ep.33 もう一つの結末
「ぐ、おっ……」
鈍い呻き声を上げ、背中をバットで強打された男は、わなわなと震えながら首だけで樹の方を振り返った。
驚愕が宿る男の目が最後に映したのは、恐怖と怒りで顔を歪ませ、再び金属バットを高く振りかぶった、樹の必死の形相だった。
ぐしゃり――硬い皮の熟れた果実が潰れるような、湿った不快な音がした。
男の身体から、力が抜ける。
糸が切れたように、どさりと崩れ落ちた。
動かなくなった男の身体の向こう、地面に座り込んだまま、こちらを呆然と見つめる湊の姿が見える。
「はっ……はぁ……っ、はぁ……」
樹の震える手から、金属バットが滑り落ちた。
カラン、と乾いた金属音が、静まり返った境内に大きく響き渡った。
バットの先端にこびりついた生々しい赤黒い液体が、白い玉砂利の上に、ぽつり、ぽつりと染みを作っていく。
樹は動かなくなった男の背中を、ただ、見つめていた。
男の作業着のポケット付近に、何かが落ちている。
ナイフ。
目にした途端、樹の全身から、急速に血の気が引いていった。
「っ……」
ざざっ、と、視界に激しいノイズが走る。
強烈な目眩と、頭を内側から万力で締め上げられるような激痛。
視界が、ぐにゃりと歪み、「樹!?」と叫ぶ湊の声が遠のいていく。
暗転した視界の中に、ひどく乱れたビジョンが映った。
目の前に、作業着の男と揉み合う湊の背中。
――ぐっ……!
湊が詰まったような声を漏らした。しなやかな身体が、ずるり、と玉砂利に崩れ落ちた。
立っている男の手には、銀色のナイフ。
その刃先が、赤黒い血で、濡れていた。
――……逃げ……ろ……樹……
地面に伏した湊の、絶え絶えの息。
ぎろり、と、男の感情のない瞳が樹を向いた。
ひゅっ、と喉が鳴る。
首を絞められた痕が、焼けるように痛い。
男が樹に向かい、一歩を踏み出す。
――ぁ……あ……っ!
樹は這うように玉砂利を蹴って、石段の方へ逃げた。
男が倒れて動かない湊を踏み越えて、樹に目標を切り替える。
――うわ、ぁあああっ!
樹は石段を文字通り、転がり落ちた。全身を強かに打ち付けながら、それでも必死に麓の車道へと転がり出る。ちょうどその時、一台の大型運送トラックが三叉路を曲がってくるのが見えた。
――助けて……! 助けてください……!!
樹は運送トラックに向けて飛び出した。
甲高い急ブレーキの直後、運転席から体格の良い運転手が顔を出す。
――ちっ……
作業着の男は、忌々しげに舌打ちをすると逆方向へと走り去り、隠すように停めてあった軽トラックに乗り込む。背後で軽トラが走り去るエンジン音が遠ざかった。
ざざっ、と、再び、ノイズが走る。
ビジョンが切り替わり、樹は再び、神社の境内にいた。
赤と青の回転灯が、お盆終わりの夕暮れを、気味悪く照らしている。
救急隊員と警察官たちが、慌ただしく動き回っていた。
一人の救急隊員が、地面に横たわる湊の首筋に指を当て、ペンライトで瞳孔を確認した後、そばに立つ警察官に向かって、悲痛な面持ちで首を横に振った。
「……死亡確認。時刻は、午後六時二十七分」
――うそ、だ……うそだ!
樹は、叫んでいた。
警察官の制止を振り切り、動かなくなった湊に、すがりつく。
――嫌だ、湊! 湊!
半狂乱になって、その身体を揺さぶる。
湊はもう、何も答えてはくれなかった。
背後で警察や救急隊たちが、気の毒そうに自分を見下ろしている空気が、伝わってくる。
――湊……っ
まだ温度のある体に縋りついて泣く樹の目に、血で濡れた湊の手首に巻かれた組紐のブレスレットが映った。
――湊……
咄嗟の出来心だった。
樹は何かに取り憑かれたように、警察官たちの目を盗んでブレスレットを湊の腕から剥がすように外した。
見つからないよう、固く、拳の中に握りしめる。
――樹!
背後から父親の声がして、後ろから腕を強く引かれた。
肩越しに振り返る。
再び視界にノイズが走り、映像が暗転した――
「――樹! 樹っ!!」
間近に聞こえる、湊の声。
「っは……!」
ノイズがかき消えた目の前に、鬼気迫る湊の顔があった。
「樹! しっかりしろ!」
気がつくと、樹は境内の玉砂利の上に崩れ落ち、湊の腕に支えられていた。
霞がかかった頭で、順々に視線を巡らせる。
湊の顔。
破れた自分のシャツの襟元。
足元に転がっている、血のついた金属バット。
「樹っ!! 聞こえてるか!?」
必死に名前を呼ぶ湊の向こうに、ぴくりとも動かない作業着の背中が見えた。
「……みな、と……なん、で、ここに……」
樹の喉から、掠れたうわ言が漏れ出す。
「アカリたちとの約束はキャンセルになった……ってか今は、んなことより……!!」
湊が体をぶつけるように、樹を強く、強く抱きしめた。
「みなと……」
湊の腕の中で茫然自失のまま、樹はただ、虚空を見つめる。
お盆休みが終わったばかりの、夏の終わりの、薄暗い神社の隅で。
血に濡れた玉砂利の上、動かなくなった作業着の人影。
そのそばで抱き合う、二つの小さな影たち。
まるで世界に二人だけになってしまったかのように、ひぐらしの甲高い鳴き声が、遠ざかっていった。