ep.36 「世界」
八月最後の週末が、やってきた。
八月三十日の土曜日。そして、明日が、夏休み最後の日。
月曜日には、二学期が始まる。
その日、樹と湊は、あえて避けていた場所へと向かった。
作業着の男を倒した日、あれ以来、一度も足を踏み入れていない秘密基地の神社へ。
蝉時雨の音色が、ツクツクボウシやヒグラシに移り変わり、境内を吹き抜ける風の涼が以前よりも増していた。
湊が無言のまま、お社の扉に手をかける。
ギィ、と重い音を立てて開いた扉の向こう、陽炎のように歪んだ灰色の世界への入り口は、まだ、そこにあった。
「……行こうぜ」
段上から、湊が樹へと手を差し出す。
「うん」
樹が手を伸ばすと、強く握られて、ぐいっと引っ張られた。
二人は一緒に、灰色の世界へと足を踏み入れる。
久しぶりに訪れた灰色の世界は、以前と何一つ変わっていなかった。
重く垂れ込めた灰色の空、音のない、凪いだ空気、そして、すべてを覆うガラス粒のような塵。
境内に降り立った湊はその場に立ち止まると、何かを探すように、ゆっくりと周囲を見渡した。
「何か、感じる?」
樹が尋ねる。
湊は少しだけ、困ったような顔で首を横に振った。
「……いや。何も、感じねえな」
これまで、この世界に来れば必ず感じていたはずの、「落とし物」の気配が、どこからも届いてこない。
「俺、物の気持ちを感じるってスキル、消えちまったかもしんない」
「あ……それ、僕も同じかも」
「樹もか」
二人の視線が、驚きと共に交差する。
「うん。目の前に映像みたいなのが流れるのが、あの日から、一度も起きてない」
あの日。
作業着の男に襲われ、そして、倒した日。
「……あいつが、ラスボスだったのかもな。なんかのフラグが立ったんじゃね?」
「もうクリアしたから、スキルが必要ないってことなのかな」
「お社の裏に隠した『アイテム』も、もう片付けるか」
湊が、少しだけ寂しそうに言った。
夏休みの終わりと共に、二人の不思議なゲームも終わる。
自然と、そんな予感が胸をよぎった。
夏の終わりを前に、二人はある覚悟を持って、この灰色の世界を再訪していた。
向かった先は、高校の図書室だ。
静まり返った図書室の光景も、以前と変わりない。
その中で一点だけ、前回とは違うものがあった。
新聞の縮刷版が収められた棚とは別の棚が、淡く、白い光を放っていたのだ。
それは最新版の新聞や雑誌が置かれた、壁際のラックだった。
「持ち出し禁止」と書かれたラベルの貼られた雑誌。
新聞には、ラックに引っ掛けるための金属の棒が取り付けられている。
樹は光るラックから、誰もが知るメジャーな全国紙を、そっと引き抜いた。
その一面に印刷された、日付。
『2025年8月30日』
その新聞を、ガラス粒が降り積もった閲覧机の上へと、ゆっくりと広げる。
新聞に書かれていたのは、不穏なニュースばかりだった。
一面のトップを飾るのは、
『世界は”選択”の時へ』
という、難しい映画のような見出し。
記事によれば、世界的な資源の枯渇と経済不安を背景に対立を深めていた、大国の連邦や連合機構との間の最終交渉が、難航。
連邦側が開発した、分子構造そのものを崩壊させるという新型の戦略兵器の実験成功をちらつかせているのだという。
その他の面も、破滅へのカウントダウンを告げるように、陰惨な単語で埋め尽くされていた。
『全世界的な異常気象、相次ぐ山火事、記録的な猛暑や豪雨』
『各地の紛争泥沼化。人道危機、深刻の度合いを増す』
『世界同時株安止まらず。ハイパーインフレの懸念、現実へ』
『安保理、またも機能せず。非難声明、拒否権で葬られる』
「……なんか、この世界って、ロクでもねぇな」
樹が読み上げる記事の内容を聞いていた湊が、吐き捨てるように、苦笑した。
「そうだね……夢も希望もないっていうか」
この新聞が、この世界の「真実」なのだとしたら――
樹は、紙面に並ぶ絶望的な単語の数々から、ふと、隣にいる湊へと視線を移した。
灰色の世界の、影のない光が、珍しく真剣な横顔を照らしている。
視線に気がついたか、湊の焦茶の瞳が、樹を向いた。
二人の間から、言葉がなくなっていく。
自然と、二人の瞳は再び手元の紙面へと降りた。
灰色の図書室に、重苦しい紙面を捲る侘しい音だけが、流れる。
自分たちの世界にもあり得たかもしれない、あるいは、これから訪れるかもしれない破滅の記録を、二人の高校生は静謐な眼で見つめる。
「この世界」はまるで、いつか終わる夏休みのように、着実に終焉へ向かっていた。




