ep.7 指輪の記憶
夏休み最後の週末は、三連休だった。
連休初日の土曜日、早朝の涼やかさが残る中、樹と湊は神社の境内で落ち合った。
「なんだよ、その荷物」
樹が背負ってきた、今にもはち切れそうなほど膨らんだリュックを見て、湊が堪えきれずに吹き出した。
「サバイバルキャンプにでも行くのか?」
「万が一に備えるのは当然だろ。湊こそ、なんだよそのカッコ」
樹が指さす先、湊の出で立ちはあまりに身軽だった。
コンビニの袋に、チョコレートと飴、ペットボトルの水、そして背中にはバットケース。
結局二人は出発前に、その場で荷物の整理をするはめになる。
樹の過剰な装備の大半をお社の裏に隠し、救急セットやライトなど本当に必要そうなものだけをリュックに入れ、体力のある湊がバットケースとあわせて軽々と背負った。
準備は整った。
覚悟をきめた、とばかりに二人は頷き合うと、再びお社の中の「入り口」へと足を踏み入れた。
一瞬の浮遊感ののち、世界は色を失う。
変わらずどんよりとした灰色の空と、冷たい沈黙が二人を迎えた。
樹は厚く塗り固められたような空を見上げながら、拝殿の縁側から木の階段へと一歩、足を踏み出した。
「わっ……!」
思ったより足が前に出て、つんのめる。
転ぶ、と身構えた瞬間、樹の身体は重力から断ち切られて宙に浮いていた。
「樹?!」
驚いて振り返った湊の前で、まるでスローモーションのように、樹の体は四、五段ある階段を飛び越え、すとんと音もなく下の石畳に着地する。
「え……」
「大丈夫か、転んだ?」
驚いて駆け寄る湊へ、樹は首を傾げた。
「身体が、軽い……」
「?」
湊もその場で軽く跳ねてみる。身体が予想の倍は高く、そしてゆっくりと浮き上がり、静かにつま先から着地した。
「うわ、ほんとだ! すげえ!」
そういえば、と樹は思い出す。前回パニックの中で逃げ帰った時、ありえない跳躍力で段差と賽銭箱ごと飛び越えた。あれは火事場の馬鹿力ではなかったのだ。
「月面着陸した映像みてぇ!」
「本当、どういう世界なんだろう……ここ」
不安げに呟く樹とは対照的に、湊は「おもしれー!」と、軽くなった身体の感触を楽しんでいた。トランポリンを楽しむ子どものようだ。
境内の外へと続く、長い石段の前に立つ。
樹にとってこの古い作りの急な段差は、降りるときに手すりが必須だ。だがこの世界では二段、三段飛ばしで、ふわりふわりと羽のように舞い降りれる。最後には、残りの十段を一気に飛び降りて、麓の道へと着地できた。
そこには、静止した町が広がっていた。
ひび割れたアスファルトの道路には、一台の車もない。
家々の窓は黒く沈黙し、シャッターが下りたままの商店が、道の両脇に墓標のように立ち並ぶ。
畑や田んぼは、枯れた植物が残るだけで、乾いた灰色の土が剥き出しになっていた。町を分断する大きな川も、涸れている。
人や生命の営みが、まったく感じられない色褪せた世界。
二人はその静寂の中を、躊躇いがちに歩き出した。
*
「樹、こっち」
湊が、何の根拠もなく歩き出す。
お互いの自宅でも、学校でもない方向だ。
「どこに行くの」
樹が尋ねても、湊は「んー……」と首を傾げるだけだ。その足取りは何かを探るように慎重で、しかし目的をもって進んでいる。
「気のせいかな。うまく言えねえけど、こっちから『呼んでる』感じがするんだ」
漠然としすぎる応えに、樹は強い不安を覚えた。
かといってこの世界で自宅や学校へ行く勇気はない。
誰もいない、もしくはこの世界の生徒たちがいるかもしれない教室。
空っぽの、もしくは家族の姿をした家族ではない誰かがいるかもしれない自宅。
そんなホラーにありがちな光景に出くわしてしまうのが、怖い。
樹は黙って、湊の背中を追った。
暑くも寒くもない、この世界の温度。
肌を焼く太陽も、汗を乾かす風も存在しない。
土の匂いも、アスファルトの匂いもしない。
ただ、さくり、さくりと、自分たちの足音がガラス粒を鳴らす感触だけが、足裏に響く。
神社から続く道を下り、まばらに立つ家々の間を抜ける。
黒い窓から、誰かがこちらを監視しているようにも感じた。
やがて、ひび割れたアスファルトは途切れ、あぜ道に出る。
夏の世界では青々とした稲が風にそよいでいた田んぼも、ここではただ乾いてひび割れた、灰色の地面が広がっているだけだ。
遠くに連なる禿げた山々の稜線が、墨で描いたように黒々と空との境界を作っていた。
やがて、二人は公園に辿り着いた。
樹の記憶では、周辺の緑を活かした緑地公園だったはずの場所。
今、目の前にあるのは、子どもの姿も、遊具も何も無い静まり返った死の広場となっている。
公園の中央には、噴水広場がある。
水は涸れ、その受け皿にはガラス粒が溜まっていた。
湊が、何かに導かれるように噴水の反対側へぐるりと向かう。
樹も続く。
そして、見つけた。
涸れた噴水の縁石の前に、淡く光るものが落ちていた。
この色褪せた世界で、唯一、自ら光を放つ小さな希望のような、何か。
