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ep.2 予知

 教室の日めくりカレンダーが、七月も半ばに近づいてくる頃。

 蝉の声に塗り込められるように、じっとりとした熱気が教室に満ちていた。

 期末試験も終わり、あとは終業式を待つばかり。誰もがどこか浮ついていて、教師の声さえも気怠いBGMのように右から左へと抜けていく。


 樹は、窓の外に湧き立つ入道雲を眺めながら、このまま何が起きるでもない夏休みに突入するのだと、ぼんやり考えていた。

 ふと、教室に目を戻す。

 数メートル先で、瀬戸口湊が椅子を斜めに引き、仲間たちと笑い合っていた。


 色素の薄い茶髪が、窓から差し込む夏の光を弾いている。

 日に焼けた腕で大げさな身振りを交え、ときおり、明るい笑いを弾ませる。

 彼の周りには、いつも自然と人の輪ができる。

 女子も男子もなく、誰もが彼の快活さに引き寄せられている。


 まるで違う光の中にいるようだ。教室での湊は、樹にとってそれくらい遠い世界の住人だ。

 だけれど、神社で時おり見せる、少しだけ静かな横顔を知っているのは、もしかして自分だけかもしれない。


 そんな取るに足らない優越感が、甘く小さな痛みとなって、樹の胸をほんの少しだけ締め付けた。



 予鈴が鳴り、次の教室へ移動する生徒たちで、階段はごった返していた。

 樹が人の流れに乗ってゆるりと階段を降りていると、同じクラスの女子生徒が横を駆け抜けようとした、その瞬間。


 ――きゃあっ!


 頭の内側で悲鳴が弾け、つづいて階段を転げ落ちる映像が、現実ではないはずの光景として目の前に流れた。


「――っえ……と、待って!」

 考えるより先に、声が出ていた。樹は反射的に、その女子生徒の腕を掴む。


「え、何? ちょっと、相沢くん」

 女子生徒は驚きと困惑が入り混じった顔で、樹を見る。

 周囲の視線が一斉に集まり、樹は咄嗟の言葉に詰まった。


 その直後だった。


「わわっ、ごめん!」

 上階から間の抜けた声がして、ガタガタガタッ、と激しい音が階段に響き渡った。

 掃除用具入れから滑り落ちた金属製のモップとバケツが、凶器じみた勢いで滑り落ちてくる。


「わっ!」

「あぶなっ!」

 生徒たちが悲鳴を上げ、身を引いた。

 もし、あのまま駆け下りていたら、間違いなく足を取られて転げ落ちていただろう。


「……すごい、よく見てたね、ありがとう」

 呆然とする樹に、女子生徒は頬をわずかに染めて礼を言い、人混みの中へと紛れていった。樹は、じんわりと汗をかいた自分の手のひらを見つめたまま、立ち尽くしていた。


「おー、相沢! 今のすげーな!」

 後ろから不意に肩を叩かれた。振り返ると、湊がニカッと歯を見せて笑っている。

「見てたぜ。ナイス反射神経!」

 湊はもう一度、楽しそうに樹の肩を叩いて、「んじゃ!」と軽く手を上げると、まだざわめきの残る階段を器用にすり抜けて去っていった。


 残された樹は、湊の消えた方向を見つめたまま、小さく首を振った。

「何……だったんだ……」

 自分の意思とは無関係に流れ込んできた音と映像。樹は、自分の中に自分ではない存在が入り込んだような、得体の知れない恐怖を感じていた。



 同じ現象が、その日の下校中にもやってきた。

 グラウンドの脇道を歩いていると、野球部の練習の音が聞こえてくる。

 金属バットの高い音が響いた、まさにその一拍あと。


 白い弾丸が自分に突っ込んでくる映像が、閃光のように脳裏をよぎった。


 ――痛っ……!


 幻の痛みに、自分の声が頭の中に響く。


「ぇ……うわっ!」

 樹は反射的に後ろへ飛び退いた。

 次の瞬間、フェンスを越えた硬球が、さっきまで樹の足があった場所をえぐり、高く跳ね上がって道路へ転がっていった。


「悪い! 当たらなかったか!?」

 野球部員たちの声が、フェンス際に集まってくる。

 もし、飛び退いていなければ、硬球は樹の足に直撃していただろう。


 二度あることは、三度ある。

 学校を離れて、農道脇の通学路を歩いていた時のことだった。

 前方から歩いてくる、杖をついた老婆とすれ違う直前。


 ――ひゃぁっ!


 老婆の悲鳴とともに、片足がドブに吸い込まれて尻餅をつく映像が、瞼の裏に流れた。


「おばあちゃん、止まって!」

 樹は声を張り上げた。

 老婆はびくりと肩を揺らし、驚いたように樹を振り返る。

 その足は、錆びついた鉄製のドブ板の寸前で止まっていた。


「……ど、どうしたんだい、急に大声出して」

「すみません、その、そこ、危ないような気がして……」

 しどろもどろに言い訳する樹を、老婆は不審者を見るような目で見ていたが、やがて杖でコン、とドブ板の端を突いた。

 すると、ガタン、という大きな音と共にドブ板の片方が外れ、ぽっかりと暗い口を開けた。


「おやまぁ……危なかったわぁ、ありがとうねぇ!」

 驚いた老婆は目を白黒させながら何度も礼を言って、しわくちゃの手でポケットに入っていた飴玉を樹に握らせた。


「い、いいえ……」

 手のひらの飴玉を呆然と見つめ、樹は今日の出来事を何度も頭の中で反芻した。


 これは、いったい何なんだ。

 ただの直感じゃない。

 頭の中に、未来の断片が、警告のように映像として瞬くのだ。


 樹は、逃げるように神社へ向かった。

 拝殿の脇に座り込み、抱えた膝に顔をうずめる。


 結果的に、三回も他人と自分の危険を退けた。

 こんなことは、当たり前だが、初めてだ。


「これって、予知能力……とか……?」

 口にした途端、あまりにアニメやゲームの世界じみた単語の響き。

「馬鹿馬鹿しい……」

 樹は、自嘲の笑いを漏らした。


 その時だった。

 境内の静寂を破って、タタン、タタタン、とリズミカルな足音が石段を駆け上がってくるのが聞こえた。誰かが、二段飛ばしでこちらへ向かってくる気配。この軽やかな足音は、あいつだ。

 間も無くして、見慣れた姿が現れる。


「よっ、樹。やっぱりいた」

「……湊」

 汗を反射させながら快活な笑顔を浮かべる湊は、今日もその手に、ソーダ味のアイスを持っている。


「もうすぐ夏休みだなー。お前、どっか行ったりすんの?」

「別に……」

「俺んとこもー。部活がちょっとあるくらいだな。樹は、図書委員の仕事あんだろ?」

「うん、八月にちょっと。新刊が入るから搬入の手伝い」


 他愛もない会話のあいだも、樹の思考は自分の身に起きた不思議なできごとにとらわれていた。何でもない日常世界で、自分だけが異物になってしまったような孤独感が、腹の内側を蝕んでいくようだ。

 湊の明るい声だけが、遠いこだまのように、夏の気怠い空気の中に溶けていった。

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