ep.27 ソーダ
早野明里の命を救うという、一大作戦を成功させた翌朝。
樹は障子を通して差し込む、柔らかな夏の光の中で目を覚ました。
昨夜の出来事が、まるで遠い昔の夢のようにも、ついさっきの現実のようにも感じられる。
樹は首だけ起こして枕元の携帯電話を手に取ると、湊へメッセージを送った。
『おはよう。昨日はお疲れ様。今日はどうする?』
三分と経たないうちに、短い返信が届く。
『何言ってんだ 今日はゆっくり休んでろよ!(怒った顔文字)』
ここ数日、二人は毎日のようにあの灰色の世界へ通っていた。
しかも、このところ遭遇するのは人の命に関わる、重く厳しい「事件」ばかりだ。
湊は、凄惨なビジョンを立て続けに浴びている樹の心と体力を、案じてくれているのだ。
その気遣いに触れた途端、なんだか身体がふわふわする感覚に気が付く。
熱があるわけではない。
意識だけが、柔らかなスポンジの上にいるかのように、現実から少しだけ浮遊している感覚があった。
昨夜、クラスメイトの命を救ったのだという「大仕事」の、これは一種の高揚感なのだろうか。
それとも、精神的な疲弊からくる、知恵熱の予兆なのかもしれない。
樹は少し迷ったあと、『ありがとう。じゃあ今日はお休みにしよう』と返した。
湊だって、いつも仲良くしているグループの友達が殺されていたかもしれないのだ。
いつも明るく振る舞ってくれているけれど、心に重く響いているに違いない。
「……そういえば今週、図書委員の当番だったな」
ベッドの上でごろりと寝返りを打った時、壁に掛けられたカレンダーが目に入った。そして来週の欄に書かれた『お盆休み』の文字に、はっとする。
お盆には、東京から親戚が遊びにくるし、父親もまとまった夏休みを取る。この時期は例年、家族や親戚と過ごすことが決まっていた。
きっと、瀬戸口家も同じだろう。
この町ではお盆になると、どこの家庭もそうで、多くの店が閉まる。
町全体が静かな夏休みに入るのだと、祖父母が言っていた。
去年の今頃は、東京で過ごしていた。
同じ夏なのに、東京とこの町とでは時間の流れ方そのものが、全く違うように感じられる。
「……またしばらく、『落とし物探し』はお休み、か」
ぽつりと、独り言が漏れた。
二度、三度と樹は寝返りを打った。
身体を休めようと思っても、胸の奥底では、昨夜の熱がまだ燻り続けている。
身近な場所で起きていたかもしれない大事件の余韻が、まるで濃いカフェインのように、樹の思考を眠りから覚醒させていた。
犯人は、まだ、この町のどこかにいるかもしれない。
イズミちゃんを連れ去ろうとした犯人だって。
夏の穏やかな朝には不釣り合いな事実ばかりが、樹の脳裏を駆け巡っていた。
*
相沢家の、家族そろっての朝食の席で、話題はやはり近づくお盆休みのことだった。
親戚が集まるその一大行事の取り仕切りは、主に祖母と母親の仕事となる。
「その前に、お客様用のお布団を干さないといけないから、おじいちゃんやお父さんだけじゃなく、樹もちょっと手伝ってちょうだいね」
力仕事は男手が必要だ。
祖父は他にも近所の商店へ酒や食材の手配の仕事を任されている。
掃除は弟も含めて、みんなでやる決まり。
家族それぞれに、ちゃんと役割があるのだ。
「わかった。今週は図書委員の当番で何回か登校しなきゃいけないから、その時間は外してもいい?」
「あら、そうなの。そんなこと言って、湊くんと遊びに行ったりしちゃだめよ?」
母のからかうような視線に、樹は少しムキになって反論した。
「そんなことしないってば。湊だって、部活の練習とかで忙しいんだから」
だが、母親には息子の浅はかな魂胆などお見通しだったのだろう。
図書委員の仕事を言い訳に、家の作業をサボって外に出ようという下心がなかったと言えば、嘘になる。
朝食が終わって自室に戻ったものの、樹の心は手持ち無沙汰だった。
夏休みの宿題は、七月のうちにほとんど終わらせてある。今は机に向かう気分になれなかった。
樹は読みかけの文庫本を数冊と、調査ノート、そして筆記用具をトートバッグに放り込むと、水筒に冷たい麦茶を注ぎ、誰にも何も言わずに家を出た。
