ep.3 能力
傾きかけた夏の西日が、図書室の大きな窓から光の帯びを垂らし、空気中を舞う無数の埃を金色に照らし出していた。
静寂を支配しているのは、規則正しい空調の音と、時おり誰かが本のページをめくる乾いた音だけ。
樹は、書架の薄暗い陰に身を隠すようにして、目的の本を探していた。
『精神世界』『未解明の謎』といった、人が足を遠ざけがちな胡散臭い背表紙が並んでいる。自分の身に起きている現象を説明できそうな言葉を、樹は藁にもすがる思いで探していた。
『世界超常現象大百科』『予知能力は実在するか』。数冊の本を抜き出し、人目につきにくい窓際席に腰を下ろす。周囲を窺いながら、恐る恐る一冊目をめくった、その時だった。
「よっ。今日は秘密基地《神社》じゃないんだ?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
「うわっ!」
樹はビクッと肩を揺らし、読んでいた本を反射的に裏返して机に伏せる。
心臓が口から飛び出しそうだった。
見上げると、運動部のジャージ姿の湊が、少し紅潮した顔で立っていた。
「お、驚かせたか? 悪い」
「……湊。なんで、ここに」
「ちょっと、調べ物したくてさ」
湊はそう言うと、樹の向かいの椅子を無遠慮に引いて腰掛けた。
ふわりと届く、制汗剤の香り。
「何読んでんの? 『世界超常現象大百科』…… 樹って、そーいうの好きなのか?」
隠しきれていないタイトルを、湊の視線が目ざとく捉える。
「 これは、その、たまたま……ちょっと調べ物で……」
狼狽する樹に、湊は「ふーん」と面白がるように口の端を上げて相槌を打った。
「湊こそ、図書館に来るなんて珍しいよね」
少しでも自分の動揺を隠したくて、樹は精一杯の皮肉を込めて言い返した。
「バカにすんなよ~。ま、そうなんだけどさ」
湊は肩をすくめて頭を掻いた。
「何か調べ物? 手伝おうか?」
樹が尋ねると、それまで快活だった湊の表情が、ふっと翳った。
少し言いにくそうに視線を泳がせ、指先で机の表面を意味もなく撫でている。
やがて、意を決したように顔を上げると、湊は声を潜めて尋ねた。
「樹ってさ、超能力って、信じる?」
「どうして急にそんなこと……」
自分の心を見透かされたようで、樹の心臓が大きく跳ねた。
湊は、そんな樹の動揺には気づかない様子で、真剣な眼差しのまま続けた。
「俺さ、なんか、あるっぽい……んだよね。なんか、分かるっていうか、感じる、のかな」
湊はうまく言葉にできないというように、曖昧に手を動かした。
「……何を?」
「物の、気持ち。みたいな? うまく言えねえんだけどさ。例えばこの机とか。じっと触ってると、いろんな人の感情がごちゃ混ぜになって流れ込んでくるみたいで、頭が痛くなる時があるんだ」
「……物の、気持ち……?」
樹が聞き返すと、湊はこくりと頷いた。
「そう。嬉しいとか、悲しいとか、そういうのが色んな物に閉じ込められてるっていうか。こないだ、野球部の友達が大事にしてるグローブをちょっと触らせてもらったんだ。そしたら、なんて言うか……『絶対勝つ』みたいな、熱い気持ちがじわって伝わってきて、すげーあったかくなった」
湊は一度言葉を切り、樹の反応を窺うように視線を向けた。
樹が何も言えずにいるのを確認すると、続ける。
「でも逆に、駅のベンチに忘れられてた傘に触ったときは、すっげー寂しい感じがしたんだ。『あーあ』ってがっかりしてる、持ち主の気持ちがそのまま残ってるみたいでさ」
「それって……」
樹は、自分が読んでいた本のページを思い出す。
「サイコメトリーってやつ、かな。漫画で見たことあるけど。物に触れることで、持ち主の感情や記憶を読み取る能力のことだ」
樹が説明すると、湊は「へえ、そんな名前あんだ」と少し感心したように頷いた。
「でも、そこまではっきり分かるんじゃないんだよな。なんとなく、これが嬉しいのか、悲しいのかが分かる、くらいだけどさ」
そう言って、湊は少し困ったように笑った。
あっけらかんとした告白に、樹の中で張り詰めていた警戒心の糸が、ぷつりと切れた。
「いつから?」
「え?」
「いつから、その不思議な感覚がするようになったの?」
樹の真剣な問いかけに、湊は机に身を乗り出す。
「それがさー、急に、なんだよ。二、三日前くらい前からかな」
樹が妙なビジョンを見るようになったのと、同じ頃だ。
一人で抱え込んでいた秘密の重さが、少しだけ軽くなった。
樹は小さく息を吸い込むと、思い切って口を開いた。
「……僕も、なんだ」
「え?」
「僕の場合は、予感、というか……これから起こることが、一瞬だけ映像で見えるんだ」
階段や野球ボール、そして老婆の事件を語って聞かせると、湊は、信じられないものを見るように目を瞠った。
「予知能力ってやつ?? すげーじゃん!」
「しーっ!」
樹は慌てて人差し指を口に当て、周囲を見回す。
幸い、他の利用者には聞こえていないようだった。
「誰にも言えなくて、僕もまだよく分かってなくて……このことは、秘密にしてほしいんだけど……」
樹が真剣な目で訴えると、湊も悪戯っぽさを消し、こくりと頷いた。
「おう、わかった。俺のも。二人だけの秘密な」
二人だけの秘密。
その言葉がもつ甘美な余韻に、樹の胸がどきりと弾んだ。
西日が差す図書館の片隅で、二人の視線が交差する。
夏の入口で、ひとつ秘密が共有された。