ep.29 並行
翌日も樹は、午前中に図書委員の作業をして、午後に1時間だけ秘密基地で読書をして帰宅した。
夕食時、相沢家はいつものように家族そろって居間のローテーブルを囲む。
「樹、図書委員の当番はいつまであるの?」
母親が、魚の骨を綺麗に取り分けながら尋ねた。
「委員会は、明日までだけど……」
「そう、ちょうどよかったわ。十日の日曜日に、初子さんたちがくるからね。九日の土曜日は、みんなで大掃除よ」
初子さんとは、樹の父方の叔母にあたる。小学生低学年のいとこも一緒なので、帰省中は、必然的に樹がその遊び相手にならざるを得ない。
「はーい……」
少しうんざりしながら、樹は気のない返事をした。
そして、予定を確認するため、居間のテレビの側に置かれた日めくりカレンダーに、何気なく目をやった。
その瞬間だった。
ざざっ、と視界に激しいノイズが走り、目の前の光景が、全く別のものに上書きされる。
食事中は、必ず消しているはずのテレビが、ついている。
画面では、神妙な顔つきのニュースキャスターが、何かを読み上げていた。
――……町南西部の山林で、女性の遺体が発見されました
画面の隅に、テロップが映し出される。
角の丸いゴシック体の文字、そしてアカリの顔写真が、網膜に焼き付いた。
――遺体は、市内の高校に通う、早野明里さんと見られ
「っ……!」
くらり、と世界が揺れる。
強い目眩に襲われ、樹は、テーブルの下で、ぐっと拳を握りしめた。
ぎゅっと固く目を閉じ、もう一度、ゆっくりと開く。
そこには先ほどと変わらない、穏やかな家族の食卓があった。
テレビは真っ暗な画面を部屋の隅で晒しているだけだ。
樹はもう一度、カレンダーに目をやる。
『2014年8月7日』
灰色の世界で見つけた、新聞の縮刷版。
アカリの事件を報じる第一報は、確か、この日の夕刊だった。
「……そうか。今日、だったんだ……」
「ん? 何がだい、樹」
父の問いに、樹は「ううん、なんでもない」と、曖昧に首を振ることしかできなかった。
なぜ、こんなビジョンが見えた?
これがいつもの「予知」ならば、この後、本当にあのニュースが流れるというのか。
そんなはずはない。
アカリは樹と湊で助けた。事件は未然に防げたのだ。
だが翌日も、奇妙なビジョンは、樹の日常を侵食した。
午前中、図書委員の仕事のため学校へ行こうと、玄関へ向かっている時だった。
目の前の、閉まっているはずの引き戸に、再び砂嵐のようなノイズが走る。
ビジョンの中では玄関の戸が開け放たれ、そこにいないはずの母親の背中が映っていた。 戸口には、隣の家の田中さんが立っている。その手には、回覧板。
――本当に、物騒なことになったもんだねえ。犯人が、まだ捕まっていないんですって。
――まあ……。
――樹くん、同じ学校なんでしょ? 夏休み中だけど、くれぐれも、気をつけるように言ってあげてね。
母親と、田中さんの会話。
「どうしたの、樹。早く行かないと、遅れるわよ」
「!」
廊下の途中で立ち尽くしていた樹の背中に、母親の声がかかる。
我に返ると、目の前のビジョンは砂嵐とともに掻き消えた。
「なんでもない! いってきます!」
樹は足早に玄関に向かうとスニーカーに足を突っかけて、ほとんど叫ぶようにして、家を飛び出した。
玄関を一歩出た途端、むせ返る熱気に襲われる。白く燃えるような太陽がアスファルトを照らし、立ち上る陽炎で、視界の先の景色がぐらぐらと歪んでいた。
目に痛いほどの青空、濃すぎる木々の緑、何もかもが、今の樹にとっては現実感を失った、ただの暴力的な色彩の洪水に見えた。
「何だったんだ、今の……」
樹は数日前に見た、もう一つのビジョンを思い出していた。
母親が、ヒステリックに「どこに行くの!」と自分を叱りつけていた、あの光景。
この数日の間に浮かんだビジョンを繋ぎ合わせると同時に、樹は、灰色の世界の図書室で見た縮刷版の記事を、心の中で開いた。
『……早野さんは4日の夜から帰宅しておらず、家族が5日午後に捜索願を提出。県警が捜索していたところ、7日朝、警察犬が遺体を発見……』
アカリが行方不明になり捜索願が出された翌日の、六日の朝。
前日に行方不明事件の噂を聞いていた母親は、軽率に外出しようとする息子が事件に巻き込まれるのを恐れて、「どこに行くの」「危ない」と叱った。
アカリの遺体が発見された、七日の夜。相沢家のリビングのテレビが、その第一報を伝えた。
さらにその翌日、八日の朝。母親と近所の田中さんは、犯人がまだ捕まっていないという、事件の噂話をした。
それらは全て、早野明里が四日に殺害されたことによって起きるはずだったであろう、出来事。
「え……ってことは……」
樹は、歩道の上で、思わず足を止めた。
自分が見ていたものは、「予知」ではなかった。
灰色の世界での2014年に起きていた「事実」を、今いる世界の同じ日付、同じくらいのタイミングで、まるで覗き穴からのように、垣間見ていたのだ。
「それじゃあ、やっぱり……あの世界は、僕たちの世界をコピーした並行世界……?」
それとも――本来、自分たちが体験するはずだった出来事なのか。
「っけほ……」
喉が張り付いてむせかける。
いつも以上に、喉がからからに乾くのは、夏のうだるような暑さのせいだけではないはずだ。
樹は脂汗なのか、冷や汗なのか、自分でも分からないじっとりとした汗を額に滲ませながら、ただ、学校へと向かって足を動かした。
自分のいる世界の輪郭が、急に曖昧になったような気がした。