ep.32 ヒーロー
樹はお社の壁板の隙間から、向こう側を窺う。
作業服の男が、境内に足を踏み入れたところだった。今日は竹熊手を持っていない。
境内の見廻りにきただけ?
でもこれまで何十回とここで時間を過ごしてきたが、遭遇したのは地元の参拝客を片手で数えるくらいだ。
樹は、息を殺して様子を伺う。
男はしばらくその場で左右に首を巡らせ、境内の様子を見渡していた。
まるで何かを、あるいは、誰かを探すように。
樹は、両手で口元を抑えながら、必死で呼吸を殺す。
漏れそうになる息を、ごくりと喉の奥に飲み込んだ。
じゃり、と、再び砂利を踏む音がして、今度は、こつ、と石畳を踏む音に変わった。
お社に、足音が一歩、また一歩と近づいてくる。
言いようのない恐怖が、樹の身体を地面に縫い付けていた。
ぎしり、と、お社の縁側が、重たい体重に軋む音がした。
樹は心臓が喉から飛び出しそうになるのを、必死でこらえる。
息を殺し、壁板に身体を押し付け、可能な限り体を小さくした。
こつ……こつ……
ゆっくりとした足音が、縁側を伝って、こちらへ近づいてくる。
来るな。
来るな。
来るな。
足音が、ぴたり、と止まる。
すうっと、頭上から影が落ちてくる。
樹はゆっくりと、ゆっくりと、顔を上げた。
そこに、作業着の男が立っていた。
貼り付いたような微笑で、じっと樹を見下ろしている。
「おはよう。こんなところで、一人で何してたんだい」
穏やかな、だけれど感情の温度が感じられない声が、問いかけた。
その顔に、樹は見覚えがあった。
はぐれたイズミちゃんが遊んでいた川原で。
逃げた柴犬が逃げ込んだ藪で。
手首には、黒いスポーツウォッチ。
男の黒目がちの眼球が、樹の足元にあるリュックとスーパーの袋を一瞥した。
「お社に、いたずらでもしてたのかな」
「い、いえ……その……」
樹は力なく首を横に振る。
喉が、恐怖で張り付いて、声がまともに出ない。
「ダメだよ、そんなことしちゃあ」
貼り付いた笑顔のまま、男は縁側から飛び降りると、一歩、また一歩と、樹に近寄ってくる。
「っ!」
樹は咄嗟に背を向けて走り出す。その瞬間、背中に衝撃が走る。
「がはっ……!」
蹴り飛ばされ、樹は前のめりに玉砂利の上へと転がった。
痛みに咳き込みながら、それでも、もつれる足で立ち上がり、石段に向けて逃げようとする。だがすぐに腕を掴まれ、振り払ったものの、再び、腹のあたりを強く蹴り倒された。
「っぁ……!」
逃げようと踠いては殴られ、蹴られる。
抵抗も、悲鳴も、意味をなさない。ただ圧倒的な暴力が、次々と襲いかかった。
玉砂利の上に背中から叩きつけられ、馬乗りにされる。着ていたシャツのボタンが、ぶちぶちと音を立てて引きちぎられ、太く、節くれだった両腕が首に向かって伸びた。
「が、っぐ……」
聞いたこともないような自分の悲鳴が、どこか滑稽にも感じる。
どこか遠くで、タン、タタタン、と、石段を駆け上がってくる、軽い足音が聞こえた、気がした。
「や、だ……! 湊っ!」
無意識に、樹の口はその名前を叫んでいた。
「――やめろっ!!」
怒号。
次の瞬間、樹の身体を押し付けていた重みが、不意に消えた。
「がっ!」
男の、蛙が潰れたような声。
いつの間に駆けつけたか、湊が男の背中を蹴り飛ばしたのだ。
男は不意を突かれて、横様に転がる。湊は容赦なく、さらにその腹に蹴りかかった。
「……げほっ、ごほっ……!」
樹は激しく咳き込みながら、必死に酸素を求めて身体を丸める。
霞む視界の中で、湊が、男と組み合って格闘しているのが見えた。
助けなければ。湊を。
身体に力が入らない。
その時――
再び視界に、忌まわしいノイズが走る。
ブレがひどいビジョンの中で、取っ組み合う湊と、作業着の男の姿。
「ぐっ……」と、湊が、詰まったような声を漏らす。
ずるり、と、湊の身体が、地面に崩れ落ちた。
立ち上がった男の手には、銀色に光るナイフ。
その刃先が、赤黒く濡れている。
――湊!!
声にならない掠れた絶叫と共に、再び、激しいノイズが横切った。
網膜に映る景色が色を取り戻す。
目の前に、男と格闘する湊の背中がある。
「くっ……」
朦朧とする意識の中で、樹は、四つん這いに立ち上がる。二足歩行と四足歩行を繰り返しながら、お社の裏の「アイテム置き場」へ手を伸ばした。
「湊……、湊が……!」
バットケースを引きずり出し、無我夢中でチャックを開けて、中からずしりと重い金属バットを取り出した。
両手で持ち手を掴んで引きずって、お社の影から走り出る。
体格で勝る男が、湊の身体を地面に引き倒した瞬間が目に映った。
男がポケットから、何かを取り出そうとしている仕草――
「――湊から、離れろっ!!」
樹は、雄叫びを上げていた。
縮刷版より重たいものを持ったことがない細腕で、ありったけの力を込めて、金属バットを男の背中に振り下ろした。