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ep.1 高校一年生の夏

 石段を一段上るごとに、外界の熱と喧騒がすうっと遠ざかっていく。

 鳥居をくぐり境内に踏み入ると、そこはまるで分厚い緑の屋根に覆われたドームのようだった。幾重にも重なった木々の葉が強い日差しを遮り、地面に落ちる光は柔らかく、まだらな影を落としている。

 地表を灼く熱風はここには届かず、苔と土の匂いをかすかに含んだ、澄んだ空気に満ちていた。


 高校一年生の相沢樹は、高台の境内にぽつんと建つお社の濡れ縁に腰をおろし、膝に教科書を開いた。木々を抜けてきた風が火照った肌に心地よい。ここは、迫る期末の憂鬱を遠ざけてくれる、樹にとっての静かな聖域だった。


 傍らに置いた学生鞄から、生徒手帳の角が少しのぞく。ビニールのカバーに挟んだ身分証には、真面目くさった黒髪の顔写真と「発行 平成二十六年 四月吉日」と印字がされている。高校に入って、もう三ヶ月が過ぎていた。


 単語帳に意識を沈ませていた、その時だった。

 砂利を踏む軽い足音が近づき、目の前の地面にひょいと影が落ちた。


「よっ、樹。またいんの? 暑くね?」


 顔を上げると、声の主が太陽を背にして立っている。逆光で表情は見えにくいが、少し色の薄い茶髪のシルエットと快活な声で、すぐに誰だかわかった。

 同じクラスの、瀬戸口湊。


「期末の勉強か?」

 湊は言いながら、返事を待たず樹の隣にどかっと腰を下ろした。ふわりと、汗と制汗剤の混じった、清潔な夏の匂いがする。樹は思わず身を固まらせ、膝に乗せていたノートが滑り落ちかけた。


「……湊……別に、大丈夫……」

「しょっちゅうここにいるのに、あんま日焼けしないよな、お前」


 言うが早いか、湊は自分の腕を樹の腕にぴたりとくっつけてきた。

 じかに伝わる体温。運動部らしく日に焼けて引き締まった湊の腕と、木陰にばかりいる自分の、頼りないほど白くて細い腕。その対比に、樹の頬がかっと熱を帯びる。


「……余計なお世話だ」

 気恥ずかしさから腕を引こうとするが、隣に密着した肩と腕に阻まれて身動きが取れない。この状況から抜け出したくて、樹は慌てて話題を変えた。


「湊、部活は?」

「今日はもう終わり。夏大会、あっという間に終わっちまったからな〜。みんなちょい気ぃ抜けてる感じ」

「あ……そっか」


 悪いことを聞いた、と樹は少し声を落とす。田舎の弱小校の、弱小バスケ部。地方予選の二回戦で早々に脱落したと聞いていた。


「せっかく樹に勉強教えてもらって追試回避したのに。なんか悪ぃな」

 湊はくしゃっと笑って、手にしたものを掲げた。

 水色の、二本棒のソーダアイス。


 湊は片方の棒を樹に持たせ、手首のスナップをきかせて棒を手前に引いた。しゃくり、と小さく音がして、ソーダアイスは歪に割れた。樹の手元には大きい塊が残り、湊側の棒には申し訳程度の氷がくっついているだけ。


「えっ、あ、いや……いいよ、僕、こんなにいらないから」

 樹が大きい方を返そうと差し出す。

「いいのいいの。ベンキョーのお礼ってことで」

 すでに溶け始めた人工的な青色の雫が、湊の手の甲と、手首につけたブレスレットに垂れた。湊はそれを気にもせず、自分の手の甲をぺろりと舐めとる。


「あ、ご、ごめん」

 樹は慌ててソーダを口に含む。安っぽい甘さが、火照った頬の内側にじんと広がった。


 それを見て湊が「おし。契約成立。期末のヤマ、教えろよな」と、歯を見せて笑う。憎めない表情に、樹もつられてふっと口元がゆるんだ。


「樹は、図書委員は?」

「期末終わるまでは、特には……」


 クラスの中でも目立つ湊と、教室の隅で本を読んでいるだけの樹。

 接点などないはずだった。


 高校入学と同時に、病弱な樹は都内から父方の故郷であるこの町へ越してきた。

 地元の友達は一人もいない。

 元来の思索的な性格も手伝い、教室ではいつも物静かに過ごしていた。


 都会から来た青瓢箪。そんな風に見えているのか、クラスメイトはどこか樹に遠慮がちで、まともに言葉を交わす相手はほとんどいなかった。


 一方の、湊。

 樹は、少し高い位置にある横顔を見上げる。


 着崩した制服の開いた襟元から覗く、日に焼けた首筋。

 運動部らしい、しなやかな筋肉のついた腕。

 そして、アイスを頬張る、どこか幼い横顔。

 声も仕草も明るい、いかにも「青春してる高校生」を体現している。


 きっかけは、この神社だった。


 友達のいない教室の喧騒も、女子たちがひそひそと囁き合う図書室も、家の無機質な勉強机も、時々、ひどく樹を窮屈にさせた。

 そんな時は、いつもここへ逃げてきた。

 誰にも邪魔されず、本の世界に没頭できる場所。


 高校に入学して一月ひとつきも経たない四月のある日。その日も樹が一人で読書に耽っていると、軽い足取りで石段を二段飛ばしで湊が駆け上がってきたのだ。


「あれ、相沢?」

「ごめん、瀬戸口くんの秘密基地だったんだね……」

 初めてここで遭遇した日、気まずさからそそくさと場所を譲ろうとした樹の袖を、湊は「待てよ」と掴んで引き止めた。


「いいな、それ。んじゃ、ここ、俺たちの秘密基地にしようぜ」

 その時も湊は、太陽みたいに、にかりと笑った。


 それ以来、二人は時おりここで、ただ短い時間を共有するようになった。


 学校では共通の友達もいなく、教室で言葉を交わすこともほとんどない。

 けれどここでは、他愛のない会話も、沈黙も苦ではない。

 そんな、不思議な関係が続いていた。


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