻は視線を床に戻した。まるで、そこに消えなかった何かがあるかのように。


「思い出すたびに、胸が苦しくなる。比べたくないのに、比べてしまう。あなたが隣にいるのに、別の人の声を思い出してしまう。初めのうちは、時間が経てばその気持ちも薄れると思ってた」


 静かな声だった。感情をぶつける調子ではない。

だからこそ、その決意は強く、揺るぎそうになかった。


「あなたへの気持ちは、穏やかで、優しくい……。でも、あの人への気持ちは違う。苦しいし、不安で、何も保証されていない。だからずっと目を背けてきた。そんなの正しくないって言い聞かせていた。それでも……これ以上私の気持ちを誤魔化すことはできなくなったの」


 私には、それが理解できなかった。なぜ妻が苦しさを選ぶのか。


「君は……私のことが嫌いで出ていくわけじゃないんだよな。」


 確認するように言った。妻は、はっきりと首を振った。


「違う。あなたのことは好き。だから、こんなに迷ったし、ここまで黙ってた」


 その言葉が、胸を締めつけた。好きなのに、選ばれない。それ以上に強い気持ちが、別の場所にある。妻はこの話し合いを始める前から決めていた。ただ今は、決めたことを説明しているだけだった。





 離婚の申請は、翌日に済んだ。


 専用のサイトで必要事項を入力するだけだった。確認のために私の名前が表示され、それを見て一度だけ指が止まったが、結局、そのまま送信された。


「これで終わり」


 妻はそう言った。声に感情はなかった。数時間後、通知が届いた。


《離婚申請を受理しました。婚姻関係は本日付で解消されます》


 それだけだった。理由や経緯を尋ねられることもなかった。手続きを見届けた妻は最低限の荷物をまとめ、玄関で靴を履いた。


「ありがとう」


 それが最後の言葉だった。扉が閉まり、静けさが戻った。時計の音だけが、結婚していたときと同じ速さで進んでいた。





 妻がいなくなってからも私は同じような生活を続けた。


 朝は同じ時間に目が覚め、冷蔵庫を開け、二人分を前提にしていた食材をひとりで消費した。衣類の配置や、食器の並びはそのままだったし、妻が使っていた椅子も、特別な意味を持たずにそこにある。生活の手順は、何一つ修正を求めてこなかった。


 ただ、会話だけが消えていた。


 私は静寂の中、よくあの生活を「幸せだった」と思い返していた。それは否定しようのない実感だった。脳の手術によって補正された好意だったということもわかっている。医師も、手術の説明も、私は疑っているわけではない。


 それでも。


 朝食を一緒にとるの時間や、何気ない肯定の言葉、疲れた顔を見て自然に湧いてきた心配。それらは、すべて手術の指示に含まれていたのだろうか。


 もし、最初は作られた感情でも、一緒に過ごす時間の中で、本当に好きになったのだとしたら。


 そう考えた瞬間、胸の奥に、かすかな熱が生まれた。それと同時に妻のあの言葉が、耳鳴りのように再生される。


 本気で人を好きになったことがないあなたには、わからないわよ。


 実際私は今まで本気で人を好きになったことはない。少なくとも妻と出会う前までは。僕が抱いていたこの感情は、最初から最後まで手術によって設定されていただけなのだろうか。





 国からの通知は、朝に届いた。


《新たな婚姻適応者が決定しました。指定期日までに手続きを行ってください。あわせて、前婚姻に基づく脳神経感情最適化解除手術を推奨します》


 画面には、それだけが表示されていた。元妻の名前も、新しい妻の名前もそこにはなかった。


 解除手術の説明は簡潔だった。不要になった感情バイアスを元に戻すだけです。医師は淡々とそう言い、確認事項を読み上げた。


 手術台に横になり、天井の照明を見つめながら考えていた。もし、本当に彼女を好きになっていたのだとしたら。最初は操作された感情だったとしても、一緒に過ごした時間が本物なら、きっとそこには何かが残るはずだということを。


 目を覚ますと、照明が少し白く見えただけで、それ以外はいつもと同じだった。


 特に術後の異常はなく、必要な手続きを終えるとすぐに帰宅することができた。


 玄関に入ってすぐ、靴箱の上に置いたままになっていた小さな箱に気づいた。妻と旅行先で買った土産だった。中身を確かめることもなく、箱ごとゴミ袋に入れた。


 リビングでは、壁際に寄せていた椅子を元の位置に戻した。二人で使う前提で並べていた食器を一つ減らし、余った分を棚の奥に押し込んだ。


 洗面所には、彼女が使っていた歯ブラシが残っていた。少し考え、特に理由もなく捨てた。寝室では、半分空いていた引き出しを閉じ、ベッドを中央に寄せ直した。


 その日の夜、通知が届いた。


《婚姻に際し、新たな脳神経感情最適化手術を希望しますか?》


 私は内容を確認し、「はい」を選択した。

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