ep.26 間一髪
その日の夜。
一台のセダンが夜の闇に沈む田舎道を進む。
樹は父親に頼み込んで車を出してもらい、瀬戸口家で湊をピックアップすると、そのまま、単線のローカル線が終点となる駅へと向かった。
虫の声だけが響き渡る暗闇の中に、ぽつんと駅の明かりだけが、蛾を集めて白く浮かび上がっている。
駅前と言っても、立派なロータリーなどない。屋根もない標識だけのバス停が、道の両脇に寂しく立っている。
昼間は人の出入りのあった商店も、今は固くシャッターを下ろし、ただの黒い箱となって静まり返っていた。閉まった商店の軒先に、一台の錆びついた軽トラックが、エンジンをかけたまま停まっていた。誰かが帰ってくるのを待っているようだった。
父親に、車道脇に停車させて待機してもらい、樹と湊はバス停へと向かう。
時刻は、夜の八時三十分を少し回ったところ。早野明里が乗る最終バスまでは、まだ三十分以上ある。
「ちょっと、早かったかな」
樹が呟く。二人は、最終電車の到着時刻を確認しようと、無人の改札口の近くに貼られた時刻表へ向かった。
その時、駅の手前で大きくカーブした線路の向こうから、力強いライトが差してきた。
やがて、ゴトン、ゴトン、と重い音を立てて、二両編成の短い電車がホームに滑り込んでくる。車内はほとんど空席で、がらんとしていた。先頭車両のドアのそばに、窓の明かりに照らされた、明るい髪の色が見える。
電車のドアが、気の抜けた音を立てて開く。
そこから、両手にテーマパークの名前が入ったカラフルな紙袋をいくつもぶら下げ、頭にはキャラクターの耳がついたカチューシャをつけたままの女子生徒が、ホームに降り立った。
無人の改札を抜け、きょろきょろと辺りを見回す女子に向かって、湊が「おーい」と声をかけ、大きく手を振った。
暗がりから唐突に聞こえた声に、女子――早野明里は、びくりと肩を跳ねさせる。だが、相手が湊だと気づくと、その顔がぱっと花が咲くように明るくなった。
「ミナト!? え、なんで!? って、相沢くんも??」
隣に立つ樹の姿にも気づき、アカリは「なんで、なんで」と繰り返しながら、駆け寄ってくる。
「たまたま俺らも用事があったんだけどさ。アカリがこの時間に帰るって、そういえば言ってたなって思い出して」
湊の淀みない嘘に合わせ、樹も口を開く。
「僕のお父さんの車があるから、良かったら、家まで送ってくよ」
樹が車道に停車しているセダンを指差すと、それに気づいた父親が、車外に出てひらひらと手を振ってくれた。
「え! マジで!? 嬉しい~~! バス、だいぶ待たないとだったから、ちょー助かる!」
三人は、車へと向かう。
アカリは、樹の父親にも「相沢くんパパ、こんばんは!」と、元気いっぱいの声を張り上げた。楽しい一日の余韻か、終始テンションが高かった。
車は夜の静かな道を、ゆっくりと走り出す。
後部座席ではアカリが、テーマパークで何が楽しかったか、何が美味しかったかを、身振り手振りを交えて喋り続けている。
「ていうかー、ミナトと相沢くんって、仲良かったんだ。知らなかった~。こんな時間まで、二人で何してたの?」
「あはは……えーっと、そうだ、宿題を一緒に――」
助手席に座っていた樹が、後部座席を振り返る。ちょうどその時、後部座席の窓の向こう、先ほどまで駅前の商店の前に停まっていた軽トラックが、ヘッドライトを点灯させ、自分たちの車とは逆の方向へ、走り出すのが見えた。
あの電車から降りてきた乗客は、アカリ、ただ一人だったはずだ。
「……」
言いようのない違和感と、冷たい感触が背筋を這い上がる。
樹は、遠ざかっていく軽トラックの赤いテールランプが闇に消えるまで、その行方をじっと見つめていた。
*
「あ、相沢くんパパ! そこ右に行っちゃうと山に入っちゃうんで、左お願いしまーす!」
後部座席から、アカリの元気な声が飛ぶ。
