ep.24 作戦
元の世界に帰還しても樹の脳裏には、灰色の雑木林で見た悪夢のような光景がまだ焼き付いて離れなかった。
二人は重たい空気を背負ったまま、神社の石段を一歩一歩、確かめるように下りていく。
「被害者の子って、どんな人だったか、特徴わかりそうか?」
先に沈黙を破ったのは、湊だった。興奮を抑え込んだ声は、語尾が少し震えている。
「……爪が、赤かった。それと手首に、じゃらじゃらしたアクセサリーがたくさん……キャラクターのチャームみたいなのがいっぱいで」
「――あ……」
隣を歩いていた湊が、不意に、ぴたりと足を止めた。
「……アカリ、かもしれねぇ」
アカリこと、早野明里。
湊がよくつるんでいるクラスのグループの一人で、髪を明るい茶色に染めた、快活な女子生徒だ。
彼女の手首にはいつも、たくさんのキャラクターもののブレスレットが巻かれていた。爪は校則違反だと怒られても、いつも赤く彩られていた。
「……あの雑木林、あいつん家がある方角なんだ。それに今日、『ユメステ行くんだ』って前から自慢してたから、その帰りかもしんねぇ」
ユメステとは、市内に新規オープンしたテーマパークの愛称だ。正式名称は、ユメミ・ステーションという。
「……ってことは、事件が起きるのは、夜?」
二人は同時に、真夏の太陽がぎらつく空を見上げた。
まだ日は天頂に達する前。事件が起きるまで、まだ時間がありそうだ。
「早野さんに電話して、本当にユメステにいるのか確認しよう」
恐怖で麻痺しかけていた思考が、急速に回り始める。
樹の口調は、戦略を立てる参謀かのように早口になっていた。
「それで、帰る時間を聞いて、僕たちで迎えに行くんだ。家まで送れば、被害に遭わずに済むよ」
「……お前天才! そうしよ!」
言うが早いか、湊はポケットから携帯電話を取り出すと、慣れた手つきで電話帳を開き、『アカリ』の名前をコールした。
五回のコールの後、回線の向こうから、周囲の喧騒に負けない、甲高い声が聞こえてきた。
『もしもしー? なにー、ミナト? あたしいまユメステ! 激混みなんだけどー!』
「おー、楽しんでるとこ悪い! お前今日、何時ごろ帰ってくんの?」
『んー? 最終のバスには間に合うように帰るけどー? え、何? あたしに会いたいの? お土産はやく欲しい?!』
「ちげーよ。おけ、分かった。じゃな、気をつけろよ!」
『めちゃ楽しいからさ、今度ミナトも一緒しようよ! フードもめちゃ美味しいし――』
甲高い声を遮るように、湊が一方的に電話を切る。
「あいつ長くなるからさ」と苦笑しながら、湊は折りたたみ式携帯電話のパネルを閉じた。
二人は駅前のバス停へと向かった。
古びた時刻表を確認する。住宅街へ向かうバスの最終は、二十一時五分。
「九時前に来て、このバス停で早野さんを捕まえよう。僕、お父さんに頼んで車を出してもらう」
「それ、すげえ助かる! よし、作戦は決まりだな!」
湊は携帯電話をポケットに押し込む。そして、駅前の時計を一瞥した。
「ってことは、まだ、かなり時間あるな。樹、それまで、家で休んだ方が――」
湊の提案に、樹は首を横に振った。
「あっちの世界の、図書室に行きたい」
「でも、樹、お前……」
案じるように、湊は眉をひそめる。
樹にばかり辛いビジョンを見させてしまった罪悪感が、湊の中に残っていた。
「湊が励ましてくれたおかげで、もう大丈夫。それに、早野さんを助ける方法も見つかったしね! 元気になった」
樹は、まっすぐに湊の目を見て口元を綻ばせる。
「……樹」
一瞬、言葉を失った湊の瞳の奥が、小さく揺れた。
「確認したいことも、できたから」
行こう、と樹の手は自然と湊の、組紐のブレスレットが彩る手首を引く。
自分の決意が伝わるようにと、そんな気持ちを込めて、指先にきゅっと力を込める。
握られた手首に一度視線を落とした湊は、少し驚いたように瞬きをした。やがて顔を上げて樹を見つめ返すと、チョコレートボールの瞳をふっと細め、こくりと静かに頷いた。
*
灰色の世界の高校、その図書室は、時が止まったまま二人を待っていた。
しんと静まり返った空間に、二人の足音だけが、床に積もったガラスの粒を踏む「さくり、さくり」という乾いた音を立てて響く。
貸し出しカウンターの向こうでスチール製の書架が、今この死んだ世界で唯一の生命のように、淡い光を放っていた。
二人は、その光る棚へとまっすぐ向かう。
樹が一番下の引き出しに手をかけると、前回と同じように、音もなく滑るように開いた。中につめこまれた、地元新聞の縮刷版。樹は、迷いなく『2014年 7月-9月』と記された、分厚い一冊を引き抜いた。近くの閲覧机までそれを運び、立ったまま、ゆっくりとページをめくり始める。
事件が起きるであろう日は、8月4日の夜。
遺体が発見され、記事になるのは、おそらくその数日後。
樹は、8月5日、6日、7日と、指先で乾いた紙を一枚ずつ、慎重にめくっていく。
紙面に喰らいつくように視線を走らせる樹の横顔を、湊はいつもの軽口を封じて静かに見つめていた。
やがて、樹の指が、ぴたりと止まる。
2014年8月7日、木曜日。
夕刊の、社会面。
「……あ」
樹のかすれた声が、静寂を破った。
中ほどの、決して大きくはないが、しかし、無視できない太字の見出し。
「湊、これ……」
樹が紙面を湊の方へ向けようとする前に、湊は、そっと樹の隣に身を寄せてきた。肩が触れる距離で、並んで記事を覗き込む。
『女子高校生、山林に遺体 殺人・死体遺棄で捜査』
そこにあるのは、あまりに直接的で暴力的な見出しだった。