ep.28 静かな秘密基地
お盆休みに向けて、相沢家はにわかに浮き足立ち始めていた。
親戚一同が集まる数日間のために、祖母と母親は、朝から家の中をぱたぱたと忙しそうに動き回っている。
客用の布団を干し、食材を買い込み、家中の大掃除。
夏の静かな田舎屋敷が、久しぶりに活気づいていた。
その喧騒から逃れるように、樹は図書委員の仕事のため、と外出の支度をしていた。
自室のドアに手をかけた、その瞬間だった。
ざざっ、と砂嵐のようなノイズと共に、唐突にビジョンが脳裏をよぎる。
――どこに行くの!
母親の、ヒステリックなほど甲高い声。
ドアの向こうに、確かに母親と同じエプロンが見えた。
――危ないからやめてちょうだい……!
コードを引き抜いたように、ビジョンが途切れる。
樹は無意識にすくめていた肩から、ゆっくり力を抜いた。
「……危ない?」
樹は、びくびくとしながら階下へ降りた。
台所で忙しそうに夕食の準備をしている母親の背中に、おそるおそる声をかける。
「じゃあ、僕、ちょっと学校、行ってくる……」
「あら、はーい。いってらっしゃい。あまり遅くならないようにね」
振り返った母の顔は、ビジョンとは似ても似つかない、いつもの穏やかな笑顔だった。ビジョンの「予知」通りであれば、怒られるはずだ。
完全に肩透かしを食らい、樹は「何だったんだ、今の……」と首を傾げながら、玄関の引き戸を開けた。
学校の図書室では、司書の先生と数人の委員仲間が、新刊の受け入れ作業に追われていた。樹も黙々と本を運び、ラベルを貼り、書架の古い本と入れ替えていく。
淡々と、順当に進む作業の時間。
昨日までの心臓を揺さぶるような事件から切り離された、穏やかで平和な時間だった。
ふと、樹の視線がカウンターの内側にある、新聞の縮刷版が収められたスチール製の棚に吸い寄せられた。灰色の世界で淡く光っていた棚だ。
樹は休憩の合間に、そっとその引き出しの一つを開けてみた。
現在の図書室にある最新版は、『2014年 4月-6月』版まで。
灰色の世界で、何者かによって引きちぎられていた、お盆明けの数日分の記事。『7月-9月』版が収められるのは、おそらく十月の末頃になるだろう。
誰が、いつ、なぜ、ページを破り捨てたのだろう。
これから自分たちの世界で、誰かが同じページを破ることになるのだろうか。
「忘れないように、覚えておこうっと……」
樹はそっと引き出しを閉めると、再び、書架整理の作業へと戻った。
*
本日の図書委員の作業は、二時間ほどで終了した。
まだ、時計の針は午前中を指している。
今から帰宅すれば、昼食の支度や、お盆の準備で忙しい母親から、あれこれと手伝いを言いつけられるに違いなかった。
樹は自宅へと続く分かれ道から逸れると、山裾に沿って伸びる――秘密基地の神社へと導く、静かな道を踏み出した。
八月に入り、夏休みで帰省する家族が増えたのか、町はいつもより少しだけ人口密度が高い。相沢家の両隣からも、普段は聞こえない子供たちの甲高い声が聞こえ、見かけない県外ナンバーの車が路肩に停まっていたりする。
だが、神社までまっすぐ伸びるこの道は、別世界のように静かだった。
たまに運送の大型トラックが通り過ぎるくらいで、人通りはほとんどない。
途中にあるヤマグチ商店でさえ、この静けさの中でどうやって商売が成り立っているのだろうかと、心配になるくらいだ。
そのヤマグチ商店に、今日は珍しく客がいた。作業着姿の男が、軒先のアイスボックスを覗き込んでいる。店の引き戸からは、ドリンクや菓子を詰め込んだビニール袋を抱えた親子連れが出てきたところだった。
樹は、その賑わいを横目に通り過ぎ、秘密基地へと続く石段を上り始めた。
一時間だけ、ここで読書をしてから帰ろう。
そう決めて、いつもの濡れ縁に腰掛ける。
まもなく、石段の下の方から、「ママー、神社があるー!」という子供の声が聞こえてきた。
「荷物がたくさんあるから、お参りはまた今度にしましょ」と、少し疲れた母親の声が返す。
長く険しい石段が、人々をこの場所から遠ざける。
それが、樹にとっては好都合だった。
今年の初春に東京からこの町へ越してきた頃、樹はずっと一人だった。
友達はいない。あえて作ろうとも思わなかった。
高校に入学してからも、町の人とも、クラスメイトとも、時には家族とさえ距離を置き、この場所で、一人きりの静かな時間を過ごしていた。
そこに、湊が、闖入してきたのだ。
正確には、先に湊がここを「秘密基地」にしていて、後から樹が入り込んだ。
湊は、樹を受け入れてくれた。
初めてここで遭遇した日、気まずさから場所を譲ろうとした樹の袖を、「待てよ」と掴んで引き止めた。
「ここ、俺たちの秘密基地にしようぜ」
太陽みたいに笑う彼に、戸惑ったのを覚えている。
クラスでも中心的なグループにいる湊が、なぜ、こんな寂れた神社を好むのか。最初は不思議でならなかった。
けれどその疑問は、二度、三度と顔を合わせるうちに、自然と消えていった。
静かに本を読む樹の隣で、湊もただ静かに過ごす時間があることを知ったからだ。
アイスを齧ったり、ソーダを飲んだり。
時には、寝転がって「お前も寝転んでみろよ。空が近くて気持ちいーぜ」と空を眺めたり。
またある時には、「まーた難しそうな本、読んでんな」と樹が読んでいる本を覗き込んではくるが、日によってはほとんど言葉も交わさず、「じゃ、またな!」とだけ言って、風のように帰っていくこともあった。
大型連休を迎える頃には、ここで一緒に宿題をするようになり、梅雨の頃には、赤点を取ると夏の大会に出られなくなるからと、拝殿の屋根を借りて湊のテスト勉強に付き合うのが、当たり前になっていた。
湊との接点は、すべて、この神社の中で完結していた。
学校での湊は、クラスの友人たちや、部活の仲間と過ごしている。
樹は一人で、教室や図書室の片隅で本を読む。
二人の動線が、神社の外で交わることは、ほとんどない。
そんな、常にどこかで距離があった二人の関係に大きな変化をもたらしたのが、夏休みを目前にして現れた、あの灰色の世界だったのだ。
樹は濡れ縁から、今は固く閉じられているお社の扉を振り返る。
あの扉の向こうに、二人だけの秘密の世界がある。
「……神様が、願いを叶えてくれたのかな、なんて」
自分で口にした途端、あまりに感傷的な響きがして、樹はくすぐったくなった。
照れ臭さを隠すように、視線を手元の文庫本へと戻した。
正午を過ぎ、太陽が真上から容赦なく照りつける。木々の葉の影は、足元で黒々と短くなった。
風が止み、境内の空気はじっとりと熱を帯び始める。
蝉の声がスコールのように、世界に満ちていた。
夏の頂点のような時間の中で、樹は、ただ静かに、本のページをめくっていた。