「指輪……?」
樹が呟く。
そこに落ちていたのは、ピンクの小さな宝石がはめ込まれた、可愛らしい銀のリングだった。この色褪せた世界の中で、不思議なほど鮮やかに、その石の色だけが目に映る。
湊は吸い寄せられるように指輪を拾い上げると、表面にかかったガラスの粒のような塵を、そっと指で払い落とした。
「うわ……」
目の前に掲げられたリングを見つめ、湊が声を漏らす。
「なんか、なんだろう、すっげぇドキドキしてくる」
「ドキドキ? なんで……あ、それって」
樹は、湊が「物の気持ちが分かる」と言っていたことを思い出す。
「この指輪の持ち主の気持ちかな。ドキドキしすぎて心臓がいてぇ。でも、嫌な感じじゃない。幸せな感じもするんだ」
湊の隣から、樹もその指輪の石を覗き込んだ。
その瞬間、くらりと強い目眩に襲われる。
「……っ」
瞼の裏に、鮮明なビジョンが映った。
黒い箱を開け、指輪をつまみ上げる男の手。
正面には、期待と不安に揺れる面持ちの、若い女の人。
――あの、みやちゃん、その、俺と……
頭の中に、緊張した若い男の声が響く。
――俺と……
「……プロポーズ?」
思わず、樹の口から言葉がこぼれた。
「え?」
「いま一瞬、見えたんだ」
「前に言ってた、予知能力のやつか!」
そこまで言って、湊は「はっ」と目を見開くと、太陽のように顔を輝かせた。
「確かめに行こうぜ!」
「えっ!?」
樹が反応するより早く、湊は指輪を握りしめたまま、もう片方の手で樹の手を掴んで走り出していた。
引っ張られるままに神社へと戻り、境内に続く急な石段も、身体の軽さに任せて二段、三段飛ばしで駆け上がる。ちっとも苦しくない。
お社の拝殿前の階段と賽銭箱を軽々と飛び越えて、揺らめく夏の世界へ飛び込んだ。
ぬるま湯に浸かったような熱気と、けたたましい蝉の声、目に痛いほどの鮮やかな色彩が、一気に二人を夏の世界に引き戻す。
「よし、行くぞ!」
湊は社の縁側にリュックをおざなりに置くと、再び樹の手を引いた。
「おっと!」
勢いよく石段を駆け下りようとした湊が、慌てて足を止める。
灰色の世界のようにはいかない。
二人は慎重に、しかし逸る気持ちを抑えきれずに階段を下り、灰色世界と同じ順路で公園へと向かった。
川からは水流が岩にぶつかる音、田畑の青は風にそよぎ、商店街からは人の話し声や車の走行音が心地よい喧騒となって耳に届く。日常の風景が、やけに懐かしい。
やがて、記憶の中にあった本来の姿を見せる公園が現れた。
手入れされた芝生が広がり、何の動物かよく分からない遊具が並び、子供たちが走り回り、あずまやでは老人たちが涼んでいる。
生命力に満ちた、夏の午後の光景だ。
二人は、息を潜めて噴水広場を窺う。
いた。
噴水の向こう側に、若い男女のカップルが。
だけど、様子が少しおかしい。
男の方はそわそわと落ち着きなく、何かを言いたそうに口を開いては、また閉じてしまう。女の方は、そんな彼の様子を不思議そうに見つめている。
樹と湊には、男が背後に組んだ手の中に小さな黒い箱を隠し持っているのが見えた。
「何してんだよ〜」
隣で、湊がじれたように呟く。樹が「しーっ」と人差し指を口に当てるが、もう遅かった。次の瞬間、湊が噴水の影から飛び出す。
「プロポーズしねーの!?」
「ちょ、湊……っ!」
樹が慌ててその口を塞ごうとするが、部活で鍛えられた声量が夏の公園に響き渡る。
カップルがびくりと肩を揺らし、驚いてこちらを振り向く。
二人とも――特に男の方は顔が真っ赤だ。
もう後には引けないと覚悟を決めたのか、あるいはヤケになったのか。
男は隠していた指輪の箱を恋人の前に突き出し、叫んだ。
「あの、みやちゃん、その、俺と……結婚してくださいっ!!」
心の底からの叫び。
差し出された指輪の箱を前に、「みやちゃん」は一瞬きょとんとしていたが、やがてその目にみるみる涙が溢れ、こく、こくと、何度も頷いた。
「あら、おめでたいわねえ」
「やったな、兄ちゃん!」
「お幸せにね!」
あずまやの老人たちが、にこにこと拍手を送っている。その声につられて、周囲からも「おめでとー!」と祝福の声が上がり始めた。
若い二人は照れくさそうに、けれど最高に嬉しそうな笑顔で、互いに見つめ合っていた。
小さな奇跡を前に、樹と湊はどちらからともなく笑顔で顔を見合わせた。
「あ……」
不意に湊が声を漏らし、手のひらを見つめる。
湊が握りしめていた銀の指輪が淡い光を放ち始め、その輪郭をゆっくりとほどいていく。やがてきらきらと輝く無数の光の粒子となり、湊の手のひらから、ふわり、と浮かび上がった。
夏の陽光に溶けていく細氷のように、光の粒は青空へと吸い込まれれて舞い上がり、そして、跡形もなく、すっと消えていった。
手のひらには、もう何も残っていない。
気のせいであったような、わずかな温もりだけを残して。
二人は言葉もなく、きらめきが消えて行った空をしばらく見上げていた。