ep.23 暴力
翌日、二人は再び、秘密基地である神社で待ち合わせをしていた。
「付き合わせちゃってごめんね」
今日は灰色世界の図書室で、新聞の縮刷版などの貸し出し不可の資料を調べに行く計画だ。
「一人だと、やっぱり少し怖いから。一緒に来てもらえると、助かる」
「何言ってんだよ。一緒に行くに決まってんだろ? っていうか、ぜってぇに一人であっちに行くなよな!?」
湊の肩には、いつものように勇者の剣のごとくバットケースが担がれている。
「んじゃ、出発!」
「しゅっぱーつ」
二人は声をそろえて、お社の奥に揺らめく入り口を潜った。
揃って踏み出した身体が、ゼリーのような奇妙な抵抗感のある光の幕に包まれ、そして、灰色の世界へと吐き出される。
「っぐ、ぅ……」
灰色の世界に足を踏み入れた瞬間、湊が、うめき声を上げてその場に背中を丸めた。
一歩、二歩と前方によろめくと、拝殿の賽銭箱にどうと手をついた。
「え……み、湊!?」
樹は、慌てて湊の側に屈み込むと、その背中に手を当ててさすった。湊は、ぜえ、ぜえ、と肩で苦しそうに呼吸を整えている。
「どうしたの、どこか苦しい……?」
「なんか……すげぇ、痛い……」
「具合が悪い? 戻ろう、すぐに!」
「そうじゃなくて……」
湊は、苦痛に歪む顔を上げた。
その視線は神社の外、石段の向こう側へと向けられている。
樹は、はっとした。
「『落とし物』が、呼んでる……?」
湊が、こくりと、小刻みに数度頷く。
「痛い、苦しい、『助けて』って……今までで、一番やべえ……」
「大変なことが起きてるんだね……行こう、早く探そう!」
樹が立ち上がりかけた、その腕を、湊の手が強い力で掴んだ。
「待て!」
「湊?」
「これ、ぜってぇヤバいやつだ。……樹は、見ないほうがいい」
今までと、伝わってくる感情の質が、全く違う。
湊の眼差しには、いつもの余裕が、かけらもなかった。
「でも、視てみないと、原因も分からないよ?」
「それでもだ、 今回のは……かなり、えぐい気がする……」
「大丈夫」
樹は、きっぱりと言い切った。
「僕が痛いわけじゃない。誰かが、これから痛かったり苦しい思いをしないように、助けに行こう!」
「樹……」
その力強い眼差しに、湊は一瞬、息を呑んだ。
やがて、覚悟を決めたように、ぐっと唇を引き結ぶと、立ち上がった。
「……おっしゃ! 行くぞ!」
湊は樹の背中を、ぽんと力強く叩いた。
二人が向かったのは、川を渡った向こう側、町の西南に広がる古い住宅街だった。
夏の世界においてのその場所は、町の中心部である西北側と違い、山裾に古い家屋がまばらに点在する、ひっそりとした地区だ。街灯が少なく、いつでも鬱蒼と薄暗い。
右手に、夜になれば真っ暗になるであろう雑木林、その向こうは山の斜面が見える。
左手に、静まり返った家々。
その間の細い道を、二人は進んでいく。
「……?」
不意に、前を歩いていた湊が足を止めた。
「こっちから、何か感じる……」
右手の雑木林の方を、じっと見つめている。
やがて、左手の家並みが途切れたあたりで、湊は再び立ち止まった。
そして、山の斜面へと続く、木々が鬱蒼と茂る暗がりを指さす。
「……この奥だ」
二人は道を逸れて草木をかき分け、雑木林へと足を踏み入れた。
少し進むと木々の向こうに、軽トラックがなんとか通れるくらいの舗装されていない山林道が姿を現す。
二人が歩いてきた住宅地の裏道と山林道との間に、谷間のような窪地の雑木林が広がっていた。
その窪地の真ん中に、何かがぼんやりと光っている。
斜面を飛び降りた湊が光の元を拾い上げる。
それは、黒いデジタルのスポーツウォッチだった。
「男物の時計、かな?」
その隣に樹が追いついた、その瞬間――
「っ!」
樹の目の前が、暗転した。
――はぁっ、はっ、はっ……
誰かの、低い荒い息遣い。
――来んな! やだ! 触んじゃねぇよ!
