ep.31 運命の盆明け
お盆が明けた日曜日、八月十七日。
翌日が月曜日ということもあり、あれほど賑わっていた帰省者たちの多くは、前日の夜か、この日の午前中のうちに慌ただしく町を去っていく。昨日まではあちこちで見かけた他県ナンバーの車が、今朝にはもう、一台も見当たらなくなっていた。
相沢家においても、それは同じだった。
昨日の十六日、叔母一家は再び都会へと戻って行った。
嵐のようないとこたちを乗せた騒がしいワンボックスカーが、家の前の道の角を曲がって完全に見えなくなった途端、見送っていた家族全員、誰からともなく「ふぅ……」と、大仕事をやりきったような、深いため息を吐いたものだ。
弟の陽や従兄弟たちの子守りは、確かに骨が折れた。けれど、あれほど賑やかだった家が急に静まり返ってしまうと、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、どこか物寂しい余韻が残っている。
朝の空気は、お盆以前の静けさを取り戻していた。
「……今日は、何しようかな」
朝、目覚めた樹はいつものように部屋の窓を大きく開け、すでに温くなりかけた空気を入れ替えながら、壁のカレンダーを見やった。
明日は、十八日。
久しぶりに、湊と約束した日。
「あ、そうだ」
ふと、お社の裏に隠したままの、「冒険セット」のことを思い出した。
いとこたちが来てからの日々が忙しく、秘密基地へも行けずにいた。もう二週間近く、お社の縁の下にリュックを放置したままだ。
「……お菓子、虫が湧いてたりしないかな」
スーパーで新しいお菓子をいくつか買って、「冒険セット」の中身をアップデートしがてら、今日も神社でゆっくりと読書と、ノートに書き溜めた情報の整理をしよう。
トートバッグに財布と文庫本、そして、調査ノートを詰め込むと、樹は軽やかな足取りで家を出た。
*
その頃の、瀬戸口家。
湊の姉、そして兄もそれぞれの生活へ戻るため、昨日のうちに慌ただしく実家を発っていった。
湊は、財布と携帯電話を半ズボンのポケットに押し込むと、玄関の手前にある台所を覗き込んだ。今日は学校でよくつるむグループ――アカリも含む――と遊びにいく約束の日だ。
「母さん、俺、出かけるけど。ばあちゃん、大丈夫そう?」
テーブルで、施設のパンフレットや役所から届いた書類に目を通していた母親が、顔を上げた。
「大丈夫よ。今日は、デイサービスの日だからね」
母親の顔色は、数週間前とは比べ物にならないほど、明るくなっている。
義父が遺したものの詳細は湊には知らされていないが、それによって日々の介護に追われる母の心に余裕を生み出しているのは、確かだった。
湊が安心して、玄関でスニーカーに足をつっかけた、その時だった。
「今日は、どこにも行かん!!」
いつの間に部屋を出てきたのか、ダイニングの入り口に、祖母が仁王立ちになっていた。
「知らん年寄りばっかりのところなんか、絶対に行かんからな!」
「お義母さん、この間は、お友だちもできて楽しかったって言ってましたよ?」
「嫌なものは嫌だ!」
祖母が、子供のように駄々をこね始める。
気分の波によって、時々こうして、出発を嫌がることがあった。
いつもなら湊が「ばあちゃん、行こうぜ」などと声をかければ、すぐに機嫌を直すはずだった。
だが、なぜか、今日は違った。
「そうやってあたしをいじめるのかい!」
「ばあちゃん……今日は気分じゃない感じ?」
「行きたくない!」
祖母は、聞く耳を持たない。
湊は、ちらりと壁の時計を見上げた。
アカリたちとの待ち合わせの時間が、刻一刻と迫っている。
開きかけた玄関の扉の向こうから、夏の日差しが無遠慮に差し込んでいた。
*
スーパーの袋を片手に、樹は神社へと続く緩やかな坂道を上っていた。
途中、ヤマグチ商店の前を通りかかる。シャッターはまだ下りていて、入り口には『十八日(月)より営業いたします』という真新しい張り紙がされていた。
商店を通り過ぎ、石段の麓に辿り着いた、その時だった。
道の先から、一台の軽トラックが走ってくる。
樹は車をやり過ごすように、石段の一段目に足をかけた。
トラックは樹の脇を通り過ぎると、ヤマグチ商店の前にきゅっと止まった。
中から降りてきた作業着の男が、店の張り紙に気づき、残念そうに顔を近づけている。
その様子を横目に、樹は境内へと続く長い石段を上っていった。
お盆休みが明けた、日曜日の午後。
境内には、誰の姿もなかった。
ひぐらしの鳴き声さえ、まだ聞こえない。
世界から音が消え失せたかのような、深い静寂が満ちている。
樹はまず、お社の裏手へと回り込んだ。
手にしたスーパーの袋を縁側に置くと、その下の薄暗い空間を覗き込む。
冒険セットのリュックと、湊のバットケースは最後に隠した時のまま、そこにあった。
特に虫やネズミに荒らされた様子もなく、綺麗な状態を保っている。
タン……
その時だった。
樹の耳に、石段を踏みしめる、硬い音が届いた。
「?」
樹は、訝しげに顔を上げる。
タン……タン……
石段を、誰かが上がってくる。
湊のような、二段飛ばしの軽やかなリズムではない。
一歩、一歩、体重を乗せて踏みしめるような、重たく、ゆっくりとしたリズム。
お盆が終わって、誰かお参りにでも来たのだろうか。
それとも。
さきほどヤマグチ商店で見かけた、あの作業着の男だろうか。
お社の下に、自分たちの私物を隠している。
もし見つかれば、怒られてしまうかもしれない。
そんな、小さな罪悪感が、樹の身体を竦ませた。
その瞬間だった。
ざざっ、と、視界に激しいノイズが走る。
直後、こめかみを内側から錐で突き刺すような、鋭い頭痛が突き抜けた。
「――っ!」
見えたのは、今、自分がいる神社の境内、お社の濡れ縁から見える光景。
石段から上がってきた作業着の男の人影が、まっすぐ、こちらに向かってくる。
――え……な、何か、御用ですか……
ビジョンの中の、戸惑う自分の声が聞こえる。
作業着の男は、何も言わない。その姿が、みるみるうちに近づいてきて視界を遮ったかと思うと、突然、世界が大きく傾いだ。
――わ、や、何っ、……痛っ!
耳元で、がりっ、と玉砂利が激しく擦れ合う不快な音。お社の屋根の向こうに、途切れ途切れの空が一瞬見え、すぐに、作業着の男の身体が、視界のすべてを覆った。
――や、ぁっ! くは……っ!
太く、節くれだった両腕が、自分に向かって伸びてくる。手首に黒いスポーツウォッチ。
「――っ!!」
ひゅっ、と空気が逆流する音が、樹自身の喉から聞こえた。
ノイズが消え失せ、目の前には自分のスニーカーと、スーパーの袋、そしてリュックサックが見える。
今のは、何だ。
今、「視えた」ものは。
樹は両手で口元を固く覆い、息を殺した。
タン……タン……
石段の向こうから、あの重たい足音が、一段ずつ、確実に、上がってくる。
やがて足音は、境内の玉砂利を踏む音に変わった。