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夏の異界  作者: キタノユ
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エピローグ 「落とし物」

 八月三十一日――夏休み最後の日は、日曜日だった。


 読みかけの文庫本を、いつものトートバッグに入れる。それだけの、簡単な支度を終えて、樹は自室を出た。


 玄関へ続く長い廊下。磨かれた板が、朝の光を薄く返している。

 その途中で居間にそっと顔を出すと、祖父母と父親、弟の陽が、のんびりとテレビを観ていた。麦茶の氷の音、新聞の紙の匂い、扇風機の首振り――ありふれた夏の日曜日、午前の光景が、いつもより鮮やかに胸へ沈む。


「あ、兄ちゃん、出かけるの?」

 樹の気配に気づいて、陽が、ソファから振り返った。膝にかけたタオルがずり落ちる。


「うん。友達と、約束してるから」

「ほんと!? 帰りにアイス買ってきて! ソーダのやつ!」

「はいはい」


 祖母が、穏やかな顔で言う。

「そうかい。気をつけてなぁ」


 祖父が、新聞の向こうから、ぶっきらぼうに。

「帽子を、ちゃんと持っていくんだぞ」


 父が、少しだけ厳しい声で。

「明日から、また学校だ。あまりハメを外しすぎるなよ」


「……うん」

 樹はその光景を、一人一人の顔を、目に焼き付けるように、じっと見つめた。

 声、仕草、表情――この家の温度を、鼓膜と網膜に深く刻みつける。


 最後に、水筒を取りに玄関手前の台所へ向かった。

 シンクの前に立つ、母の後ろ姿。


「麦茶、持ってくでしょ?」

 振り返った母の手には、すでに水滴をびっしりとつけた、樹の水筒が握られていた。


「うん。ありがとう」

 受け取って、もう一度だけ母の顔を見る。

 目尻の細い皺、濡れた指先の冷たさまで、丁寧に覚えておく。


「え、何よ。私の顔に、目やにでもついてる?」

 慌てて瞼のあたりをこする母に、樹は少し笑ってみせた。

「ううん。何も」


 台所を出る。玄関でいつものスニーカーに足を滑り込ませる。紐をきゅっと引く感触。

 最後にもう一度だけ、肩越しに家族のいる方角を振り返った。


「いってらっしゃい」

 エプロンの裾で手を拭きながら、母が優しく手を振る。

 樹はこくりと頷いて、玄関の引き戸を開けた。

 少しガタついた、重たい感触が掌に伝わる。


 じりじりと肌を焼く、夏の終わりの日差し。

 乾いた土とアスファルトの匂い。

 ツクツクボウシの、どこか必死な鳴き声。


 表札の門を通り過ぎる直前、樹は家を振り返った。

 深い軒、黒光りする瓦屋根。縁側は風を通し、居間の窓の奥に家族のシルエットが揺れている。


 弟の陽がこちらを見つけ、ぶんぶんと手を振った。樹も小さく振り返す。

「行ってきます」

 口の動きだけで返事をし、樹は愛しい日常に背を向け、歩き出した。



 神社に到着すると、まだ、湊の姿はなかった。

 夏休み最後の日曜日、相変わらずこの忘れられたような高台の神社は静かだ。

 盛りを過ぎた蝉の声と、木の葉を揺らす風の音だけが満ちている。


 樹はいつもの濡れ縁に腰を下ろし、文庫本を開いた。紙の白さが、光に透ける。


 しばらくして――がしゃーん、と、石段の下の方で自転車が派手に倒れる音がした。

 続いて、タタタン、と、二段飛ばしで駆け上がってくる、軽い足音。

 やがて鳥居の向こうから、見慣れた姿が現れた。


「よっ」

 湊が気さくに手を振って、近づいてくる。

 手にはヤマグチ商店の、白いビニール袋が揺れていた。

 中から水色のソーダアイスを二本取り出すと、そのうちの一本を、樹へと差し出す。


「宿題、手伝ってくれた礼な。おごるぜ」

「また、当たり棒が出たんだ?」

「実は、そうなんだよなあ」


 湊が、大げさに首をすくめてみせる。

 樹は目を細め、汗をかくアイスの袋を受け取った。人工的な甘い匂いが、鼻先に漂う。


 二人は並んで座り、同じ方向を見て、同じ速度で溶けていく氷の冷たさを舌で確かめる。

 どちらからともなく、無言になる。

 樹は本を読むふりをし、湊は濡れ縁に寝転がって空を見上げるふりをする。ただ、すぐ隣にある互いの気配だけを、感じていた。


 食べ終わったアイスの棒が、二本、ビニール袋の底に並ぶ。

 正午のチャイムが、風に乗って麓から届いた。


「……?」


