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ep.4 異界

 終業式を数日後に控えた、七月のある日の放課後。

 靴底が溶けそうに熱せられたアスファルトに、陽炎を揺らす蝉の声が降り注いでいた。


 だが、いつものように、樹と湊が落ち合った『秘密基地』である神社の境内は、別世界のように涼やかだった。下界の喧騒は、木々の厚い葉陰が遮ってくれている。


「つまり、僕の能力は『プレコグニション』、予知。湊のは『サイコメトリー』、接触感応能力、つまり触って読み取る。問題は、なぜ今、僕たちにこの能力が現れたのか……なんだよね」


 樹は、図書館から借りてきた『世界超常現象大百科』のページを指さしながら、真面目くさった顔をした。少し黄ばんだ本のポケットに差し込まれた図書カードには、「貸出日 2014年 7月16日」とスタンプが押されている。


「プレ……? よくわかんねえけど、要は俺たち、漫画の主人公みたいになったってことだろ!」

 隣に座る湊は、樹の小難しい解説はさして興味がない様子で、自分たちに訪れた「特別」を楽しんでいる節があった。


「そんな呑気な話じゃないと思うんだよね……。よくある物語では、能力の発現にはきっかけがあるんだ。事故とか……何かあった?」

「さあ? 別に、普通だけど。部活いって、飯食って、寝て、学校行って、のループ」

「だよね……。僕も。まさか神社のご利益とか」

「賽銭やってねぇけど?」

「うーん……」

 樹が腕を組んで唸った、その時だった。


 コツ、と乾いた音がした。


 二人が腰掛けていた、古びたお社の濡れ縁、その背後から。

 中で、何かが倒れたような小さな物音がしたのだ。


「?」


 二人は同時に振り返る。

 この神社は、いつからか神主もいない無人の社だ。

 にもかかわらず、目の前のお社は不思議と朽ち果ててはいない。

 埃はかぶっているが、柱はしっかりしているし、雨戸が外れているわけでもない。


「……猫か、イタチでも入り込んだのかな」

 樹が言うと、湊はすっと立ち上がり、社の扉へと近づいていった。


「湊?」

「……違う」

 湊は、社の分厚い木の柱にそっと手のひらを触れていた。


「動物じゃない。なんだろ、これ……呼んでる、みたいな……」

 湊の声は、いつもの快活さが嘘のように、低く、掠れていた。

 柱に触れたままの彼の横顔は、見たこともないほど真剣な表情を浮かべている。

 眉をひそめ、遠くを見るような、それでいて何も見ていないような、虚ろな瞳。


 樹には、湊がただの木の柱ではなく、その奥にある何か得体の知れないものと対話しているように見えた。

 図書館で聞いた「物の気持ちがわかる」という話。今、彼は、この社から何かを強く感じ取っているのだ。湊から発せられる張り詰めた空気に、樹は息をすることも忘れ、その横顔に見入っていた。


 柱から手を離した湊が、ふらり、と何かに導かれるように歩き出す。

 お社の縁側へと続く二、三段の木の階段を上り、観音開きの重い扉に、両手をそっとかけた。


 その姿に、はっと我に返った樹が叫ぶ。

「ダメだよ、勝手に開けたらバチが当たる!」


 だが、その声は湊の耳に届いていないようだった。湊は、まるでそこに当然あるべき道を開くかのように、ゆっくりと扉に力を込めていく。

 ギィ、と重く軋む音を立てて、扉が開く。


 その先は、樹が知っているお社の内部ではなかった。


 薄暗闇の中に小さな祠が鎮座しているだけのはずの空間が、ぐにゃり、と陽炎のように捻じ曲がっている。

 壁も、天井も、床も、境目が曖昧に溶け合っているようだった。


「な……んだ、これ……」

 樹が後ずさると、歪んでいた空間は次第にその輪郭を失い、やがて、乳白色の光が渦巻く、のっぺりとした膜へと姿を変えた。

 円い境界、ダンジョンか異世界への入り口とでも言うべきものが、ぽっかりと口を開けている。


 不意に湊が、足元の玉砂利から手頃な大きさの石を一つ拾い上げた。ためらわずその光の膜へとひょいと放り投げる。

 石は光の中に、音もなく吸い込まれて消えた。お社の壁にぶつかるはずの乾いた音は、いつまで経っても聞こえてこない。


「……消えた?」

 次に湊は、おそるおそる自らの手をその光へと伸ばし始めた。

「危ないって……!」

 樹の制止も聞かず、湊はまず人差し指の先をその光の膜へ、つん、と突っ込んでみた。


「……痛くも、熱くもねえな」

 湊はぶらぶらと手首を振ってみる。まるで水面を出入りするように、膜の手前と奥を、指が抵抗なく行き来するだけだ。湊はさらに大胆に、肘のあたりまで腕をぐっと差し込んだ。


「何も無ぇみたいだけど」

 光の幕の向こう側で、湊が何かを探るように手首を動かしているのが、腕の筋肉の動きでわかる。だが、こちらからはその手の動きは一切見えない。伸ばせばすぐに届くはずの、お社の奥の祠にも、指先が触れる気配がなかった。


 湊は、すっと腕を引き抜く。濡れてもいなければ、火傷の痕もない。何の異常もなかった。


「……なあ、樹。入ってみようぜ」

 湊が、好奇心と確信に満ちた声で、呟いた。


「な、何言って……! 危ないに決まってるよ!」

「でも、気になるじゃんか。何があるのか」

「やめよう、絶対におかしい!」

「大丈夫だって」


 湊が白い幕へ一歩足を踏み出す。

「待てって!」

 樹は咄嗟に湊の腕を掴んだ。

 湊が振り返る。

 その瞳は、普段の快活さの奥に、吸い込まれそうな光を宿していた。


「……湊……?」

 金縛りにあったように、その目に抗えなかった。縋るように掴んだ湊の腕が、樹を導く。

 引かれるまま、樹は湊と共に恐る恐る、白い幕の中へ体を滑り込ませた。


 一瞬、冷たい水の中に飛び込んだような感覚。

 全ての音が消え、視界が真っ白に染まる。


 次の瞬間、二人が立っていたのは、見たことがあるようで、見知らぬ世界だった。


 目の前に広がる光景は、紛れもなく、さっきまでいた神社の境内だ。

 巨木も、石灯籠も、手水舎も、寸分違わぬ配置でそこにある。二人が立っているのも、見慣れた拝殿前の石畳の上だった。


 だが、その世界の様相は、あまりに違っていた。


 鮮烈なまでの夏の青と緑は、跡形もなく消え失せていた。

 空は、どこまでも見渡す限り、分厚く重たい灰色の雲に一枚岩のように覆い尽くされている。太陽の姿はなく、世界は均一で影のない光に満たされ、そのせいで、あらゆるものが色を失って見えた。


 木々の緑はくすんだ墨色に、神社の柱の朱色は黒ずんだ赤茶色に沈んでいる。

 さきほどまでいた世界の鮮やかさとの対比で、まるで世界から色がごっそりと抜け落ちてしまったかのようだ。


 風はなく、あれほど鳴り響いていた蝉の声も嘘のように途絶え、冷たい静寂だけが支配している。


「な、何、ここ……!」


 振り返ると、そこには自分たちが今くぐってきた、お社。

 観音開きの扉が開いており、まるで額縁に切り取られた絵画のように、さっきまで自分たちがいた夏色の景色を映していた。

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