ep.34 懺悔と成就
夏の生温かい風が、血の匂いを、ふわりと鼻先へ運んでくる。
湊の腕の中から、樹は、ゆっくりと顔を上げた。
動かなくなった男の身体が、すぐそこにある。
「……あ……」
樹の喉から、意味のない声が漏れた。
たぶん、殺した。人を。
「どうしよう、みなと、どうしよ……」
今ここで起きている事実を頭が理解していくにつれて、樹の全身が、がくがくと震えだす。
「樹、しっかりしろ!」
湊がもう一度、必死に樹の身体を抱きしめて支える。
「大丈夫だ、大丈夫だ! こういうのって、正当防衛ってやつだ! 樹は、俺を助けようとして……!」
「 救急車……いや、警察……電話、しないと……」
うわ言のように呟きながら樹は立ち上がり、震える手でポケットから携帯電話を取り出した。
硬直した指が、動かない。
頭の中に、家族の顔が浮かんだ。
息子が人を殺した。
それを知ってしまったら、父さんは、母さんは、祖父母は、どれだけ驚き悲しむだろう。
テレビのニュースで、新聞で、事件が報道される。
近所にあっという間に噂が広まって、もうこの町には住めなくなる。
弟の陽が、学校で「人殺しの弟」といじめられたりするのだろうか。
これから起こるであろう、最悪の未来予想図が、高速で頭の中を渦巻いていく。
「樹。いっしょに駐在さんとこ、行こう」
湊が、樹の顔を覗き込む。
「駐在のおっちゃん優しいし、俺、ちゃんと説明する! 俺がやったみたいなもんだから」
「何、言って……」
弾かれるように、樹は湊を見上げる。怒りの熱がこもる焦茶色の瞳が、まっすぐ樹を見つめていた。
「もしあんとき、バット持ってるのが俺だったら、俺がこいつをぶん殴ってた! ボコボコにして、ぶっ殺してた! 俺――」
湊の声が、不意に途切れた。
樹も、吸い込みかけた息を思わず止める。
視界の端で、何かが淡く光った。
二人はゆっくりと身体を離し、同じ方角――倒れている男を、振り向いた。
男の身体が、淡い光を放ち始めていたのだ。
作業着の輪郭が、ゆっくりと、きらきらと輝く無数の粒子へと、ほどけていく。
暴力の痕跡も、血の匂いも、その光の中へ浄化されるようにして吸い込まれていく。
「「…………え?」」
二人の気の抜けた声が、ユニゾンした。
やがて光の粒子はふわりと宙に舞い上がると、ヒノキの梢の合間を縫うように、空へ昇っていった。
「……」
「……」
二人はただ呆然として、消えゆく光の行方を見送っていた。
まるで、願いを果たして消えていく、『落とし物』のよう。
「消え、た……」
光が完全に消え去った後、湊は恐る恐る、男が倒れていた場所へと近づく。
そこにはもう、何も残ってはいなかった。
血で汚れていたはずの玉砂利も、元の乾いた白い石に戻っている。
赤黒く濡れていたはずのバットの汚れも、消えていた。
男の痕跡は消えていた。
まるで最初から、何もなかったかのように。
*
「……どういうことだよ。あいつ、誰かの『落とし物』だったのか……?」
地面を見回していた湊の視線が、呆然と立ち尽くす樹に戻る。
「……あの人」
樹の声は乾き、ひび割れていた。
「イズミちゃんを探した時に、川原にいた人だった。逃げた犬を追いかけた時にもいた……。それに、早野さんを襲った犯人と同じ、黒いスポーツウォッチをしてた……」
「……」
湊が、唖然と口を開いている。
「そんで、今度は、樹を殺そうとしたってのかよ……」
「……違うんだ」
樹が見るビジョンが、「予知」ではなく、灰色世界で「実際に」起きていたことだとするならば。
あちらの世界での2014年8月17日。神社で襲われた樹を助けようとした湊が刺され、命を落としたのだ。
「……俺が……」
樹が語る「事実」を、湊は蒼白んだ顔で聞いていた。
「灰色の世界の縮刷版のページが破られてたの、覚えてる? ちょうど、今年のお盆が明けた頃から、数日分のページ。それってつまり……」
「お盆明け……今日、か」
「たぶん、たぶんだけど……破ったのは、『あっちの世界の僕』なんじゃないかなって、思うんだ」
湊が刺され、助けることもできず、逃げることしかできなかった、「相沢樹」。
「きっと、『あっちの世界の僕』は、すごく後悔した……湊を見捨てて、逃げて……なんで、あの時、戦わなかったんだろうって。絶対に、一生、自分を恨むと思う――」
「ストップ」
唐突に、湊の温かい手が樹の口を優しく塞いだ。
「あっちの世界では、もう、終わったことだ」
「でも……!」
「こっちの、俺たちの世界では、そうはならなかった。だろ? だから、それでいいんだ」
「……みなと……」
湊の視線がゆっくりと下りてきて、樹の胸元から首筋へと注がれる。
破れたシャツの襟元から覗く、痛々しく、赤黒い鬱血の跡。
湊の、日に焼けた指先が、ためらうようにゆっくりと樹の首筋へと伸びてきた。
そっと、絞められた痕に触れる。
「っ……!」
樹は息を呑んで、思わず肩をこわばらせた。
「……悪い。痛かったか」
「ううん……平気……」
湊の指先が樹の首筋に、まるで首輪のように残る痕をなぞった。
その指が、樹の喉仏のあたりから耳の下までを、慈しむようにゆっくりと撫で、後頭部へと手が回り――
「っ!」
樹の頭が湊の胸元へと、引き寄せられた。
包み込むように、強く抱きしめられる。
背中と頭を、大きな手が何度もゆっくりとさすってくれる。
「助けてくれて、ありがとうな、樹」
頭の上から、湊の声。
「……それと……。俺、間に合って、マジで……良かった……」
語尾が、安堵と恐怖の余韻で、わずかに震えていた。
「……うん」
樹も、返す。
「僕も……ありがとう……」
樹は湊の胸に額を押し当て、伝わる温もりと、力強い鼓動を、ただ感じていた。