 寝転がっていた湊が、ゆっくりと身体を起こした。お社の扉の方へと、身体を捻る。自然と樹との顔が近づき、睫毛の影が触れ合いそうになる。


「どうしたの?」

 つられて樹も、扉の方を向く。


「……なんか、呼んでる」

「え……、『落とし物』?」

「なんかすごく、優しい感じがする……」


 湊はこくりと頷き、立ち上がった。樹も、続く。


「久しぶりだね」

「ああ。なんで、今頃……」


 湊がお社の扉を開ける。

 その向こうで、灰色の世界への入り口が、揺らめいていた。


 それは、すぐに見つかった。

 灰色世界のお社を抜け出して、段差を下りた足もとに。

 地面に淡く光る、小さな何かが落ちている。


「これ……」

 湊が拾い上げたのは、一本の組紐のブレスレットだった。

 いま湊の手首で結ばれているものと同じ編み目、同じ結び。


「……俺の、ブレスレットだ。ちょっと、汚ねえけど」

 色糸の一部が、古い染みのように赤黒く変色している。

「血……」

 樹が呟いた、その時だった。


「ぅ……っ」

 視界に、激しいノイズが走る。強烈な目眩。

「樹? 何か見えたか?」

 湊の声が蝉時雨に溶け、遠ざかる。


 目の前に、神社の長い長い石段が映った。


 ――湊……いるのか……?


 石段を見上げる、誰かの声。

 知らないはずなのに知っている、若い男の声だ。

 一歩、また一歩と石段を踏みしめていく足。

 見慣れない、黒い革靴。


 ――きっつい……


 苦しげな息遣い。

 また目の前に、激しいノイズが走る。


「――っ!」

 数度瞬きし、樹は頭を振る。

 すぐ隣に、心配そうな湊の顔。


「大丈夫か? 何が見えた?」

「これは……」


 樹が顔を上げた、その時だった。


 灰色のお社が内側から淡く、白く、輝き出した。

 開け放たれた扉の向こうから、今まで見たこともない、まっさらな白い光が流れ込む。


 初めての現象を前に、二人はこくりと喉を鳴らし、視線を交した。


「……帰ろう、湊」

 樹は、湊の手を取った。重なった掌から、体温が背骨へ伝う。


 白い光が、呼んでいる。

 帰らなきゃ。


「僕たちの、世界へ」

「――ああ」


 二人は、奔る光の扉をくぐった。


 世界が、白一色に染まっていく。

 無音の底から、やがてツクツクボウシの音色だけが、ゆっくりと近づいた。



 タン……タン……


 革靴が、重たい拍を刻む。

 手すりに頼りながら、樹はデスクワークですっかり鈍りきった脚に鞭を打って、一段、また一段と、頂上を目指した。汗が襟元を伝うたび、あの夏の空気が喉に戻ってくる。


 蝉時雨のアーチを抜け、古びた鳥居をくぐり、人気のない境内へと踏み入れる。

 頭の上から、さわさわと葉擦れの音が降ってきた。

 ひっそりとたたずむ拝殿と、水が涸れた手水舎、よく二人で時を過ごした濡れ縁。


「湊……?」

 境内を抜け、樹は町の景色が見渡せる崖の手前まで進む。

 火傷しそうなほど熱い手すりに寄りかかり、眼下に広がるミニチュアのような故郷を眺めた。黄金色に近づいた田んぼと、そこに点在する家々の屋根。


 湊。


 もう一度、胸の内でその名を呼ぶ。


 あの夏、湊はここで死んだ。

 暴漢に襲われた樹を庇って、刺された。


 毎日、毎秒、後悔した。


 なんでもっと、勇気を出せなかったのだろう。

 ほんの少しの勇気があれば、あの男に反撃して、湊を救うことができたのではないか。


 もう少し勇気があれば、もっと、湊と仲良くなれたのかもしれない。

 もう少し勇気があれば、学校でも湊ともっと話ができたのかもしれない。

 もっと話をして、一緒に遊んで、夏休みを一緒に過ごしたかった。


 全て、足りなかった。

 あと少しの勇気が。


 この町では、樹にとって耐えられない出来事が起こりすぎた。

 同級生の女子生徒が、変質者に殺された。

 樹も襲われ、殺されかけた。

 代わりに湊が死んだ。


 その後の樹は精神的にひどく不安定になり、学校を休みがちになった。

 樹の心身を案じた両親は、祖父母を説得して実家を畳み、一家で再び東京へ戻ることを決意した。

 樹は高校二年生から都内の学校へ編入し、それ以来、一度もこの町に戻ることはなかった。


 それから、十一年目の夏。

 抗えない引力に連れられるように電車を乗り継ぎ、ここに帰ってきた。


 じり、と首筋を灼く熱。

 左手を掲げ、樹は手首のブレスレットと、故郷の景色を重ねた。


 湊。

 ここに、いるのか?

