ep.6 入り口
賽銭箱にもたれて脱力したまま、どれくらい時間が経ったか。
ようやく落ち着きを取り戻した頃を見計らい、樹が口を開いた。
「湊……交番、行こう」
「交番?」
「うん……どう考えても僕たちだけでどうこうできる問題じゃないよ」
「まあ、な。他の誰かに見つかっても、騒ぎになるだろーしな」
さすがの湊も、提案を飲み込むしかない。
二人は、丘の麓にある駐在所まで駆け下りた。
人の善い笑顔がトレードマークの、おっちゃん駐在さんは、息を切らして駆け込んできた二人に「どうしたどうした」と太い眉を上げてみせた。
「お、お社の様子が、変なんです! 何か、入っちゃいけないものがいるみたいで!」
しどろもどろな樹の説明に、駐在さんは「よしよし、分かった」と頼もしく頷くと、腰を上げてくれた。
駐在さんと一緒に石段を上がり、問題のお社の前で、樹と湊はごくりと唾を飲む。
駐在さんが慎重に、観音開きの扉に手をかけた。
ギィ、と年季の入った音を立てて、戸が開く。
そこにはやはり、ぐにゃりと捻じ曲がった円い「入り口」が、確かに存在していた。
だが。
「うーん? 何かおかしいかね?」
駐在さんは、怪訝そうに首を傾げるだけだった。
彼には、ぽっかりと空いた乳白色の穴が見えていないのだ。
「あっ……」
樹が思わず手を伸ばす。駐在さんは何の躊躇もなく、ゆらめく膜へと踏み込んだ。だがその身体は空間の歪みを通り抜けて、その向こうにある小さな祠の前に辿り着く。
「うん、祠も異常なし。何か盗られたっちゅうこともなさそうだね」
駐在さんは、お社の入り口を何度も行き来しながら、内部を点検している。
異界への扉を、駐在さんが何度もすり抜けて往復しているという、まるでチープな合成映像だ。
「じゃ、じゃあ動物だったかもしれないスね! お騒がせしてすみませんした!」
先に我に返った湊が、元気いっぱいの声で、深々と頭を下げた。
人の善い駐在さんは「はっはっは」と笑う。
「いいよいいよ、気にすんな。また何か困ったことがあったら、いつでも呼びなさいね。最近、物騒な事件も増えてるしね」
そう言い残して、駐在さんは一人で石段を下りていった。
後に残されたのは二人の高校生、そして二人だけに見える異界への入り口。
「……もしかして、他の人には見えない?」
「それか大人には見えない、とかも、よくあるパターンだよな」
樹と湊は顔を見合わせたまま、またしばらく立ち尽くしていた。
*
翌日、樹と湊は学校の図書室にいた。
灰色の世界から戻ってからというもの、樹の頭はめくるめくSF的な妄想でいっぱいだった。
前回と同じ窓際の閲覧机。
樹はその一番奥の席を陣取り、机の上に借り出してきた本を山のように広げていた。
『民俗学に見る神隠し』『最新宇宙論とパラレルワールド』、果ては『本当にあった!怪奇現象ファイル』といった、いかにも眉唾な本まで。開かれたページと睨み合いながら、樹はノートに何かを必死に書きつけている。
「僕たちの体験は、いわゆる『パラレルワールド』と呼ばれる現象に近いんじゃないかな。この本によれば、並行世界とは、観測されなかった量子力学的な可能性が実体化した世界、とされていて……」
樹が少し興奮気味に語りかけると、向かいの席で頬杖をついていた湊は、退屈そうに「うーん……」と相槌を打った。樹が語る蘊蓄は、湊にはちんぷんかんぷんといった様子だ。樹の話を聴きながらも、退屈そうに体を伸ばしている。
「もう一回行って、探検してみた方が早くね? いつ行く?」
「無防備すぎる! どんな危険性があるのか、予習しておいて備えないと……」
樹が必死な形相になると、湊は「真面目だなー」と軽く手を振って笑った。
「非常食のお菓子と、飲み物と、懐中電灯と、あとなんか武器になりそうな物……バットとかぐらいで良いんじゃね?」
「小学生の探検ごっことは違うんだよ……。救急セットとか、方位磁針、ロープだって必要になるかもしれない」
「無人島か!」
「無人島みたいなものだよ、あそこは……あ」
ふと思いついて、樹は手元のノートのページを勢いよく捲った。
『他の人には見えない。大人にだけ?』
昨夜、眠い目をこすりながら書きつけた、走り書きのメモがそこにある。
「……湊、クラスの誰か、声かけて……みる?」
子供にしか見えない妖怪や、神隠しのように、ある特定の条件を持つ人間にしか認識できない怪奇。伝承や怪談には、そういった例が山ほどある。
「ん〜……」
湊はしばらく腕を組んで考えていたが、やがて、ノートに添えられた樹の手に、日焼けした手を勢いよく重ねた。肌がぺちっと小気味良い音をたてる。
「二人でいこうぜ」
「えっ」
不意にどきりと、樹の心臓が強く跳ねた。
「説明すんの、めんどくさいしさ。一発でわかってもらえる自信ねーし。秘密にしとくってのも、楽しくね?」
「そ、そうだね……」
湊の手の中で、樹の手が小さく震えた。
「いいなー、楽しそう」
書棚の整理をしていた図書委員の女子生徒が、一見して何やら楽しそうに盛り上がっている男子二人を、羨ましそうに眺めていた。