ep.35 「夏休み」
八月十八日。
二人は町外れの川の上流にある、小さな砂州にいた。
夏草が生い茂る土手を下った先、川の流れが緩やかになる場所に、一本だけ枝葉を大きく広げた柳の木が、恰好の日除けを作ってくれている。
そこに、二人で使うには広すぎるレジャーシートを敷いて、湊は寝っ転がり、樹は文庫本を読んでいた。
時おり、湊がコンビニの袋から、よく冷えたサイダーのペットボトルを取り出す。
「ん」とだけ言って、それを樹に差し出す。
樹は、「ありがとう」と一口飲んで、湊に返す。
湊も、一口飲む。
ただ、それだけ。
あとは、川のせせらぎと風が柳の葉を揺らす音、盛りを過ぎてどこか物悲しくなった蝉の声だけが、世界に満ちている。
二人の時間は、まるで凪いだ川面のように静かに、ゆっくりと流れていった。
そばにいるだけ。言葉はほとんど交わさない。
樹は時々、本から顔を上げて、眠る湊を見つめる。
というよりも、確認する。
少しだけ開いた唇から聞こえる寝息を、上下する胸元を。
眠りから覚めた湊が、川面に映る空を眺めて、ぽつりと呟く。
「なんか、空、高くなったよな」
「……うん。そうだね」
樹は本から目を離し、空を見上げた。
暴力的なまでに白く燃えていた真夏の空は、いつの間にか、深く吸い込まれそうなほどの瑠璃色に変わっていた。空を塞いでいた巨大な入道雲の姿は崩れ、消えつつある。
一つの鮮やかな季節の終わりが、近づいていた。
夏休みの終わりまで、ちょうど二週間。
お盆終わりに起きた嘘のような事件――実際には、何も起きていないことになっている――から一夜明けたこの日、二人は「何もしない」ことにした。
お互いに死んでいたかもしれない、失ったかもしれない、そのトラウマを洗い流す療養期間。灰色世界への入り口から離れて、ただ、のんびりする。
湊オススメの穴場スポットに行き、レジャーシートを敷いて、湊は寝っ転がって、樹は本を読む。そしてお互いが「生きて」いることを確認する。
そんな日を数日、過ごした。
*
八月の下旬に差し掛かると、町では過ぎゆく夏の名残を惜しむ行事が、いくつかささやかに開催される。川原で打ち上げられる町内会有志による花火大会も、その代表的なものだった。
打ち上げ花火といっても、ほんの数発。
その代わり、その日は各商店やスーパーが売れ残りの花火を安く提供し、子供や若者たちが、川原で自由に手持ち花火で遊ぶ、というのがこの町の独特な花火イベントだった。
もちろん、樹と湊も、その一員として参加した。
「うぉっしゃー! ファイヤー!」
湊は手持ち花火を一度に五本も束ねて火をつけ、派手な火花を豪快に散らしながら、子供たちと一緒になってはしゃいでいる。
対する樹は、地面に置いた蛇花火がにょろにょろと黒い灰の塊になっていくのを、真剣な顔で観察していた。その地味でマニアックな楽しみ方に、後から合流したアカリたちが、腹を抱えて笑う。
悪ノリした湊が、アカリたちと一緒にロケット花火数発に火をつけ始め、案の定、実行委員である町内会長の雷が落ちた。蜘蛛の子を散らすように逃げ出した二人は、少し離れた土手の階段に、並んで腰を下ろす。
眼下の川原では、子供たちが行儀良く、ぱちぱちと線香花火を楽しんでいた。
火薬の匂いと、蚊取り線香の煙たい香りが、夏の夜の風に乗って運ばれてくる。
やがて、ひゅるる、と細い笛のような音がして、対岸から、ぽつり、と一つ花火が上がった。
どん、と少しだけ遅れて届く、腹に響く音。
大きくはないが、夜空いっぱいに広がった光の粒が、隣に座る湊の横顔を一瞬だけ、鮮やかに照らし出した。階段に置かれた二人の手、指先が、そっと触れ合った。
湊の二本の指が、樹の細い指先を強く挟む。
「いだだっ!」
おかえしに、樹は湊の手の甲を、空いた手でつねってやる。
「いでっ、反則!」
「どういうルールなんだよ」
小学生が机の上でやるような、くだらない即席ゲームで笑い合う。
他愛のない時間を忘れないように、樹は湊の笑顔をじっと目に焼き付けた。
*
花火大会の翌日からの日々も、これまでの冒険や事件の埋め合わせをするかのように、穏やかに過ぎていった。
湊だけが知っているという、川の穴場へ魚釣りに行った。
釣果は、小さなハヤが一匹だけ。
けれど木漏れ日の下、せせらぎの音を聞きながら二人で並んで釣り糸を垂らした時間そのものが、宝物のようだった。
釣り方を教えてくれていたはずの湊が、隣で船を漕ぎ始める。やがて頭が、ことりと樹の肩にもたれかかってきた。
「先生が寝ちゃってどうするんだよー」
樹は困ったように眉を下げながら、その重みを受け入れた。
またある日は、自転車で当てもなく遠出もした。
どこまでも続く田んぼの間の道を、風を切って走る。
ペダルを漕ぐ足は疲れているはずなのに、身体は、どこまでも飛んでいけそうなくらい軽かった。
夏休みの最終日が近づくと、残していた宿題を片付けるために、図書館へ通った。
異世界の謎を解くための本ではない。ただ、参考書とノートを広げ、静かな沈黙の中、小さな声で答えの確認をしたりする。
「なー、ここ教えて~」
隣の席から椅子ごと近づいてきた湊が、樹の肩に手をまわす。
樹の上半身が、強引に湊のノートの側へ引き寄せられた。
ふわりと、午前中に食べたソーダアイスの香りがする。
二人で過ごす、ありきたりの夏休み。
一日一日が、まるで線香花火の最後の火の玉のように、美しく輝いては、消えていく。
一度きりの、高校一年生の夏。
決して忘れないようにと、樹は心に刻みつける。
隣で笑う湊の顔も。二人を包む夏の光も。
何もかも、すべて。
やがて来る、夏の終わりのために。