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ep.5 灰色の世界

「同じ境内……?」

 樹の震える声が、灰色世界の不気味な静寂に吸い込まれていく。

 隣で、湊がごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。恐怖よりも、抗いがたい好奇心が彼の瞳をきらめかせている。


「すげえ……え、神社と同じ、だよな。パラレルワールドってやつ?」

「帰ろう、湊、 今すぐ!」


 樹は湊の腕を掴み、背後のお社を振り返る。たった今通り抜けてきたお社の扉の先だけが、まるで映画のスクリーンのように、鮮やかな夏の景色を映し出している。揺れる木漏れ日、深い緑、そして夕立のような蝉の声。あそこを潜れば、帰れるのだ。


「まあ待てって、樹」

 湊はやんわり樹の手をほどくと、逆に樹の手を掴んだ。

「おもしろそーじゃん、ちょっと探検してみようぜ。俺ん家とか、樹ん家とか、学校とかあるんかな?」

「や、やだよ! 怖いって……! 化け物とかいるかもしれないのに」

「大丈夫。何かあったら、すぐあそこから戻ればいい」

「でもこういうのって、ホラー漫画とかだと、幽霊とか、ドッペルゲンガーみたいなのが自分たちの家に住んでたりして、変な儀式があって、僕たちが襲われて、生贄とかになって、逃げるんだけど出口が閉じちゃって帰れなくなったりするんだよ!」


 樹が早口でまくし立てると、湊はチョコレートボールみたいな瞳を丸くして、ぽかんとした顔になった。次の瞬間、耐えきれないというように「ぶはっ」と噴き出し、腹を抱えて笑い出した。


「あはははは! おま、お前、いろんなもん詰め込みすぎだっつーの!」

 ひとしきり笑った後、湊はまだ笑いの残る声で、「ごめんごめん」と謝りながら、樹の手をぎゅっと握り直した。


「んじゃさ、とりあえず神社の中だけ、にしよ。心配なら樹が出口の方、ずっと見ててくれよ。閉じそうになったら、走って戻れる距離だ」

「……それなら……」

 樹がしぶしぶ頷くと、湊は「よし」と笑った。


「あっちから町が見えるから、どうなってるか覗いてみようぜ」

 手水舎の向こう、崖に沿って設けられた手すりの方へ、湊は樹の手を引いて歩き出す。


 さくり。


 スニーカーの裏に、乾いた土とは違う感触がした。

 地面を覆っているのは、すべてを均一に覆う、灰色のきめ細かいガラス質の砂。

 歩くたびに霜柱を踏んだような感触がして、二人のスニーカーの跡が、くっきりとそこに刻まれた。湊に引かれて進むと、蹴散らされた砂粒が、鈍く煌めいている。


 二人で手すりのところまでやってきて、高台から町を見渡す。

 そこから見えた風景は、まさしく二人の記憶にある町並みそのものだった。


 通っている高校も、駅も、川も、橋も、川向こうの大型スーパーも、その向こうの稜線も、すべてがそこにある。


 だが、そのすべてが、まるで精巧に作られたジオラマのように、現実感を失っていた。


 重く厚い灰色の雲が空を覆い、太陽の光を遮っているせいで、世界から影というものが消えている。色はあるはずなのに、すべての建物や木々が灰色のフィルターを一枚通したように色褪せて、この世の彩度が、ごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。


 そして、音がない。

 いつもならここまで聞こえてくるはずの、下の道路を走る車の音も、用水路を流れる水の音も、定時を知らせる町内放送も、何も聞こえない。鼓膜を震わせるほどの虫や鳥の声も、ここでは完全に沈黙している。

 無風。草木が揺れる音すらない。

 さくり、と自分たちが立てる足音すら、この重たい空気にじっとりと吸い込まれて消えていくようだった。


 匂いもなかった。

 夏の草いきれも、土の匂いも、何もない。

 完全な無音と無臭の世界。

 生命の営みの気配が、一切ない。

 まるで時が止まった、灰色のゴーストタウン。


 二人は呼吸を忘れ、まるで世界の終焉を目撃しているかのように、ただその光景に釘付けになっていた。


 静寂を破ったのは、湊だった。

「も、戻ろう、樹」

 いつもの快活さが消え失せた、硬く、引き攣った声。さすがの湊も、この世界の底知れない不気味さに恐怖を覚えたのだろう。言うが早いか、彼は樹の手を強く掴むと、身を翻した。


 お社へと、二人で小走りに逃げ帰る。

 拝殿へと続く四、五段の木の階段と、その上に鎮座する大きな賽銭箱が、行く手を阻むように見えた。


「樹、跳ぶぞ!」

「えっ、え!?」


 短い掛け声と同時に、湊が樹の手を強く引いた。

 ぐっと地面を蹴る力強い感触。


 一瞬の浮遊感。

 樹の身体が、湊に引かれるまま宙を跳ぶ。


 二人の体は重力から解き放たれたかのように、古い木の階段と賽銭箱を、いとも軽々と飛び越えた。

 そのまま、扉の向こうに揺らめく色鮮やかな夏の世界へ、飛び込む。

 再び、全身がぬるま湯にざぶりと浸かる生温かい感覚に包まれた。


「わわっ!」

 次の瞬間、二人の身体は、「いつもの」神社の拝殿の前に転がり出ていた。


 ジリリリ、と鼓膜を突き破るような蝉時雨が、真っ先に二人を迎えた。

 湿った土と草いきれの匂い。

 肌にまとわりつく、じっとりとした熱気。

 木々の葉は目に痛いほど鮮やかな緑色に輝き、強い日差しが地面に影絵のような濃い影を落としている。


 音も、匂いも、熱も、光も、失っていた世界から、一斉に五感の情報が流れ込んできた。


「……ちゃんと、戻ってきた……」

 樹が、かすれた声で呟く。

「……ああ……」

 湊も、息を切らしながら頷いた。


 途端に、安堵と疲労で全身から力が抜けていく。二人はその場にへなへなと座り込んだ。拝殿の賽銭箱に並んで背中を預け、手を固く繋いだまま、荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

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