向かったのは、もちろん、秘密基地の神社だった。
いつもの日陰の濡れ縁に一人で腰掛け、ノートを開く。
風が、ちりん、と拝殿の軒先に吊るされた錆びた風鈴を鳴らした。
白紙のページに、さらりと一言、書き記す。
『犯人は?』
早野明里の被害は未然に防ぐことができた。
けれど、彼女を狙っていたかもしれない人物が存在している以上、根本的な解決にはなっていない。
だけれど事件を起こしていない以上、正確には「犯人になるはずだった人物」でしかないのだ。
「……特定できたとしても、何もしていない人を『逮捕してください』なんて無理な話だし、かと言って、僕たちでずっと見張ってるわけにもいかないしな……」
独り言が、静かな境内に虚しく響く。
朝のうちはまだ静かだった蝉たちが、時間の経過とともに、じわじわとその鳴き声を強め始めていた。
モヤモヤと答えの出ない思考を巡らせていると、石段の向こうから、がしゃん、と景気よく自転車を倒す音がした。続いて、二段飛ばしで駆け上がってくる、軽い足音。
「……湊?」
予想通り、鳥居の向こうから、湊の少し色素が薄い、柔らかな髪が見えてきた。最後の数段を一気にジャンプして飛び上がると、そのしなやかな身体が軽やかに境内に着地する。
「あれ、樹じゃん」
その顔には、予想外、と書かれていた。
手には食べかけのソーダアイスと、サイダーのペットボトル。他に荷物はない。
「休んでなくて、大丈夫なのかよ」
湊は小走りに駆け寄ってくると、軽い身のこなしで樹の隣の濡れ縁に飛び上がって腰掛けた。
「う、うん。病気ってわけじゃないから……。それに、ちょっと、落ち着かなくて」
「ま、気持ちは分かるけどな。俺も、ここで頭冷やそーと思ってさ」
「部活とか、おばあちゃんのことは、大丈夫なの?」
「部活は明日から。ばあちゃんのこと、心配してくれてありがとな」
少し困ったように、湊の眉が下がる。
「最近は、姉ちゃんと兄ちゃんが帰ってきてて、施設の準備とかしてくれてんだけど、まあ、しょっちゅう二人でケンカしてるわ。姉ちゃんが、『東京なんかやめて、もっと近いところで仕事探せば』って言うんだけど、兄ちゃんは東京にこだわってるんだよ」
湊の兄が東京でブラック企業に勤めている、という話は聞いていた。
「兄ちゃん、大学からずっと東京なんだ。昔から、この町から出たいって言ってたし」
「そっか……。あ、でもさ」
樹の脳裏に、灰色の2025年の世界で見た、瀬戸口家に停められていた、品川ナンバーの車と大型バイクが浮かんだ。
「もし、あの世界が僕たちの未来なら、近いうちに帰ってくるのかもよ」
「どうだろうな~。兄ちゃん、頑固だからな。やっぱ、あの世界は俺たちの未来とは、ちょっと違うのかも」
湊の瞳が、樹の手元にあるノートを覗く。
湊の眉根が、わずかに顰められた。
「あ……」
慌てて、樹は紙面を手で隠した。
「別に、本気で犯人探しをしようってわけじゃないよ。ただ、考えを整理してるだけで……」
「樹」
湊の手が、紙面を隠す樹の手に、重ねられた。
「絶対に、一人で危ねぇことしようとすんなよ」
ぐっと、湊の指先に力が籠る。
樹の細い指ごと、ノートの紙が、くしゃりと音を立てて歪んだ。
「し、しないよ。絶対に」
樹が、大げさに首を横に振って見せる。
「結局、何もしていない人を、僕たちがどうこうすることなんて、できないんだから」
「なら、いいけどさ」
どこかほっとした顔で、湊は樹から手を離した。
その手で、隣に置いていたサイダーのペットボトルを差し出す。
「サイダー、半分こしようぜ」
「あ、ありがとう」
受け取ったボトルは、夏の空気でびっしょりと汗をかいていて、ひやりと冷たかった。
指から伝う水滴が、火照った肌に心地よい。
「いただきます」と呟いて、樹は飲み口に口をつけた。
弾ける炭酸と、少しだけ人工的な、けれど、懐かしい甘さが口の中に広がる。
湊と過ごす、特別な夏休みそのものの味のようだった。
参道を、心地よい風が吹き抜けていく。
しばらく二人は言葉もなく、涼やかな静寂と沈黙を、分け合っていた。