 心の中で、強く、呼びかけた、その時――


「樹」

 湊の声がした。



 世界が、極彩色を取り戻す。

 蝉時雨が、祝福の通り雨のように降り注いだ。


「樹」

 呼ばれて瞼を開くと、すぐ目の前に湊の顔。眉間にうっすらと皺を寄せて、心配の色を浮かべている。


 樹は自分の足もとを見て、手首を見る。

 いつものスニーカー。何も着けていない素肌の手首。


 ここは、この世界は、高校一年生の夏休み最後の日。


「みなと、僕……っ」

 喉がひゅっと鳴る。

 膝から力が抜け、樹はお社の段差にへたりこんだ。

 湊が肩を抱き、同じ高さまで腰を落とす。肩越しに、風が通り抜けた。


 何から話せばいいのか分からない。

 樹の身体の内に雪崩れ込んできた、十一年分の後悔と、叶えられた夏の願いとが溶け合って、世界の輪郭を曖昧にする。


「僕……」

 樹がただ唇を震わせていると、湊の温かい手が、そっと樹の肩に触れた。


「樹」

 こっちを向け、というように、優しく引く。

「俺、ここでずっと、樹を待ってた」


 チョコレートボールのような焦茶の瞳が、樹の瞳をまっすぐ射抜いた。


「ずっ、と……?」

 言葉がままならず、樹の声が喘いで揺れる。

 樹の混乱ごと受け止めるように、湊の口元から、ふっと力が抜けた。


「ここは、俺が無理に笑わなくてもいい場所だった。何もしなくても、ただここにいるだけで良いんだって、樹が思わせてくれた場所だ」


「……湊……」

 樹の行き場のない感情が、瞬きと共に大粒の涙となってこぼれ落ちた。

 湊の指先が樹の顎のラインを辿り、熱い雫をそっと掬う。


「俺、樹と、もっと仲良くなりたいって、ずっと思ってた」


 湊は静かに立ち上がると、樹の手を取ってゆっくりと、立ち上がらせる。お社の段差を下り、樹の手を引いたまま石畳を進み、町の景色が見渡せる手すりへと導いた。


「もっと生きたかったな、って……夏休み、樹ともっと遊びたかったなってさ。そうやって強く念じてたら」


 呆然とする樹へ、湊は手すりをぽんぽんと優しく叩いて示す。

「ここに、樹が来たんだ。なんだかくらーい顔した樹が」


 湊は、片手に握りしめていた「落とし物」のブレスレットを樹に差し出した。


「こいつが、全部、見せてくれた。俺たちの願いを」

 湊は樹の手をとり、何も着けていない手首にブレスレットを、するりとはめる。「お揃い」のブレスレットが、重なり合う。


「湊……僕も……僕も、見た。……ううん、『思い出した』んだ」

 樹は湊の隣に並ぶと、手すりの向こうに見える景色を一瞥した。


「ここで、こうやって町の景色を眺めながら、湊に会いたいって。そしたら……」

「……樹」


 湊の顔が、ゆっくりと近づく。

 樹は吸い寄せられるように、そっと目を閉じた。


 唇に触れる、少し乾いたあたたかさ。涙のしょっぱさ。

 指先がそっと手の甲を撫で、肩と肩が触れた。


 遠くでツククツクボウシが、最後の力を振り絞って鳴いている。

 湿り気が残る風が、二人の間をそっと吹き抜けていく。


 唇が名残惜しく離れ、また重なる。

 さっきよりも、少しだけ長く。


 吐息が交わり、二人の前髪の先がふるえた。

 

 またゆっくりと、離れる。

 お互いの表情が分かる距離で、どちらからともなく、ふ、と笑い合った。


「僕……湊が好きだった」

「――俺も」

 湊の指がもう一度、樹の頬の涙の跡をなぞる。


 その言葉を合図にしたように、樹の手首のブレスレットが、淡く光りはじめた。

「あ……」


 願いを届け終えた「落とし物」は、きらきらとほどけ、粒子となって空へ昇る。

 二人で空を見上げていると、足元からも光が立ちのぼった。

 蛍の群れのように、静かに、途切れなく。


 お社、手水舎、木々、草、土、鳥居――二人の秘密基地のすべてが、輪郭をほどいて光になっていく。


 蝉時雨が、遠のく。


 学校、自宅、川、町を囲む稜線、敷き詰められた田畑、その合間を縫う道――遠景の町並みも、白い光の中へすりガラスのように溶けていく。


 やがて、樹と湊の身体も、ほんのりと光りを帯び始めた。


 怖くはない。

 ただ、満たされて、温かい。


 指先から、髪の先から、身体の輪郭が、ゆっくりと光の中にほどけていく。

 透き通っていく身体の内側から、やわらかな光があふれ、二人の影をやさしく上書きする。


「夏休み……楽しかった……!」

「ああ! すっげぇ、楽しかった」


 二人は見つめ合い、そっと手を繋いだ。

 最後にもう一度だけ微笑み合うと、額を、こつんと優しく合わせた。

 繋いだ手から、合わせた額から、二人の境界線が完全に消え失せ、一つの眩い光の塊となっていく。


 願いを叶えた「落とし物たち」が、空へ還る。

 眩い光に包まれて、二人は、弾けるように消えた。


 夏休みが、終わった。

 たった一度きりの、夏の世界。

 その全てが無数の光の粒子となって、白く、白く、輝きながら、空へと昇っていく。


 最後に、灰色の世界だけが残った。

 音もない、影もない、無の世界。


 ソーダアイスの甘い香りがして、すぐに消えた。



 2025年8月31日。

 世界は、滅んだ。





夏の異界 完

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