ep.30 お盆休み
お盆休みに向けて、相沢家はにわかに浮き足立ち始めた。
樹が灰色世界について思考を巡らせる時間は、家の慌ただしさによって容赦なく奪われていく。
九日は、一日をかけた大掃除。日が暮れる頃には疲れ果ててしまい、外出する気力も残っていなかった。
そして十日の午前中、父方の叔母である初子さん一家が、賑々しく車で乗り付けてきた。
「いつきくーん!」
甲高い声をあげながら、小学生のいとこたちが我先にと車から降りてくる。
「こら、あなたたち。樹くんに迷惑をかけないのよ」
叔母はそう口では言いつつも、完全に子守りを樹に押し付けると、久々の実家ですっかり羽を伸ばし始めていた。
従兄弟二人と、弟の陽。子供たち三人の有り余るエネルギーの相手をするだけで、あっという間に二日、三日と過ぎていく。
昼間は外で遊び回り、夜はテレビゲームに付き合わされ、ゆっくりと読書をしたり、ノートの情報を整理したりする時間は全くなかった。一日が終わる頃には、ベッドに倒れ込むようにして眠ってしまう。
十三日の迎え盆には、親戚一同で墓参りへ行った。
十四日。
家の中でじっとしていられない弟と従兄弟たちにせがまれ、樹は子供たちの引率として近くの自然公園へ行くことになった。
公園に設けられた、浅く透き通った小川。その中を泳ぐ小さな魚や、石の裏に隠れるザリガニを見つけて、いとこたちは歓声を上げる。
樹は三人分の水筒、レジャーシート、弁当、お菓子、ウェットティッシュ、タオル、ゴミ袋、軍手、着替えなどを詰め込んだ、ずっしりと重いリュックを背負っている。
「こらー! バラバラにあっちこっち行かないの!」
いくら声を張り上げても、どうにも迫力が足りないようで、子供たちはあっという間に樹の統制を無視して好き勝手するのだ。
「体がいくつあっても足りないよ……」
樹がうんざりしていた、その時だった。
「あれ? 樹じゃん!」
聞き慣れた、快活な声。
振り返ると、数日ぶりに見る湊が、そこにいた。
部活の練習でか、また一段と日に焼けている。
湊も、小さな男の子の手を引いていた。
姉の子、つまり湊にとっては甥にあたる子だ。
「湊!」
樹にとってその再会は、まるで救世主に出会ったかのような気分だった。
「樹、なんか、すっげえ疲れた~ってカオしてんな」
樹の顔を見るなり、湊は吹き出して笑う。
「っしゃ! 全員まとめて、一緒に遊ぼうぜ!」
湊は持ち前の明るさと、子供の遊び心をくすぐる天賦の才で、あっという間に相沢家の子供たちも巻き込んでしまった。
沢蟹を捕まえ、水切りを教え、小川に小さなダムを作る。
その遊び方は、いかにも田舎育ちの少年らしく、都会育ちのいとこたちは目を輝かせて湊の後を追っていた。
「……頼もしすぎる」
そんな湊の姿を、樹は拝む気持ちで見つめるのであった。
湊のおかげで遊び疲れた子供たちは、帰る頃にはすっかりおとなしくなっていた。
「帰ったら、お風呂でちゃんと汗を流すんだよ」
「はーい」
前方を歩く子供たちは、満足そうに、そして、すっかり仲良くなってはしゃいでいる。その小さな背中を見守るように、樹と湊は、少しだけ距離を置いて並んで歩いた。
「今日、本当に助かった。ありがとう、湊」
「へへ。こーいう田舎の遊びは、得意だから任せろよ」
にかっと笑う湊の歯が、日に焼けた肌との対比で一層白く見えた。
「……あのさ。お盆が終わったら、また時間ができそうなんだけど……どう、する?」
樹は湊の気持ちを窺うように、その横顔を覗き込んだ。あの灰色の世界について気づいたこと、これからどうするのか、じっくりと相談がしたかった。
「おう」
湊は、即答した。
「また続きやろうぜ。『落とし物探し』。十七日は、アカリたちと遊ぶ約束があるんだけど、その後なら全然空いてる」
灰色の世界の解明は、十八日に再開。
そう約束して、相沢家と瀬戸口家の子どもたちは、自然公園の出口でそれぞれの家路へと別れた。
その夜は、案の定いとこたちは遊び疲れて、早い時間にぐっすりと眠りについた。
樹も、久しぶりに湊の顔を見れた安堵と、心地よい身体の疲れで、その夜は深く穏やかな眠りにつくことができた。
*
八月十五日。
その日、いとこたちは、ちゃっかりと持参してきた夏休みの宿題を広げていた。
「樹くんに教えてもらうんだ」
と、完全に当てにされているが、炎天下で一日中振り回されるよりは、樹にとっては百倍マシだった。
風通しの良い居間の畳の上、ちりん、と涼やかな音を立てる風鈴と、遠い蝉時雨をBGMに、樹は即席の家庭教師となった。いとこたちのドリルを採点し、分からない問題を教えながら、自分も残りの課題を手際よく片付けていく。
昼過ぎには、すべての宿題が終了した。
残りの体力に、まだ十分な余裕がある。
いとこたちが解放感から、陽も一緒にテレビゲームに熱中している隙に、樹はそっと家を抜け出すことにした。
トートバッグに、読みかけの文庫本と、冷たい麦茶を入れた水筒だけを放り込む。
誰にも気づかれないように、静かに玄関の引き戸を開けた。
お盆休みの間、ヤマグチ商店は固くシャッターを下ろしていた。
町全体が、どこかよそいきの顔をして、静まり返っている。
前方に見える、秘密基地へと続く石段。
その上から、誰かが降りてくるのが見えた。
作業着に、麦わら帽子をかぶった男。
以前に見かけた、ヤマグチ商店でアイスを選んでいた男と同じ作業着のようだ。
その片手には、落ち葉を集めるための、大きな竹熊手が握られている。
男は樹が歩いてくるのとは反対側に停めてあった軽トラックに乗り込むと、窓から顔を出して、一度だけ、じろりと神社の方向を見やった。そして何事もなかったかのように、車を発進させた。
「……宮司さん、とかかな」
神社のしきたりは、樹にはよく分からない。お盆の時期に、境内を清めたりするのかもしれない。そんなことを考えながら、樹は男と入れ替わるように石段を上っていった。
いつもの濡れ縁に腰掛けて、文庫本を開く。
夕飯までの、一時間ほど。
ここでなら誰にも邪魔されず、ゆっくりと過ごせる。
いとこたちは明日には、また慌ただしく都会へと戻っていく。
そうしたら、また湊に会える。
十八日。約束の日が、待ち遠しかった。
時刻は、午後四時を回ったところ。
真昼のすべてを焼き尽くすような暴力的な日差しは、いつの間にか西の空へと傾き、その勢いを和らげている。木の葉を透かした光は優しい色を帯びていた。
お盆の中日。この時期、町の人々は親戚を出迎えたり、墓参りに出かけたりと、それぞれの家で静かに過ごす。この忘れられたような高台の神社まで、足を運ぶ者はいない。
風が止むと、世界から音が消えたような、深い静寂が境内を支配する。
その沈黙は、この世ならざる者がすぐそばまで来ているような、不思議な気配に満ちていた。
やがて、カナカナカナ……と、ひぐらしが、まるで魂を鎮めるかのように澄んだ声で鳴き始めた。
その物悲しくも美しい音色に耳を澄ませながら、樹は、ゆっくりと本のページをめくった。