恐怖に引き攣った、甲高い少女の悲鳴。
耳元で、ガサガサと、夏草が乱暴に掻き分けられる音がする。
夜の、雑木林。
必死で逃げるが、足がもつれ、地面に倒れ込む。
すぐに身体の上に、重たい何かがのしかかってきた。
馬乗りになられる。
――やめて!
見上げると、キャップの影に隠れた男の顔。
太い腕が、自分の首へと伸びてくる。
男の手首に巻かれた、黒いスポーツウォッチ。
必死に抵抗する、赤いマニキュアが塗られた指先。
細い手首にじゃらじゃらと巻かれた、カラフルなアクセサリー。
女の手が、男の腕を力の限り引っ掻いている。
始終聞こえてくる、誰かの低い、荒い息遣い。
――や、だっ……かはっ……
苦しい、息ができない、痛い、悔しい、助けて、助けて、助けて―ー
「うわ、うわぁあああああっ!」
樹は絶叫と共に、その場にへなへなとしゃがみ込んだ。
「樹!」
湊も慌てて屈んで、樹の肩に手を置く。
「やめ、来るな! やだ、っ!」
その手を樹はパニックのままに振り払った。湊の身体を押しのけ逃げようとするが、腰が抜けて、灰色の塵の中に倒れ込む。
「樹、俺だ! 湊だ!」
湊の手が、きつく樹の肩を掴んで揺さぶる。
「はっ、ひゅっ、はっ……くるし、息が……っ」
樹の脳裏に浮かんだビジョンの中の誰か――女が、首を絞められている。
その苦しさが、樹の身体まで蝕んでいくようだ。
もがくように両手で喉を掻きむしり、喘ぐ。
「樹、しっかりしろ! 俺を見ろ!」
湊は暴れる樹の身体を、正面から強く抱きしめた。
「大丈夫だ樹、大丈夫だから……!」
「はっ……は……ぁ……」
全身に感じる湊の体温と、力強い鼓動。
耳元で、湊の声で何度も繰り返される、自分の名前。
湊の存在が、悪夢の淵から樹の意識を力強く引き上げていく。
ガタガタと、身体の震えが止まらない。
これまでにない、圧倒的な恐怖だった。
湊は、樹が語り出すまで、何も言わず、ただ背中を、腕を、何度も何度も、ぽんぽんと優しく撫で続けた。
「……誰かが……」
やがて樹の喉が、途切れ途切れの声を絞り出す。
「女の、ひと……たぶん、女の子、……が、誰かに、追いかけられて……襲われ、て……っ」
語尾が、ひゅっと不自然な呼吸と共に霞む。
樹の肩を抱く湊の腕に、ぐっと力が入った。
「く、び……。首を……絞められて……」
樹は、ようやく顔を上げた。
すぐ目の前に、湊の、痛みを堪えるような心配そうな顔がある。
「戻ろう……。早く、行かないと……っ」
力の入らない脚を、自分の拳で何度も叩いて、喝を入れる。樹の脚は言うことを聞いてくれず、生まれたての草食動物のように、ふらふらと、たたらを踏んだ。
「捕まれ」
湊の腕が樹の脇の下に差し込まれ、抱き上げるようにして、ようやく立ち上がらせてくれる。それでも、しばらく樹の震えは収まらなかった。湊はハグをするような形で樹の身体を支え、ずっと背中をさすってくれていた。
何度目かの深呼吸の後――
「……ごめん……もう、行ける」
「……っし」
湊の手が、樹の背中を、肩を鼓舞するようにたたき、最後に正面から樹の頬を挟み込んだ。
「湊……っ」
真正面の至近距離にある日焼けした顔、湊の磨かれた琥珀色の瞳が、まっすぐ樹を見つめている。
ぺちぺち、と湊の両手のひらが、樹の頬を撫でた。
「頑張ろうぜ」
これから、酷い目に遭うかもしれない、誰かのために。
「――うんっ」
湊の手に引かれて、樹は雑木林から這い出る。
二人は神社の方角へ向けて、徐々に、スピードを上げていった。