Y字路に差し掛かったところで、樹の父親は言われた通りに、住宅街へと続く左の道へとハンドルを切った。
程なくして、アカリの家に到着する。
「まあ、湊くんまで! いつも仲良くしてくれてありがとうね。相沢くんも、お父様も、本当に助かりました」
わざわざ母親が出てきて、何度も三人に頭を下げてくれた。
「ありがとうね! おやすみー!」
アカリが玄関の中から、ぶんぶんと大きく手を振る。
「おう、またなー」
「おやすみなさい」
湊と樹も、それぞれ手を振り返した。
アカリが母親と一緒に、温かい光が漏れる玄関の中へ入っていく。
パタン、と軽快な音を立ててドアが閉まるまで、二人は、じっとその光景を見送った。
すると、湊のハーフパンツのポケットが、ぼうっと、淡い光を放つ。
湊が取り出したのは、例の黒いスポーツウォッチ。
時計の輪郭が輝く無数の粒子となって、ホタルのように夜空へと吸い込まれていった。
「……やった。成功だね……!」
樹が、安堵の息と共に呟いた。
「ああ。アカリのやつ、世話が焼けるよな、マジで」
呆れるように笑う湊の横顔には、心からの安堵が滲んでいる。
二人は同時に早野宅にくるりと背を向けて、車へと戻って行った。
帰り道、先ほどのY字路に差し掛かる。
「お父さん、ちょっとだけ、止まって」
樹が助手席から前方を指差した。
「こんなところでか?」
疑問符を浮かべながらも、父親は路肩にゆっくりと車を寄せた。
樹は車に積んであった懐中電灯を手に取ると、後部座席の湊に目配せする。
「ちょっと、見てきたいところがあるんだ」
二人は車を降りると、先ほどアカリが「山に入っちゃう」と言っていた、右側の舗装されていない暗い道へと足を踏み入れた。樹が懐中電灯で前方を照らすと、暗闇の中に細い山道が、黒い口を開けてまっすぐに奥へと続いているのが分かった。
アカリが殺害された場所は、この山道と、住宅の裏手にある雑木林の間だったはずだ。
「……僕、ちょっとおかしいと思ってたんだ」
樹は、暗い道の先をライトで照らしながら、呟く。
「何が」
「早野さんは、駅からバスで帰るはずだった。バス停から自宅まで、正面側の道を歩くと思うんだ。そこで襲われて逃げるとしても、家屋の間を通って、裏道を横切って、雑木林へ逃げるなんて不自然だよね。本当は逆で、山道に連れていかれそうになって、住宅がある方へ逃げようとしたんじゃないかな……」
樹の声が、徐々に震えはじめる。
「電車の終電が到着してから、バスの最終まで、三十分近くも時間が空く。今日の僕たちみたいに、『送ってくよ』って声をかけられたら……。荷物もたくさんあるし、一日遊んで疲れてるし、乗っちゃうよね……」
「……樹、お前、推理小説も好きだったりする?」
湊が、ごくりと喉を鳴らす。
「じゃ、顔見知りが犯人ってことか?!」
「かなぁ……いくらなんでも、まったく知らない人の車には乗らないと思うけど、どう、だろう」
「……アカリなら、「おじさんのこと覚えてるか?」とか言われて簡単に信じそうだな……」
湊の顔が、険しくなる。
駅前の、閉まって暗くなった商店の前に止まっていた、軽トラ。
誰かを待っていたでもないのに、同じタイミングで反対側へ走り去って行った。
まさか。
樹は、心から安堵して、深く、深く、息を吐き出した。
「本当に、早めに行って良かった……。駅とバスの接続が、あんなに悪いなんて、想定外だったから」
もし、自分たちが間に合わなかったら。
もし本当にあの軽トラックの運転手が犯人ならば、先にアカリを乗せて出発してしまっていたかもしれない。
ぞっとするような想像を振り払い、二人は父親が待つ車へと急ぐ。
懐中電灯を消すと、夜の闇が背後を包み込んでしまった。
「……マジ、良かった……ありがとうな、樹」
ふいに伸びてきた湊の手が、樹の腕をぐっと掴む。
腕から伝わる力強さと、少し汗ばんだ湊の手のひらの温度。
言いようのない安心感を覚えて、樹は黙って頷いた。